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Mita_Yonda_12 『セロトニン』と『君たちはどう生きるか』

死者の埋葬

1922年に発表され、のちに彼の代表作にして紛れもない世界文学の一角となる長編詩『荒地』の第一部に、T.S.エリオットが付けたタイトルである。

The Burial of the Dead 「死者の埋葬」

それからおよそ100年後の夏、本邦で最も注目された映画のタイトルは「君たちはどう生きるか」だった。

死者を生者が埋葬する。1922年、一度目の世界大戦を経験して荒廃しきったヨーロッパにおいてさえ、生は自明のものであった。ロンドンブリッジがその重みで落ちてしまいそうなほどの死を目の当たりにしてもなお、だ。

2023年、私たちは新型コロナウィルスの流行を(表向き)克服し、街は人々で溢れている。繁華街の大きな映画館のそばには若者たちがたむろして、ストロング系の缶チューハイをアイスボックスのカップに注いで一日中酩酊したまま、パコったりパコられたりボコったりパクられたりしていると聞く。
パコったりパコられたりボコったりパクられたりする若者たちがたむろする映画館には不気味な鳥のイラストに『君たちはどう生きるか』とだけ書かれたポスターや垂れ幕やデジタルサイネージが翻っている。

セロトニン

ミシェル・ウェルベックによる『セロトニン』はいわば「どう死ぬか」について書かれた物語だ。中年を過ぎ、自ら失踪を選んだ主人公はかつて関係のあった友人や恋人たちのもとを訪れ、あり得たかもしれない未来(という名の過去)にひとつひとつとどめを刺していく。彼は性欲と引き換えに致命的な鬱症状を緩和してくれる処方薬を服用しながら、それでも緩やかに死にむかっていく。

ありとあらゆるアレゴリーを駆使して行間に死の香りを漂わせるエリオットの『荒地』に対して、『セロトニン』には元恋人の奔放な性生活の描写にはじまり、フェラチオやアナルセックスについての詳細な記述、ガススタンドですれ違った二人組の若い女性との行為を妄想する場面などなど、「性」に関する描写に満ちている。それにも関わらずこの小説は冒頭の一文からすでに、避けようのない「死」を読者に予感させる。

 それは白く、楕円形で、指先で割ることのできる小粒の錠剤だ。

ミシェル・ウエルベック『セロトニン』

ウエルベックの言う「それ」とは何か。「それ」はエリオットの言う「残酷な月」だろうか。いやそうではないだろう。「残酷な月」の後には冬が来て、冬は僕たちを温めてくれる。

  四月はもっとも残酷な月で
  不毛の土地からリラが芽生え
  記憶が欲望を混ぜ合わせ、春の雨で
  生気のない根を奮い立たせる
  冬は僕らを温めてくれた
  忘却の雪で大地を覆い、干からびた球根で
  小さな命を養ってくれた

T.S.エリオット『荒地』

それでは「それ」とは「死」だろうか。
否、先述したとおり「それ」とは脳内のセロトニンの生成を助ける処方薬で、「それ」は致命的な鬱症状を遠ざけてくれる。
しかし、死を遠ざけ続けることが果たして「生きる」ということなのだろうか。仮にそうでないのだとすれば、セロトニンにおける語り手は物語の冒頭から生きてはいないことになる。
『セロトニン』はウェルベック史上最も美しい作品という触れ込みで売られている。わたしもそう思う。結末へと向けて描かれる語りの放物線はどこかターセム・シンの落下の王国の映像を想起させる。

つまり『セロトニン』とは、もはや生きていない語り手が自らを葬る=埋葬する物語なのだ。

うつろな人間

では、エリオットが1922年に埋葬しようとしたものはなんだったのだろうか?
それは大戦で失われた多くの無辜の魂だけではなく、The Hollow Menで描かれたうつろな人間だ。

わたしたちはうつろな人間
わたしたちは剥製の人間
寄りかかり合いながら
頭には藁くずが詰められて アァ!

T.S.エリオット『うつろな人間』

彼らは「生きて」おらず、空っぽで互いに寄りかかり合いながら、頭の中に炎上や陰謀論やゴシップやヘイトを詰め込んでいる。大人は常に過去の方を向いていて、子供たちは繁華街の映画館の傍で一日中酩酊している。

100年前、エリオットは荒廃した現在や過去ではなく未来を見通して、死者を埋葬したのではなかったか。
今、わたしたちは紛れもなくThe Hollow Menなのだし、終わりはそれこそ静かにやってきて、誰もそれに気づいていないだけなのではないか。

こんなふうに、世界は終わる
こんなふうに、世界は終わる
世界の終りは、
ドンとも言わず啜り泣きの一声で

T.S.エリオット『うつろな人間』

もしも仮に幸運にも、そうではないのだとしたら、わたしたちは常に自らに問うべきなのだ。
「君たちはどう生きるか」と。


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