友情と「ブッダの教え」
「善き友と共に生きることは、仏道修行の半ばではなく、すべてである」という仏教の創始者・釈尊(ブッダ)の言葉は有名であるが、友情について調べてみると、奥が深い。
釈尊が生きた古代インドで「友」は「ミトラ」といい、その抽象名詞を「マイトリー=友情」といった。そして、この「友情」は、慈悲の「慈=マイトリー」と同じである。つまり、慈悲という崇高な精神も、友だちの延長線上にあるということらしい。
友情という概念の成立について、仏教学者の増谷文雄はこう述べている。
――古代インドの都市ナガラは、いわばギリシアのポリスだった。これは、人類が単一種属から異なる人種、部族、文化の人間同士が付き合う形態の生活をし始めたことを物語っている。この異文化、異民族と互いが渡り合うために生れた概念こそ、友情であった。仏教は、この市民社会から生れた宗教である。部族、種姓、階級を超えた釈尊の言葉に、(移民と交易をする)長者などが心酔した。(『友情について』講談社現代新書)
「ブッダの教えに学ぶ」とか、最近何かと、初期仏教ないし原始仏教と言われる、釈尊存命中に比較的近い時期の経典の教え(スッタニパータとか)に触れた自己啓発書類が多い。上の増谷の指摘を読んで、初期仏教の教えにアーバンな感じがあって現代人に受けがよいのはなぜか、少々納得がいった。仏教は、友情という人間の普遍的な価値を基盤とするから、世界的な広がりをもったといえるし、それは、ここまで価値観が多様化した現代にあっても強みと言えるかもしれない。
まあ友情という言葉も射程が広い言葉であり、これについては以前書いたが(まんが「女子無駄」からの河合隼雄)、その時にも触れた河合隼雄が、こんなことも言っていて腑に落ちた。
(友人同士が)「互いに死すべき者と感じるとき、善悪とか長短とか、この世のいろいろな評価を超えて、束の間のこの世の生を共有している者に対する、やさしさが生まれてくる。このような意味で、深い友情は宗教的感情に近づいてゆく。素晴らしい友情物語を読んだときに、崇高な感動を感じたりするのも、このためである」(『大人の友情』朝日文庫)■