怒りはよくないことなのか
スーパーのレジに並んでいたら、一人のおばちゃんが、そのレジのお兄さんにキレていたのを目にしました。
「あんたが一個一個袋に入れてるから、並んじゃってんだよ!」「そんなのいいから早くしな!」
感情を抑え込まず、公衆の面前で、あそこまでキレるか。私は反射的にわいた嫌な思いすら、すっ飛んで、むしろ清々しく感じました。そして私たちは粛々とレジを済ませた品を袋に詰めていたのでした。
一方で、めったに怒らない人もいる。怒(いか)りの感情は人を傷つけることが多いから出さないほうがよい、それが美徳とも言われる。
偉人につきまとうイメージ:日蓮から
怒りをぶちまけたおばちゃんの姿が憎めないのは、なぜか。
正反対のような人物をもとに考えたい。歴史上の偉人、聖人とか賢人とか言われる人は、何かと高潔、静寂、禁欲、澄ましたイメージがつきまといます。
しかし、そうともかぎらない。
大聖人とか聖人と尊称される、鎌倉時代の仏教者・日蓮(1222-82)は、自身が怒りの感情を抱いた時のことを、弟子への手紙で回想しています。
それは、日蓮が鎌倉で、幕府要人ら大勢の武士に住居を襲われ、捕まえられた時のことです。日蓮は、襲ってきた者から、自分の懐の内に持っていた経典「法華経」の巻物を奪い取られ、それで顔を叩かれました。さらに連中から、自宅の経典をびりびりに破かれたり足で踏み倒されたと記しています。
数十人が周囲にいる中で、少輔房(しょうぼう)という人物に私日蓮が、法華経の第五の巻で打たれた時、心の内では、こうなるのも法華経を広めたためとは思ったけれども、いまだ私は凡夫なので、打たれている間、少輔房が持っている杖(=その巻物)を奪い取って、力があるなら、踏んで折って捨ててやろうかと思ったものである。しかしながら、その杖は法華経の第五の巻であられる(からそれはできない)。
私訳。「上野殿御返事」。『日蓮大聖人御書全集 新版』(池田大作監修、『日蓮大聖人御書全集 新版』刊行委員会編、創価学会)1891ページ、『新編日蓮大聖人御書全集』(堀日亨編、創価学会)1557ページ参照。
理不尽なことをされたら怒るのは当然だ。自らの感情を弟子に赤裸々に吐露する様子は、日蓮の遺文では枚挙に暇がありません。
このあと日蓮は捕縛されて斬首されかけるのですが、それも逃れ、佐渡に流罪されることとなります。この一連の命に及ぶ迫害を日蓮の遺文から見ると、日蓮は自身の感情をコントロールしながらも「自らの言動によって事態を変えていった」ことが分かります。それは「怒りをも使う」という姿勢が見て取れます。簡単に記します。
ーー捕縛され公衆の面前を罪人として連れ回されるなか、堂々とした振る舞いで、鶴岡八幡宮の前で幕府の守護神であった八幡神を叱咤する。呼びにやって駆け付けた弟子が号泣するのを諭す。夜中に竜の口という鎌倉郊外で斬首をされかける時、江の島の方の空から「月のように光った鞠のようなもの(=一説に牡羊座流星群)」が出てきて、怯えて逃げていく武士たちに対し「早く斬りなさい」と言うも返事がない。斬首は免れ、一時預かりで厚木に滞在中、酒を取り寄せて、ついてきた武士たちに振る舞っていたところ、念珠を捨てて、今後は念仏は唱えませんという者が出てきた。
(前掲『日蓮大聖人御書全集 新版』1230-2ページ、『新編日蓮大聖人御書全集』912-4ページ参照)
聖人と呼ばれる日蓮のこういう態度をどう解釈するかという議論はさまざまあります。私個人としては、同じ人間としての感情をもち、それをコントロールしたり克服するロールモデルとしての姿を示していると解し、日蓮への敬意としたいと思います。仏教、ことに法華経における仏は「弟子を自分と同じ境地にならしめたい」と誓っているからです〈注=文末〉。
聖書に描かれた怒るイエス
怒る姿は、キリスト教の聖書にも描かれています。ここでも、あの澄ました態度で布教に歩くキリスト教徒と、イエスの姿が対蹠的に思えるのです。(私は聖書については門外漢ですから詳しく教わりたいものです)
イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。(『新約聖書』、マルコによる福音書11.15-16等、新共同訳)
怒りは善悪に通じる
怒りは起きるもの。それをどう処理するか。
日蓮は「怒りは善悪に通ずるのである」(私訳、前掲『日蓮大聖人御書全集 新版』742ページ、『新編日蓮大聖人御書全集』584ページ参照)とも述べています(ここでもあるバラモンが神に対して怒りをぶつけて願いが叶った話が引かれている)。
怒りそのものを否定するのは、人間性を否定することになりかねない。また怒ったほうがよいこと、何かで解消すればよい怒り、無駄な怒りがある。その仕分けができたらしめたもの。
怒りにかぎらず、憎しみ苦しみ悔しさ悲しさなどの負の感情をコントロールしたロールモデルは、いろんなところにあるはずです。例えば、性暴力被害と闘ってこられた伊藤詩織さんの言動を、これまで私は断片的に拝見してきましたが、負に思える感情を、公益の原動力としていく実例として、勇気をいただきました。
(その負の体験、感情は、個人の問題に還元されるものではなく、社会の権力構造のなかで「作りだされた」ものである。とはいえ「だからこそ怒ったり泣いたりいいのに」と言うのは、被害者像の押し付けにもなりうるという話もされています。(インタビュー)何と闘ってきましたか ジャーナリスト・伊藤詩織さん 朝日新聞2020年2月6日付)
おばちゃんの無双っぷりから、真面目な話をしてみましたが、今回は着地に失敗している感があります……。いろんな負の感情が、いろんな形で宥められる世の中になればいいな。■
写真は漢和辞典「新漢語林」より
〈注〉上に引用したような言説については、「いや、これは日蓮が弟子に対してあえて(自身は思ってなくても)そのように言ったんでしょ」と、日蓮を私たち凡夫と同じ境地に貶めたくないと見てとれるような拝し方、解釈も見受けられる。しかしそれは、つまりは私たちと日蓮は違う人なのだ、人間のようで人間あらざる者として尊敬するということなのだろうか。怒りをはじめ、同じ人間としてそのような反応・態度を認めることのほうが、むしろ共感があるのではないか。日蓮自身が「自分が後世、神格化されることに自覚的であったか」どうかは私の問題意識の一つではあるが、日蓮は書簡で、自己について語る際、断定的に宣言する一方で、婉曲的な表現を使う場合があり、弟子や信徒に対し自身を高みに置くことを意図的に避けていたとも考えられる。