創作物で人を傷つけるということ
書き手として、人を傷つけるかもしれないということ。
読み手として、創作物に傷つけられること。
noteでいくつかの記事を読んだことをきっかけに、ここ数日、そのことについて考え込んでいた。
多分正解はない話なんだけど、私個人としての考えがまとまってきたので文章の形で残しておこうと思う。
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まず、書き手としてではなく、ふだんの生活で文章や映像、漫画といった創作物を楽しんでいる、ひとりの人間としての意見。
そういった立場に置かれたときの私は、創作物に傷つけられるという経験はあって当然だし、その経験が一概に悪いものかというと決してそうではない、と思っている。
例えば以前観た『ペルシャン・レッスン』(リンクは当時書いた感想記事です)という映画には――今までそういう風に捉えたことはなかったのだけれど、よくよく考えてみれば――たぶん私は傷つけられたのだと思う。辛い展開の連続に、映画館で観ていたにもかかわらず泣きすぎて過呼吸になりかけたし、その日からしばらくは眠ろうとするたびに映画の中のシーンがちらついて、悪夢ばかり見た。
映画でいうとほかにも、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とか、『パンズ・ラビリンス』とか、『グリーンマイル』とか。
観ている最中にひどくつらい、目を背けたい、逃げ出したいような気持ちになったり、その後も思いだすたびに気分が落ち込んだりといったことを「傷ついた」と言っていいなら、あれらの作品は間違いなく私に傷を残した。
いや、そんな有名なトラウマ映画、観ようと決めた時点で自分から傷つきにいってるんじゃん、と思われるかもしれないけれども。予想をはるかに超える傷だったのだ、正直。
でも、観なければよかったと思うか、と聞かれれば、答えは絶対にNOだ。もう一度観たいかと問われると、口ごもってしまうけれど。それでもそれらの作品から受け取ったものは、そこから受けた傷も含めて、私にとっては大切なものだ。それに、もしあれらから私に傷をつけた要素が取り除かれたとしたら、全くの別物になってしまう。それはもう、私が「観てよかった」と感じるあの映画ではない。
noteでも同じだ。さすがに過呼吸までいったことはないけれど、ほかの方の記事を読んでいて、壮絶な描写に胸を痛めたり、自分のつらい経験が蘇って苦しくなったり、コンプレックスを刺激されてのたうちまわったり、自分の価値観を否定されたように感じて悲しくなったり、といったことはいくらでもある。
でもそれらの作品から何かを得られれば、私は心から「読んでよかった」と思う。
何も得られずつらい気持ちだけが残ったとしても、その作品やそれを書いた方に対して「こんな傷つくものを読ませないでほしかった」とは思わない。その人にとってはその経験を作品にすることが必要だったのだろうし、私がその作品に傷つけられたのとは逆に、救われる人もいるかもしれないから。私がいつか救われた作品も、誰かにとっては同じように傷を与えるだけの存在だったかもしれないから。
もちろん、明らかに差別的だったり、読む人を傷つけてやろうという悪意がにじみ出ていたり、特定の方を誹謗中傷するような内容は例外だ。そういう作品には心底「こんなもの、世に出さないでくれ」と思う。
でも、それはむしろ「創作物によって傷つけられる」という話の範疇を超えて、別の論点――法律とか倫理とか――の話になってくるんじゃないかな。
ただ、これはあくまで私の感覚なので、もっと繊細な方なら話は別だとは思う。
私は創作物から傷を受けるのには慣れているし、それをある程度自分で癒すことができるけれど(気持ちが前向きになるような作品に触れたり、おいしいものを食べたり、湯舟にゆっくり浸かったり)、ご自身の経験や性格上、そうも言っていられないくらいの深い傷を負ってしまう人も中にはいるだろう。
けれどそんなことを考え始めると、ある疑問に行き当たる。
全ての人をまったく傷つけない創作物なんて、果たして存在するのだろうか、という疑問に。
作品の中で人が死ねば、大切な人を喪った経験のある人は傷つく。災害や犯罪が描かれた作品に触れれば、実際にそれを経験した人は傷つく。暴力描写や性描写が苦手な人は、それらが含まれる作品に傷つく。何かに成功した人や、何かを得ることができた人の喜びの声は、何かに失敗した人や、何かを得られなかった人を傷つける。何の変哲もない平和な日常描写さえ、つらい状況の只中にある人が読めば、傷つくかもしれない。
どんな表現に傷つくか、その傷によってどの程度の痛みを感じるかということには、人の数だけのグラデーションがある。だから作り手がいくら配慮を重ねたとしても、受け手を傷つけることを100%は防げない。
もちろん、この文章だって例外ではない。
今私はここで「創作物が人を傷つけるのを完璧に防ぐことはできないし、傷つくこと自体、一概に悪いことだとは思っていない」という話をしている。この主張に傷つく人だって、ゼロとは言えない。創作物によってひどく傷つけられたことがある人の中には、自分のその気持ちを軽んじられたと感じる人もいるだろう。冒頭に「誰かの感情を否定する意図はない」と書いてはいるけれど、誰もがそれで完全に納得できるほど、人間の感情は単純ではない。そして実際に誰かが傷つけば、いくら私が「そういう意図ではない」といっても、私が書いたものによって人が傷ついたという事実は変えられない。
正直、とても怖い。
読み手としては「まあ自分が傷ついてもしょうがないか」と思っていても、書き手の立場で、読んでくださる方に対して同じことが言えるかというと、話は全然ちがってくる。自分が作ったもので人が傷つくなんて、考えたくもない。
でも可能性としては十分ありうることがわかっているなかで、それでも伝えたいことがあるのであれば、どこかで落としどころを決めるしかないと思っている。
例えば最近書いた、この記事。
有料記事で恐縮だが、最近私が書いたものの中で、最も人を傷つける可能性が高いのはこれだと思う。内容は要するに、ネット上で「平易で読みやすい文章」があまりにもてはやされている現状に危機感を覚える、というような主張だ。
現在は冒頭のみ無料で公開しているけれど、そこを読んだだけでも傷つくひとはきっといる。私の書くもののなかではかなり断定的な、強い口調を使っているものだから。一生懸命取り組んでいるものを否定されたような気持ちになる人は、確実にいるだろう。
私は誰かの努力を否定したくて、あの記事を書いたわけではない。
そのことを伝えるためのエクスキューズをあちこちに配することは、やろうと思えばできた。あなたのような人を責めているわけではありません、もちろんこういうケースは例外です、私と逆の立場の人の気持ちも理解しています、私が言いたいことはあくまで云々。そういうことを書かないにしても、語調をもっと柔らかくすることだってできた。
最後まで悩んだけれど、そうはしなかった。だって、それをやると主張の軸がぼやけるし、文章のスピード感を削いでしまうから。私が覚えている危機感や葛藤が伝わらないと思ったから。
つまりは人を傷つける可能性を低減させることと、自分がやりたい表現、伝えたいことを天秤にかけた結果、私は後者を優先したということだ。
誰かを傷つけても構わない、と思ったということでは断じてない。でも、傷つくひとがいるかもしれないという可能性を念頭に置いたうえであえてフォローをしなかった、というふうに言ってしまえば、結局は同じことなのかもしれない。
今でも悩んでいる。あれでよかったのか。傷ついた人は、果たしていなかったか。
いや、きっといる。いただいたコメントはどれも好意的なものだったけれど、でも、noteにいる人が――自身も表現者である人が、書き手の気持ちを誰よりも理解している人が、同じ書き手に向かって「傷つきました」と表明することにどれほどの勇気が必要かということを、私は知っている。
知っているのに、書き直そうという気にはならない。安直に書き直してしまえば、私のちっぽけな、ようやく見つけた「伝えたいこと」は簡単に歪んでしまう。
だからせめて、自覚的であろう、考え続けよう。自分の書くものが人を傷つけるかもしれないということ。その可能性を少しでも下げるためには、どうしたらよいのかということ。
考え続けて、それでも必要だと思ったなら、求める表現を貫くことを自分に許そう。傷を与えるかもしれない代わりに、その傷の深さを凌駕する何かを、読む人に残すべく努めよう。
そしてもし、あなたの文章で傷つきました、と伝えてくれる人がいれば、真摯に向き合おう。
もの書く人としてできるのは、結局そういった思慮と覚悟を持つことだけなんじゃないか、と、今は思うのだ。
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