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ペルシャン・レッスン|エモ消費という逃げ道が許されない映画

見逃したと思っていた映画の上映館がいつのまにか増えていて、これ幸いと観てきた。

いろいろな都合で朝イチ、10時からの上映回を目指して土曜の7:30に起床し(普段の私の行いからすれば金メダル並みの所業である)、尼崎の「塚口サンサン劇場」にゆく。

久しぶりに単館の映画館に行って驚いたのは、映画が始まる前の予告編タイムである。余計なコマーシャルが何も入らず、映画予告と注意事項のVTRだけが流れたのだ。
このところ大きな映画館に行くと、なぜか映画の予告編と一緒に住宅だの洗剤だののCMが流れて、なんだか興ざめな感じがしていたのでありがたい。
とはいえ映画以外のCMも、映画館という業態が生き抜くための手段なのだろうな。配信サービスの充実なんかで映画館に足を運ぶ人が減っているのだろうか。

で、観てきた映画がこちら。

 ナチス親衛隊に捕まったユダヤ人青年のジルは、処刑される寸前に、自分はペルシャ人だと嘘をついたことで一命を取り留める。彼は、終戦後にテヘランで料理店を開く夢をもつ収容所のコッホ大尉からペルシャ語を教えるよう命じられ、咄嗟に自ら創造したデタラメの単語を披露して信用を取りつける。こうして偽の<ペルシャ語レッスン>が始まるのだが、ジルは自身がユダヤ人であることを隠し通し、何とか生き延びることはできるのだろうか――。

公式HPより

「嘘の言葉を教える教師役とそれを真面目に学ぶ生徒役」という設定だけをみるとコメディかな? と思えてくるのだけれど、舞台はナチス・ドイツの収容所で、教師役は収容者、生徒役は親衛隊。「嘘」がばれれば主人公・ジルの命はない。

嘘をつきとおせるかどうか、というハラハラ感だけでなく、収容所の中の陰惨という言葉では言い尽くせないような環境が、ジルと観客の精神を追い詰めていく。
朝一番で映画館に入り、観ている間中じわじわと涙が出続けて(具体的な出来事のみならず「画」を見ているだけで涙が出るタイプの映画だ)、出てきたときには疲労困憊していた。これから観られる方には、できれば精神的に余裕があり、後ろに何も予定がない状態での鑑賞をお勧めしたい。


※ここからネタバレを含みます※




「奇妙な友情」という傲慢

物語が進むうち、生徒役であるコッホ大尉はあきらかにジルに心を許していく。
トリガーとなったのは多くの単語を習得し、(偽)ペルシャ語での会話を試みるシーンだと思う。覚えたての外国語で文章を組み立てるおぼつかなさも手伝ってか、コッホはジルに、幼い日の母との死別や、貧しい生い立ちについて吐露する。

そもそもコッホ氏、明らかに「友達がいなさそう」な人物像である。
初登場時からして部下にめちゃくちゃな詰め方をしているし、所長が開催する慰労ピクニックでも皆が故郷の歌を歌う輪に加わらずぽつねんとしている。立場によって形成されたと見える部分を差し引いてもなお、癇癪持ちで、プライドが高く、人とうまく関係性を築けない人物として描写されている。

そんな人物が弱音を吐け、それを受け入れてくれる対象と出会ったらどうなるか。

コッホは自身の職権を利用して、ジルの命を何度か救う。物語が終盤に差し掛かると、その表情と行いはせっかく得たペルシャ語の講師を失いたくないという単なる利害よりも、ジル個人への執着に起因するものになっている。

この映画を、収容者と親衛隊の間に芽生えた奇妙な友情、信頼関係の物語だ、ととらえる見方もあるとは思う。実際、ジルの方からコッホに軽口を投げかけ、リラックスした会話が交わされるように見えるシーンも見受けられる。
けれども私は断じて彼らの関係を、「友情」とか「信頼関係」などといった言葉で言い表したくはない。

コッホはジルに衣服を与える。食料を、(氷点下の戸外で薄着で石を切り出す過酷な労働ではなく)屋内での仕事を、死の移送から逃れる特権を与える。「肉の缶詰20個」をかけてあなたの命を守る、と約束し、その約束は実際に守られる。
しかしそれは人間に対して示される親愛ではなく、野良犬がしてみせる芸に興味を示して餌を与え、家に招き入れるようなものだ。ジルを自分と同じ人間だと理解したうえで親愛の情を覚えているのであれば、殴る蹴るの激しい暴行を加えたあとの謝罪を「水に流せ」の一言で終わらせたりしない。相手の置かれた状況を知りながら、自作の「平和を望む詩」とやらを聞かせて感想を求めたりしない。相手の命と肉の缶詰を同列に扱うような冗談を、その冗談が洒落にならないような環境の下で放ったりはしない。

コッホとジルの関係は、身震いするほどの不均衡さの上で成り立っている。
これが友情であるのなら、なぜジルはコッホのあの詩をほめる必要があったのだろうか。ジルがコッホに対して本音でものを言えたのは、彼が自ら死地に赴く覚悟を決めたそのときだけだった。

ここに二人の人間がいる。彼らには、数々の偶然から通常はありえないような奇妙なリレーションシップが生じている。そして二人の間には、そこでしか通じない「言語」がある――。
あまりに過酷な収容所内の環境から目をそむけたくなりコッホとジルの関係をそうロマンティックに捉えようとしても、透徹した「地獄」の描写が感傷的な消費を許さない。一瞬にして、その欺瞞をはぎ取ってしまう。

偽の言語が持つ意味

ジルは収容所にいた約2年の間に、2,000を超える架空の単語を生み出す。
そのヒントとなったのが、コッホから与えられた名簿作りの仕事だ。
名簿に書かれた収容者ひとりひとりの名前をもじって、ジルは新たな単語を作っていく。コッホの部下の画策によって名簿作りの任を解かれた後も、食事の配給に列を作る収容者たち一人ひとりに名前を訊ねて、新しい言葉のもとにしていく。

生き抜く手段としてのこの行いの意味が鮮やかに反転するのが、生き延びたジルが連合国軍に保護され、事情聴取を受けるラストシーンである。
撤退前のドイツ軍によって収容者名簿は焼却されており、ジルは「誰か、他の収容者の名前を憶えていないか」と訊ねられる。「2,840人分覚えています」、というジルの答えに対して「そんなことあるはずがない」と返した相手は、流れるように暗唱され始めた人名の連なりに目を瞠り、急いでメモを取り始める――。

この瞬間、ジルが作り出した偽の言葉は、本来の意味――過酷な収容所で、番号で呼ばれていた人びとのほんとうの名前――を取り戻す。
同時に私の脳裏には、収容所のなかのさまざまなシーンが蘇ってきた。銃と怒声で追い立てられる新たな収容者。痛々しく響き、突然止んだ赤ん坊の泣き声。寒空の下力なくつるはしを振るう強制労働者を上空から映したシークエンス。木製のベッドにすし詰めになり、銃弾の音におびえる老人たち。監視者の癇癪によって、手のひらを鉄板で焼かれる調理係。薄い薄いスープにできた長蛇の列。東へ向かう死出の旅の行列。コッホが「無名の命」と呼んだ、その実ひとりひとりが名付けられた人びと。

物語の中で、「名前」というものは重要な意味を帯びることが多い。
悪魔や魔術師は本名を知られることで力をなくすし、その逆に忘れてしまった自分の名前を思い出すことで本来の力を取り戻す、という物語も複数知っている。現実でだって、殺すのがつらくなるから家畜には名前を付けない、といったたぐいの話はいくらでも聞く。
このラストシーンでも、収容者の名前が呼ばれ始めた瞬間、匿名性によって堰き止められていた死者たちの苦悶の声、悲鳴、慟哭が解き放たれて耳になだれ込んでくるような気がした。名を取り返したことによって彼らが救われたとは微塵も思わない。それでも、残された者がその苦しみに思いを馳せ、弔うための最低限の条件が満たされたのだ、と感じた。

ラストシーンを見るまでは正直あまり意識していなかったのだけれど、よく考えると偽のペルシャ語は、「名前」をもとにして作り出されたというその性質によって、所々で強烈な皮肉として機能している。

例えばコッホが、新しく覚えた単語の響きに美しさを覚え、何度も繰り返すシーン。彼はそうと意図せず、普段は虫けらのように扱っている収容者の名を繰り返し呼ぶ。異国への憧れを込めて(窓の外では同じく「異国」に出自を持つ者たちがばたばたと倒れているというのに!)。
前述した詩の朗読のシーンも同じだ。平和を希求し、未来の幸福を願う詩を、自分が犠牲にしていく人々の名前で紡いで悦に入る様子はあまりにグロテスクで滑稽だ。
コッホが、偽ペルシャ語の「由来」を知る日は来るのだろうか。

ふつうの人びと

他の映画では冷酷で感情のない殺人マシーンのように描かれているナチス将校たちが、妙に人間臭い面を見せるのもこの映画の特徴だと思う。

彼らはぞっとするくらいふつうの人々だ。将来の夢を語り、ピクニックではしゃぎ、仕事をさぼり、色恋沙汰でギスギスする。
だから、彼らが収容者に対して見せる残酷さの大半は環境が作ったものだ。彼らは人間に対して虐待をしているとは思っていない。いくらでも湧いてくる卑小な家畜の管理をしているという程度の認識しかない。そして同じ環境に置かれれば、私も同じことを平気でするようになるのかもしれない。ナチス将校たちの日常的で平和なシーンが流れるたび、そう思って胸が苦しくなる。

主人公のジルもまた、普通の人間だ。
機転が利き、おそらく頭もかなり良いのだろうけれど、他の収容者が減っていくたび、当たり前のことながらどんどん消耗していく。最初は生き残るために必死だったのが、だんだん虚しさ、やるせなさと、自分だけが特別扱いをされることに対する罪悪感に苛まれ、生きる意欲を失っていく。

終盤、ジルは発語障害を持つ青年のために自らの命を投げ出す。それは魂の高潔さによってなされた行いというよりは、疲労と罪悪感が極まったことによるやけっぱちの行為のように思える。
青年はジルが特権によって得た食料でもって命を長らえた。それを恩義に感じた彼の兄は、ジルの窮地を救うために殺人を犯し、その咎によって射殺された。
最後の糸がそれで切れたのだろう。ジルは消極的な死を選び、それを妨げたコッホに初めて本音をぶつける。

ジルは聖人でも超人でもない。普通の神経と普通の感情を持った普通の人間だ。コッホも、他のナチス将校も、収容者たちも普通の人間だ。
それがわかるから、観る人は余計に恐ろしくなる。生まれる時代が、場所が違ったら、私は簡単に他の人間を虐げるのかもしれない。

エモ消費が許されない

ここで突然「シン・ゴジラ」の話をする。

2016年のシン・ゴジラの公開後、ファンアートが各種SNSに溢れた時期があった。グロテスクなゴジラの第二形態は「蒲田くん」と呼ばれてマスコットキャラクターのように愛玩され、ゴジラを主人公たちがペットとしてかわいがるようなイラストも数多く見られた。

当時、そういったファンアートに対する考察で「ゴジラの存在を卑近で親しみやすいものとして描写することで、映画内での悲惨なシーンを目にしたときのショックを和らげているのだ」というものを見た。なるほどな、と思った。だって映画のなかの蒲田くん、相当怖かったもの。

観た後に負った精神的なダメージからすると、ペルシャン・レッスンにおいても私には「蒲田くん」的なものが必要だ。和らげたい。こんなダメージ大したことないと思いたい。

でも無理だ。コッホとジルの関係を「奇妙な絆」としてエモーショナルに消費するには、この映画にはファンタジーがあまりに足りないし、そもそもそんなことが許されるような題材ではない。
ラストシーンで私たちはジルに業を負わされる。そしてその業は、スクリーンの中の出来事を繰り返したくないと思うのであれば当然負うべきものなのだ。




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