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【詩】身体論、あるいはヘレンの水

この足で
土を、地面を、大地を
踏みしめたことがない

この足で
アスファルトを蹴って
体が前へ進む躍動を感じたことがない

この足で
地球を掴んで
固さを、温かさを、でこぼこを感じたことがない

そんな私に書ける詩とは何なのか
そんな私に吐ける言葉とは何なのか

「障害者ならではの感性」とか
「車椅子ユーザーらしい言葉」とか
“オリエンタリズム”の眼差しに
己を差し出し、屈したいわけじゃない

そうじゃないんだ

そうじゃないんだ

この、大地と直に接続しない身体で
この、四輪を介さずには大地と繋がれない身体で

この身体で、何が言えるのか
この身体から、どんな言葉をほとばしらせるのか

“オリエンタリズム”を拒絶し
二足歩行者の身体世界に飲み込まれることも拒絶し

大地と繋がれなくても繋がっている身体の
この身体感覚の地平を切り開け

その地平から立ち上がる言葉を

さあ、唯一の言葉を!
 



noteに掲載している詩が、ちょうど百編になりました。ある意味、節目の詩です。

私は、これまで自分の身体および障害を社会にある障害(社会のあり方によって生じている障害)との関連で考えることが多かったのですが(そして、その捉え方はとても重要なのですが)、社会という媒介なしに、純粋に「己の身体と世界の関係」にもっと目を向けてみるべきではないかと、急に思いつきました。
自分の両足で地面を踏みしめて歩いたことがないということは、二足歩行者(日常的に自分の足で地面を踏みしめて歩いている人たち)とは、絶対に別の身体感覚があり、世界の別の感じ方があるはずなのです。それは、この社会をどう捉えるか、とは異なる次元の話です。
詩でも短歌でも小説でも、何かを創作する上で、その私自身の身体感覚にもっと自覚的になって、研ぎ澄ますべきなのではないかと。

この社会にあるものはマジョリティの身体感覚が前提となっており、多くの創作物もその前提を免れていません。「二足歩行者-車椅子ユーザー」という軸で言えば、二足歩行者の身体感覚が前提となっているわけです。
(言うまでもなく、「晴眼者-視覚障害者」「異性愛者-同性愛者」など、他にも様々な軸があります)
そして、マイノリティは、マジョリティの身体感覚という前提を内面化してしまうことがあります。二足歩行者の身体感覚は車椅子ユーザーである私のものとは異なるのに、無自覚にその前提に取り込まれて創作の場に居てしまう、というような。
それは、ある意味で生き延びる戦略ではあるのですが、自分で自分の言葉を奪うことでもあると思います(生き延びているだけで、生きていない!)。

自分の言葉を取り戻し、自分の言葉を吐き続けるために、もっと自分の生身の身体感覚に耳を澄ませてみようと思ったのでした。
それが、どこまで創作に活かせるかは分かりませんが。

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