春村

思考の葬儀場。シオランが好き。

春村

思考の葬儀場。シオランが好き。

最近の記事

HF見た。

久々にnote開いたらこれかよという感じですが、長くなるしついでに良いか、と思いここにしました。以下ネタバレ注意です。 私に一番刺さったのは今思うと最後の、言峰と士郎の殴り合いのシーンでした。望んだわけではないのに、世界にとって異質な存在として生まれた言峰と、その正反対で、正義を愛し、幸福を愛し、隣人を自分以上に愛する、まさにヒーローとも言えるような士郎。望むもの、信じるものが違うのだから当然対立は避けられませんでしたが、この2人の決着が、満身創痍のステゴロで良かった、と私

    • とは。

      良く生きる、とはなんだろう。「より良く」という言葉は教育を勉強しているとよく目にする。(私は教育大生です) 良いとは。悪いとは。 法律で「○○はいけません!」と定められていても、それが拘束力を持つかは結局その人次第だ。それに従うかどうかは、完全に個人の善意に委ねられている。善意ですらない場合もある。人を殺したくて仕方ないけど、犯罪になるからダメだ……などという抑止の仕方がそれだ。法がただのストッパーになってしまい、まさに形骸化しているパターン。欲と損を天秤にかけているだけ

      • 秘匿

        自分のことを安売りするのは良くないのかもしれない。 自分を解剖するのは楽しいことだ。何故かわからなかったことも、思い返せば過去にあったことと因果の繋がりが見えてきたりする。どこでどう価値観が形成されたのかを知るのは、自分を知る上で大切なことだ。だから、やろうと思えば、自分の特性を人に示すときのツールに出来る(こういうことがあったから、こんなトラウマがあるんだよ俺。とか。それを伝えることで理解を得て、生活する上でワンチャン周りからの補助も得られたりする。一見ややこしい人も、「

        • ひとりごと

          最近めっきり恋愛のことは考えなかったが、永田カビさんの漫画を久しぶりに読み返して、いろいろ考えて、なんか勝手に辛くなってきたので私の恋愛観をメモ程度に残しておこうと思う。 私は、男の人しか好きになったことないから、多分異性愛者。でも男っぽく見られたりするのは嬉しいし、そういう中性的な格好をするのも好きだ。ただ、ダボっとした服は身体のラインが逆にわかりやすくなるから、そこは嫌(男っぽい服は四角い体型に似合うように作られている気がする。丸みのある身体は少し違和感が出る)。でもた

        HF見た。

          ひとりごと

          私は自己啓発みたいなものが嫌いだ。あとあとややこしくなるといけないので、ここで先に言っておくがこの嫌いに根拠はない。ただなんか胡散臭い。自己啓発本を読んだわけでもない。食わず嫌いというやつだ。でも嫌いだから、この嫌いに関しては一生読まないだろう。 で、自己啓発が嫌いなのに、私の書く文章がどうにも我ながら自己啓発臭いのだ。繰り返しになるが、自己啓発本を読んだことがないのに何故か「それっぽいな」と思ってしまう。もう少し砕けた言葉使いにすれば良いのだろうか。そうすると尚更、空白を

          ひとりごと

          好きなもの

          夕方の近鉄。窓際で寝そべって見る昼の空。くにおくん。モンハン。絵を描くこと。好きな作家さんの絵。好きな作曲家さんの曲。好きな作詞家さんの歌詞。サーモンとほうれん草のクリームパスタ。ほうれん草。寿司(特に中トロとえんがわ)。家。1人の時間。お笑い番組を友達と見る時間。大きな犬。モンスタースタンプ。好きな服。中国モチーフ。友達とするゲーム。FGO。ツイステ。考えること。水。烏龍茶。夏に飲むキンキンの麦茶。やるべきことなにもせずに昼間から1人で飲むチューハイ。美味しいご飯。温泉。好

          好きなもの

          妥協/納得/忘れる

          言葉というものは正しく理解して使わなければならないと、つくづく思う。それは単なる、コミュニュケーションや伝達の上での齟齬を無くすためではない。自分ひとりのためだ。 世の中に在るものは、私たちが在ると思っているからこそ、私たちに向かって存在するものとなっていると私は信じている。私たちの認識を抜きにして、どうやって森羅万象、その存在を証明できるのだろうか。例え証明をしてみたところで、それに納得できるのも、そういう(文字とか数字とか、数式とかの)ツールを使えるのも、私たちが作り上

          妥協/納得/忘れる

          存在しない自由

          否応なしに、なるべくして不完全になり、止まってしまったこの世界に生み落とされた私たちは、「生まれないことを選べなかった」という、まさに運命に基づいてこの世界で生きることを定められており、その使命からは逃げられない。そして逃げることは許されてもいない。 私たちが虚無であった時、生まれないことが選べなかったとして、次に選択の余地があるのは社会に生きるか、社会と契約をするかどうかだろうが、その機会はない。(親と言う存在は、大抵がこの世界に生きることに疑問を持たないか、赤子に持たせ

          存在しない自由