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とは。

良く生きる、とはなんだろう。「より良く」という言葉は教育を勉強しているとよく目にする。(私は教育大生です)

良いとは。悪いとは。

法律で「○○はいけません!」と定められていても、それが拘束力を持つかは結局その人次第だ。それに従うかどうかは、完全に個人の善意に委ねられている。善意ですらない場合もある。人を殺したくて仕方ないけど、犯罪になるからダメだ……などという抑止の仕方がそれだ。法がただのストッパーになってしまい、まさに形骸化しているパターン。欲と損を天秤にかけているだけ。まぁ残念なことに大抵そうだろう。みんながみんな、「なぜ悪いことは悪いのか」などという面倒なことを考えたりはしない。考えた上で、俗に悪と言われるものに正義を見出す人もいるだろう……。結果として表面に現れるのが悪なのだから、衝動的な犯罪者も、悪を正義として罪を犯す人も、当然区別されない。

正直、極論だけど、良く生きることを目指させるならば、「絶対に法律に従いなさい」とだけ教え込めばいいのではないか?と思う。アホな私でも回りくどいなと思うくらい、指導要領は回りくどい……(個人の意見です)。主体的に考えるとか、社会に問題を見出して解決しようとする、とか、公民としての資質を云々、とか。結局はこの国に都合の良い人材が欲しいだけなんだろうなとぼんやり思う(別にそれは否定しない。都合の悪い人材を敢えて生み出すメリットは国にないからだ)。それを匂わせないために、回りくどく書いているのかもしれない……?ただまぁ、それによってかえってうやむやになっている部分もあるのではないだろうか。子どもたちは自分で判断できる大人になるように、などと言う割には、ナチス礼賛など、社会には「絶対に許されない悪」というものがちらほら存在する。私も別にナチス礼賛しているわけではなく、悪だとは思うのだけど、思想の自由は果たしてどこまでを自由と言っているのだろう、とも思うのだ。重ねて言うが、誰かの肩を持っているわけではない。

何かに属して生きるには、やはり目に見えない、形のない善悪を掌握する他ないらしい。その善悪は法律に記されているものでもない。もっと抽象的な、感覚的な、人間臭いものだ。どんなに考え抜いてこれを良しと思い信じても、それが社会にとっての悪である限りは容赦されない。

悪は憎むべきものだ。そして世間的な悪というのは、世間的である(大勢の人に憎まれている)理由がきちんとある。

だからこそ、悪を憎しみや私怨などではなく、本心で信仰している人は、私はなんだか少しかわいそうに思えてしまうのだ。だって、その人は自分の感性に従っただけなのだから……。

私たちはきっと、自分で判断をなどと言うのなら、そのくせ悪とするものにも責任を持たなければならない。「あぁ失敗したんだね」などと軽々しく言い、植物のように間引き、隔離し、時が経ったら解放して終わり。または殺して終わり。それで本当に、いつか何かが変わるのだろうか。

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