存在しない自由

否応なしに、なるべくして不完全になり、止まってしまったこの世界に生み落とされた私たちは、「生まれないことを選べなかった」という、まさに運命に基づいてこの世界で生きることを定められており、その使命からは逃げられない。そして逃げることは許されてもいない。

私たちが虚無であった時、生まれないことが選べなかったとして、次に選択の余地があるのは社会に生きるか、社会と契約をするかどうかだろうが、その機会はない。(親と言う存在は、大抵がこの世界に生きることに疑問を持たないか、赤子に持たせないから。例え赤子に選択を与えても、選択する能力もないだろう)

仮に自意識の芽生えた時になって、(社会の制約から逃れ、まだ見ぬ世界の理の下で生きるという)自由のために(進んで社会の容赦を得られない生活をするという)不自由を選ぶという、唯一与えられた選択の自由を行使し、契約破棄を選んだとて、そこに私たちの望む自由はない。自分たち以外の人間は社会契約を保っているからだ。それ以外の世界は、私たち自身がそう望んだわけではないのに、私たち自身の途方もない尽力によってしか生み出される可能性もなく、また生きている間にまみえると約束されているものでもない。今さら「ここでない世界」を望んだとて、結局私たちは社会から溢れた一つの動物になるだけなのだ。私たちに妥協を含まない自由はない。仮に社会に属する者達と関わりを断ち、自給自足の生活を始めようと、自由を選択したはずの私たちより、妥協した自由(例えば、本当は金が空から降ってきて、働かずに生きられたら、と思いながらも働くこと)を選択した人間の方が、社会からの保護を受け、紛れもなく安全な暮らしをしている。何故、選ぶ自由はあるのに、その選択の先の生活は私たちの許可なく全く異なるものなのだろうか。この選択は、誰により突き付けられているものなのだろうか。

疲れた。続く

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