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妥協/納得/忘れる

言葉というものは正しく理解して使わなければならないと、つくづく思う。それは単なる、コミュニュケーションや伝達の上での齟齬を無くすためではない。自分ひとりのためだ。

世の中に在るものは、私たちが在ると思っているからこそ、私たちに向かって存在するものとなっていると私は信じている。私たちの認識を抜きにして、どうやって森羅万象、その存在を証明できるのだろうか。例え証明をしてみたところで、それに納得できるのも、そういう(文字とか数字とか、数式とかの)ツールを使えるのも、私たちが作り上げた共通の認識という土台があるからなのだ。

もしも、この世界のことをより知りたいと思うのなら、私たちが生きる上で依存している、そういう文化につねに疑問を投げかけなければならない。本質に近づくことをやめてはならない。誰も「正しさ」を知らないのに、正しさという概念を作り、定義し、当たり前のように使用する私たちは、正しい正しさを一生涯知ることがない。その傲慢を自覚し、少しでも、絶対に到達できないその各概念から目を背けないでおくべきだ。そうすることでしか私は文字に、数字に、数式に、あらゆる決められた土俵に抵抗できない。

自分で選択したと思ったことも、本当に選択したことなのか考えてみてほしい。そこに本当の自由はあるのか?私はよく、自由を「我儘」という意味で使う。何者にも縛られない選択を自由だと思っている。「それは横暴だ」と言う人がいるだろう。秩序の元で節度をもって好きに振る舞うのが自由ではないか、と。はっきり言うが、制約がついている時点で私は自由だとは思わない。良くも悪くも、だ。法という縛り・親という存在・または友達・または他人・住んでいる場所・使う言語・持って生まれた能力・その欠損……など、これらは全て私たちの意思に関係なく付与された私たちの属性ではないか。そしてそれら全てに納得できている人は、少ないだろう。皆大抵、妥協によって限られた中の最大の自由を得ようとしているのだ。

仮に、(身体的に)男に生まれたくなかった、と思った(身体的に)女性の人がいたとして、自分の努力で費用を貯め、性転換手術をしたとしよう。性転換手術も、保険適用されれば当人は最小三割負担で済むとのことだが、三割を負担しなければならないのは何故?望んでその体に生まれたわけではないのに、何故?「生まれてしまったから」と、納得できている人も多いのかもしれない。その上で手術する人も、しない人もいるだろう。しかしながら私は、何故、と思ってしまう。そういうシステムだから・技術のある人にお金を払うことで成り立つ行為だから、というのはわかる。何せ、それがこの社会の仕組みだからだ。タダでそんなことをするのは不可能だろう、というのもわかる。しかし私がしているのは、そのような次元の話ではないのだ。「私たちが生まれる前に、全てを選べたら」と、夢みたいなことを思ってしまうのだ。その権利を諦めないでいる理由もないが、また、諦めなければならない理由もないからだ。存在しないものには、何の制約もつかない。

自分がこの社会に生きるということを(自意識が芽生えて以降)、妥協しているのか、納得しているのか、はたまたその選択権があること自体を忘れているのか、考えてほしい。そして、妥協と、納得と、忘却の違いを求めてほしい。前回書いたように、この社会に生きない選択もあるにはあるが、行き着く先に求めるような自由は今のところない。それを知った上で、私は新しい世界が見たいと思ってしまう。

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