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HF見た。

久々にnote開いたらこれかよという感じですが、長くなるしついでに良いか、と思いここにしました。以下ネタバレ注意です。



私に一番刺さったのは今思うと最後の、言峰と士郎の殴り合いのシーンでした。望んだわけではないのに、世界にとって異質な存在として生まれた言峰と、その正反対で、正義を愛し、幸福を愛し、隣人を自分以上に愛する、まさにヒーローとも言えるような士郎。望むもの、信じるものが違うのだから当然対立は避けられませんでしたが、この2人の決着が、満身創痍のステゴロで良かった、と私は思いました。というか、それ以外であり得なかったと。そこにめちゃくちゃ感動した。その理由を書いていきたい。

一般的に、人間が対立したら行われるのは言葉のコミュニケーションによる和解や譲歩、または制圧等々…とにかく、はじめは話し合いからですよね。Fateの世界でそんな悠長なことも言ってられないのもわかっているので、これは一応の確認、というか例え話ですが。もちろん、この2人が話し合いをしたところで分かり合える未来も、どちらかが譲る未来も無かったでしょう。100%無いですよね、無い方向で話を進めます。観た方ならわかると思います。というのも、別に2人が頑固だから、と言うわけではなく(頑固ではありますが)、元々の魂の性質として相反するものだから、絶対に同じフィールドで話し合いをすることはできないのではないか、と。

甘い言い方をすれば、価値観が違う、と言うやつですが、そんな甘いものではない。根本から、生まれた時から、全てが真逆の2人なのだから、共通点なんてまさに言語くらいしかないのではないでしょうか。どこかで分かり合える、分かり合えはしなくとも、相手のことを理解できるかもしれない、そう士郎は最後までカケラのような希望を信じていたと思いますが、それは言峰と対峙して、士郎が「自分と言峰は対極に位置する人間なのだ」と知った時に呆気なく打ち砕かれます。

日常の対立で、「あぁ対話の余地がない」となって諦めることはままあれど、それとhfでのこの対決がなんとなく違うことはわかるでしょうか。まぁたまに本当に違う生き物なんだな、という人は居ますしその上でコミュニケーションを諦めることもありますが、それを100倍濃縮したようなインパクトがありましたね、ここのシーンは。前提がここまで異なる2人が対峙するのは本当に熱かった。

こうなると、正義も悪も善も悪も、全てが無意味になるのです。士郎の信じてきたもの。言峰の信じてきたもの。それはどちらも嘘偽りなく存在し、存在を許されなければならない代物です。言峰は士郎にとっては、言葉が悪いですが、邪魔で、悪だったけれど、生まれつき悪だった言峰本人にとっては、この世で善とされるものこそが悪だった。世界が初めから反転している人が、そこに確かに存在している。それにより全てがフラットになった瞬間、士郎が下さねばならない決断は、初めて完全主観になったのではないか。というかまぁ、ずっと主観だったけれど、それをまざまざと突きつけられてしまったのではないかな。

ここで満身創痍の殴り合いですよね。何が良いって、「完全に(ほぼほぼ?)対等」であること。互いに死にかけている。武器も持たない。言葉騙しもない。ただ真に対等な状況、真に対等な信念、希望を賭けて、その先に立つただ1人の座を懸けて殴り合う。どちらが勝ってもおかしくないし、私はどちらが勝っても良かったと思っています。それほどに、正義も悪もそこには存在しなかった。

大義や、周りの意見、価値観、武器などのどちらかが少しでも有利になる要素。そういったものを全て取り払い運命的に整ったあの決闘の場での、自我と自我の殴り合い。勝ったものが正義、と言いますが、そんなものすらあそこには無かったことでしょう。ただ、衛宮士郎という人間が勝ち、望む結末を手に入れた。言峰綺礼という人間が敗北した。それだけなのです。

だって、あの2人の決闘を見ていた人間は誰一人いないのだから。


もしかしたら、唯一全てを見ていた生まれる前のアンリマユは何かを学んだのかもしれませんが。

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