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ひとりごと

私は自己啓発みたいなものが嫌いだ。あとあとややこしくなるといけないので、ここで先に言っておくがこの嫌いに根拠はない。ただなんか胡散臭い。自己啓発本を読んだわけでもない。食わず嫌いというやつだ。でも嫌いだから、この嫌いに関しては一生読まないだろう。

で、自己啓発が嫌いなのに、私の書く文章がどうにも我ながら自己啓発臭いのだ。繰り返しになるが、自己啓発本を読んだことがないのに何故か「それっぽいな」と思ってしまう。もう少し砕けた言葉使いにすれば良いのだろうか。そうすると尚更、空白をふんだんに使ったより一層中身のない胡散臭さ抜群の自己啓発本に寄ってしまうのではないだろうか。読んだことないから知らんけど。

哲学というのは大体、啓蒙と深い縁があるので、どうあがいても啓発に寄っていくものではあるのかもしれない。理屈ではわかっているのだが、別に私は自分の考えることで誰かを導きたいなどとは微塵も思っていない。好きにすればいいと思うし、考えが足りないんじゃないか?と思う人のことは内心馬鹿にして見ている。失礼だけど別に口には出さないし、それくらいが私にはちょうど良い。私の思考は何よりも私のためにあるものだから、別に自分が優っているとも思わないけど。

そんなこと言っている私が、前々回?だかの記事で「考えてみてほしい」みたいな言葉を使ったところがあったと思う。あれはなぜかと言うと、卒論に関係してくる。教授と卒論の展開について話し合っていたところ、「もう一度そういった選択肢がある、ということを思い出させるのが良いんじゃないかしら」みたいなことを言われた。正直、私の思考をプレゼンして、「こっちへおいでよ」するつもりもなかったし、かと言って、私の世界の話を私の世界にいる人だけがわかる言葉で語り尽くすのも、生産性0であんまり好きではない。何より自分で決めろよ、と思う。なので、教授のその提案は割と理にかなっているものだった。「考えてみてはどうでしょうか」

……結局巡り巡って自己啓発なんだな。でも内心は好きにしろよと思っているのは忘れないでほしい。私は他人の人生にまで責任を持ちたくないのだ。いざとなった時に、人に責任をなすりつけられそうなところも嫌いだ。すごく偏見だけど。

第一、うちのゼミには私より生きづらいと思ってる人が居ないんじゃないかと思っている。あまり、「私より」とかいう言葉使いたくないけど(マウントみたいだから)。発表した時にみんな全然ピンと来てなかったもの。そういう、いわば住んでる世界の違う人にもピンと来てもらうためには、繰り返し伝えるしかないって教授に言われた。納得してほしいわけじゃないけど、せめて理解はしてもらえたらなぁ、(発表するからには。私個人のことは別に知って欲しくもなんともない)と思いつつ、頑張って生き抜いていこうと思います。

おわり

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