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ばくちちのニケ神とは何者か?/わたしは人であって人でなくなりたい

hydeになりたいと思いつつ早○年、、と私はネタでよく言うが、XのYOSHIKIの若いときを見た時に、脳みそがこの人が男か女かである前に「圧倒的美」を感じたものである。

きっかけは歌番組で昔を振り返るVTRだったり、些細なことに過ぎない。

昔から美しいものに触れてきて「美は性差を超える」と信じてきた。

人以外にもわたしは宝石から建造物、彫刻、音楽、刀やアニメ、インテリアなどにも似たようなものを感じる。

とにかく、何事にも作者が間違いねぇと世に出した美的センスを表現したものが大好物だ。
わたしは幼い時から本当に変わった子だったと思う。

両親はいつか収まるだろうと思っていたようだが、思春期になってもますます加熱するばかりだ。わたしは「作者の思うまま、美を表現した物」なら全てが好きで、映画のワンシーンでのセリフの「間」にまで美を感じていた。


今思えば大変、変態的であるが私は悦に浸っていた。
中学生の時は美術部であったため、色々な美術を見たものだ。

その中でも圧倒的に心奪われたものが彫刻である。

わたしが好きな彫刻は言わずもがな
ばくちちのニケではなく
サモトラケのニケなのだが、これがまた凄い。

パリにあるサモトラケのニケ

発見されたのが今から約160年前のことである。
作者は不明だ。実物は3m程あるのだが、実に美しい。
ニケは動かない彫刻でありながら、布の滑らかな動きが表現されている。

この、静と動の絶妙な表現がたまらないのである。ヒソカがゴンに変態的な悦に浸るくらいのものだ。

お馴染みの変態的なヒソカ

嘘か本当かの都市伝説でもなく、この彫刻を160年前によっしゃ、作ったろ!!と構想し作ってしまったという確かな事実がある。

なにゆえそういう発想に至り、静と動の表現ができたのか。わたしの中でこの最高潮かな好きなものが、160年前に完成されていたという事実がポイントだ。

さらにニケの頭部が見つかっていないというのがわたしの想像を掻き立て、シビれるのだ。

現代のほうが道具も豊富、環境も良い、より高クオリティのものが作れるはずなのに、この160年前を超える「圧倒的美」はないと、ガキんちょながらにわたしは確信したのである。


その確信は、わたしの悦感情を大きくねじ曲げ、新たな課題を生み出した。サモトラケのニケのような圧倒的美を生み出したくなったのである。わたしが身体を鍛えるのもその1つだろう。

躍動感ある写真が撮りたい、サモトラケのニケになってみたい、爆乳の彫刻が存在してもいいはずなのだ。

ジョジョで人間をやめるぞ!というDioの言葉をわたしは理解出来る。

荒ぶるDio様

わたしは創作が昔から好きだ。
創作はアマチュアでも思うがままの「間違いねぇ!」という自分の美的センスを注げるからだ。
それを世に出すには、カメラマンやプロデューサーとして表現したかったのだが、撮りたい被写体が某姉妹の美香さんレベルが理想になってしまい、、。でも美香さんは完成されているし、、。

とにかく、この変態的で馬鹿げたわたしの思考に共感してくれる人がいなかったので【ぼっちの表現者】として今に至るのである。

1950年腕の一部が見つかり、両手を広げていたのではないかと言われている。わたしは片腕を上げていたりしていたのか勝手に想像するタイプです。

もちろん、わたしの創作活動(art)はヌードもあるから、受け取り側はエロい目でみたり、裏垢女子として捉えたり、自由であっていいものだ。

わたしはartというのは全ての人に理解されなくていいと思っている。

ラーメンと同じで色んな好みと趣向があり、そういうものだと思うのだ。
かくして、幼少期に積み上げてきた様々な
「美しいもの」に触れた結果、サモトラケのニケで大爆発したのである。

あの素晴らしい彫刻は、わたしのアイデンティティまでも形成してしまい、

めでたく【ばくちちのにけ】になったのであった。

Twitter@yuzuto1123


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