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欲望から好奇心へ。毎日に彩りを添えるマーケティングをしたい。

資本主義を社会学的に考察した本、最高だった。

『「欲望」と資本主義』という本を読了して、めちゃくちゃ読み応えのある本だったのと、何度も読み直したい本だったので、読書メモに初挑戦。本の面白さを伝えるって難しいなと思いながら書いてみました。

私自身、日々SNSマーケティング、ファンマーケティングの設計の仕事に携わる中で、そもそもこのマーケティング手法は、事業会社の中でどのように位置付けられているのか、今の社会においてどのような重要性や意味を持っているのかを考えたいと思っていました。

今回は、この本の要約とそこから私が考えたことを少し、記録しておきます。

距離によって生まれた「欲望」が資本主義を動かしてきた

この本では、資本主義を「欲望のフロンティアの拡張運動」と表現し、資本主義とはなんなのか、そしてそれが現代に至るまでどのように変化してきたのかを、社会科学的に考察しています。

まず、議論の大前提として「欲望」がどのようにして生まれるのかという考え方を述べています。
「欲望」は、「距離」があることによって生まれるのだと。

私自身もこれまでの人生で、距離があることによって欲望が生まれてきたなと気付かされて、めちゃくちゃ面白いなと思いました。

何かを目指したいとか何かに憧れると感じた時は、例えばレベルの高い学校に行きたいとか、でもそこには引越ししないと通えないとか、浪人した時も落ちたからこそリベンジしてやってやるぞと思ったり。
距離があるからこそ、その分、自分の欲望が湧き上がってくる感覚がありました。うんうん、すっごくわかるなと。

その、距離があることによって生まれる「欲望」、のフロンティアが拡張することそれ自体が資本主義だと言っています。
そしてその拡張の仮定で、資本主義の性質も変わってきた、と。

欲望の矛先の変化と資本主義の変遷

本書の内容からこれまでの資本主義の変遷をざっくりまとめると、大きく4つの段階にわかれます。
ここから欲望の向かう先がどのように変化して、それによって資本主義がどう変化してきたのかがまとめられてる。(高校生の時の世界史、こうして理解したらめっちゃくちゃ面白いよなあと思いながら読みました。笑)

①16C・17C:大航海時代と資本主義
②18C・19C:産業革命と資本主義
③20C:アメリカ型資本主義と日本の躍進
④現代:情報メディアと資本主義

①16C・17C:大航海時代と資本主義

この時代の舞台はヨーロッパ。
コロンブスが希望峰を発見し、ヨーロッパがアジアやイスラム圏の商業活動に参入した時代でした。
今となっては想像できないけれど、ヨーロッパよりもアジアやイスラム圏の方が商業活動が活発だった。だから、ヨーロッパは既存の商業圏に参入し、その恩恵を受けていたと。

そしてしかも、当時のヨーロッパでは、アジアの香辛料やイスラムの織布などは珍しいもので、ヨーロッパ域外からの輸入品それ自体が、モノの機能的価値以上の意味を含んだ価値あるものとされていた。

当時は香辛料なんてなくても生活はできたから、香辛料は必需品ではなく嗜好品。
そして上流階級を中心に購入されていた。

生活必需品ではないのに購入したいという欲望が生まれた理由は、その香辛料を保有しているということが、「アジアのモノを持っている」ということを表象していているから。モノのそれ自体の価値よりも、それが纏っているアジアという社会的・文化的意味自体に価値が置かれていたから。

②18C・19C:産業革命と資本主義

そして、イギリスを発端に産業革命が始まると、
欲望がさらに外へ外へと向かい始めた。

資本家と労働者の階級がはっきり分かれていた時は、その文化と文明の相違(=距離)が欲望の源泉となり、上の階級に行きたいとか、その人と同じ所属になりたいという欲望が、資本主義を動かしていた。

特にこの時代は、技術レベルでの躍進もあって産業主義と資本主義が結合した時代でもあり、そしてそれが、帝国主義へとつながった時代でもある。
人々の外へと向かう欲望が、技術・産業レベルの向上によって、より一層外へ向かうようになり、それが帝国主義に繋がって行ったんだと理解した。

③20C:アメリカ型資本主義と日本の躍進

産業革命の進展とともに発展した企業活動。
それを通して、大量の中産階級が生まれた。

この中産階級の登場は、「大衆」という概念を出現させ、
大衆が普遍的に使えるモノを作る必要があるという考え方に転換させた。

大航海時代から産業革命前までは、貴族や上流階級が、モノが帯びている文化的・社会的価値に対して欲望を感じ、それを購入していたのに対して、
20C以降の大衆消費社会では、大衆が一般的・普遍的なモノを買えるようにと、
社会のシステムが大きく転換していった時代でもあった。

この時代に躍進したのが、アメリカ。
アメリカは、ヨーロッパからの移民であるプロテスタントを中心とした民族だけではなく、中南米からのカトリック系、三角貿易時代に奴隷として連れてこられたアフリカ系、太平洋を渡って移住したアジア系など、様々な人種が混在している国。

その多様性が前提にあるからこそ、企業活動を行う上では、その多様性は排除されて、「普遍的なモノ」をいかに作るのかということが重要になった。
(ああ、だからアメリカは論理的に議論することや前提を整理することが得意なのね、と納得。)

だから、その人個人のバックグラウンドに関わらず企業活動を円滑に進められるよう、徹底した生産過程の細分化・システム化・効率化が推し進められ、フォードに代表されるような巨大企業が出現し、「大衆消費社会」を実現。
アメリカ国内の大衆に向けた商品が量産されるようになった。
こうして、これまで外へ外へ向いていた欲望は、内に向くようになった。

この大衆消費社会の実現と並行して、交通網や情報システムも発達し、
急速にグローバル化が進んでいきます。

その中で一気に経済成長を遂げたのが日本だった。
「大衆」として一括りにして企業活動をしていた多民族国家アメリカに対して、単一民族である日本は、同質性が前提とされているため、逆に「他と違うこと」が求められる。だから日本では、製品の多様化が推進され、消費者のニーズの細分化、商品の差異化を実践。
日本型の資本主義が躍進し、世界のトップに躍り出た理由だそう。

④現代:情報メディアと資本主義

こうした文脈の中に、改めて現代を位置付けてみる。
現代は、こうした産業主義と結合した資本主義のもとで、
商品同士の差異化が求められる市場競争が行われている時代だと考えられる。

一方で、消費者の「欲望」の状態に目を向けてみると、大衆消費社会の実現、グローバル化の進展によって、世界との距離がこれまでになく近くなったことにより、「欲望」はどんどん枯渇してきている。
少し前に「最近の若者は社会への興味関心が薄い・やりたいことがない」という言説が蔓延っていた理由は、この流れの中にあるのかもしれないです。

これまで欲望を創出してきた「距離」が近くなった今、
その「欲望」にすらも資本主義が入り込んできています。
それが、マーケティングです。

消費者の「好奇心」を生み出すマーケティング

この本では、現代の社会では、情報やメディアによって、人々の「好奇心」が生み出されていると説明しています。

この「好奇心」とは「欲望」とは異なり、
突発的で一過性で刹那的で、飽きやすいという性質があるとのこと。
(たしかに、Googleが少し前に「パルス型消費」という考え方を提唱していたのも、この流れの中にあるのかもしれないです。)

企業は、広告・マーケティングによって、簡単に人々の「好奇心」を生み出すことができるようになった。
これは少し見方を変えると、大航海時代以来、欲望のフロンティアの拡張とともに資本主義が拡張し続けたことによって、文化・文明の差異といった社会構造的に生まれる欲望が満たされ、枯渇し、その結果、これまでの資本主義ではある種の限界に到達している。だから、その欲望にも資本主義がアクセスし操作できるようになった、と。

現代のマーケティングのトレンド

ここまでが本書のざっくりした内容でした。

ここで改めてマーケティングのトレンドを再度捉え直してみます。
一般的によく言われていることは、下記の通りです。

まず一つに、消費者の興味関心・ライフスタイルの多様化によって、マス広告の時代からマイクロマーケティングの時代へと変化していること。
次に、マーケティングの質について、商品の機能的差異を伝えることよりも、商品のブランディングや企業イメージ形成が重要だと変化したこと。
そして、企業が一方的に消費者に対してメッセージを伝えていくのではなく、むしろ消費者を巻き込み、消費者と共創し、ブランドのファンを作っていくことが重要であるということ。

上記と本書の内容を照らし合わせて考えてみると、ブランドのファンになっていく現代の消費者は、企業によって形成される、モノ以外の文化的・社会的差異から生まれる価値(ブランディング)に「好奇心」をくすぐられ、企業・商品との距離を縮める(購入する等)という行動変容を起こしていると考えられます。

近年マーケティング手法のトレンドのひとつとしてファンマーケティングという手法がありますが、これも、商品や企業のブランディングを通して、企業は消費者との距離を近づけようとします。
ファンミーティングやSNSでの接触などを通して、とにかく消費者との接点を増やそうとするのです。

ファンマーケティングの再定義

「距離」の存在によって人間の本能的な冒険心をくすぐって生まれた「欲望」に対して、逆に距離感が近く親しみやすいコミュニケーションを行うことで生まれる「好奇心」。

現代の消費者は「欲望的」ではなく「好奇心的」に、心理変化をする可能性があると考えられます。それを前提にしたときに、ファンマーケティングを再度捉え直すことができそうです。

ブランドや商品のコアファンは、ブランドに対して何か個人的に深いつながりを見出し、深く愛してくれる可能性がありますが、
そこからファンを増やしていく段階になると、全員にそれを求めることは難しい。
きっと次の段階では、最初は「好奇心」でブランドに接触したけれど、だんだんと好きになっていく。その仮定で自分とブランドに対して何かつながりを感じる。
このような心理変化を起こすのかもしれないなと。

しかし一方で、「好奇心」は一過性なものだからこそ、ブランドはファンとこまめに接触していくことが重要になる。

そう考えると、ファンマーケティングは、「消費者の好奇心の連続的な発生の促進」と言い換えることができるかもしれないです。

コロナから1年。情報・メディアの役割と「好奇心」の連続的な創出

しかし、2020年、コロナウイルス感染症の流行によって世界は様変わりしました。これまでグローバル化の進展により世界との距離は縮まる一方でしたが、突然、世界との距離が開いてしまったと捉え直すことができます。

世界との距離が縮まる一方で欲望が枯渇した2020年以前の社会、
世界との距離が突然広がった2020年以降の社会。
この2つの社会を比較したときに、やはり、情報・メディアの存在意味と果たすべき役割は再定義されなければならないと思うのです。

まず、現代の社会は、そもそも人間らしい「欲望」が枯渇してしまった文脈の中にあります。だから、情報やメディアは人々の好奇心を生み出し、人生を豊かにしてくれる可能性を秘めていると思います。だからこそ、マーケティングには倫理観が求められると思います。(このご時世でマーケティング活動を通して、オフラインの場所に集客するなんて、本当にやっちゃダメだと思う。)

そして、コロナによって社会が閉ざされてしまった分、人々はブランドや商品によって刺激され、「好奇心の連続的な発生」的な人生を生きるようになるかもしれないです。世界が閉ざされて外に対して欲望を感じることが難しい世の中になってしまったから。

歴史的な非日常が、現代の日常になってしまったからこそ、
毎日に彩りを添えることに、マーケティングが寄与する世界になったらいいなと。
それが例え、人間の根源的な「欲望」ではなく、単なる「好奇心の連続的な発生」でしかなかったとしても、ね。


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