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私が身体表現に興味を持った話

私は元々幼少の頃から絵を描くことが好きだ。
それはもうやるべき事そっちのけで、何時間も没頭し寝る時間を惜しんで筆を持ち続けたりするような日もあった。
大した技量も画力もないが、10代の頃の多くはそうやって過ごしてきた。

でもなぜか、突然絵が描けなくなった。

私にとっては口をガムテープで塞がれているかのような閉塞感を感じたし、表現することで私の心は呼吸をしていたのだと思う。

言葉にできない私の色々な感情を絵は代弁してくれたし、私にとって筆は舌のようなものであった。

決して描く意欲が無くなった訳ではない。
描きたいのに、描けない。耐え難い苦しみだ。

ある時、私は写真で自分の表現したいものを切り取れば良いのではないかと考えた。
風景、季節、表情、肢体。
しかしこれもまた上手くいかず、モヤモヤとしたものを抱える日々を過ごした。

その頃の私の写真。

今でこそ分かる事だけれど、完全に写真や構図というものに対する知識が足りない。勉強不足。
そしてポートレート撮影に関しては、撮り手と写り手がいて、双方の方向性や理想をすり合わせて初めて成立する。

セルフポートレートという手段もあるが、三脚すら手元に無く、挙句さして広さも面白みもない部屋しか持たない私には難しかった。
何より自分の見せ方を知らなさすぎる。
あまりにも限られすぎた画角にも頭を悩ませた。

行き詰まりを感じていた時、とある女性のパフォーマンスを見たことで、これまでに自分の中で燻っていた表現欲と自分の表現したいものの方向性がハッキリと見えた気がした。

「やってみたい」
そう思っただけと言えばそれまでの話なのだが、私にとっては大きなきっかけであり今も彼女に憧れて、彼女を追いかけている。

私はポールダンスやバーレスク文化に興味を持っていたし、女性の身体の美しさには物心ついた時から惹かれていた。

コントーション、というものをご存知だろうか。
日本ではあまり耳慣れないかもしれないし、知名度もそんなに無いかもしれない。
コントーションは人体の柔軟性を極限まで追究する、いわばサーカスや曲芸の一種である。

私が初めて彼女を観たのは、アメリカンズ・ゴッドタレントの第一審査だった。

彼女は踊りで私やその動画内のオーディエンスを魅了したが、それはよく巷で流行っているポップで可愛らしい踊りでも激しくアグレッシブなブレイクダンスのようなものでもない、完全なる自由形で奇妙な表現。
人によっては不気味にも感じる動きだろうと思う。

驚異的な柔軟性と表現力に圧倒されて、大袈裟に思われそうだが私は脳天に電撃が走るような感覚を覚えたし、涙目になるほど彼女のパフォーマンスに心奪われた。

直感的に ああ、これだ と感じた。

世の中には色々な"可愛い"や"綺麗"や"美しい"、がある。
私は子どもの頃からアイドルや女優などに熱狂することがあまりなく、絵画創作でもどことなく王道的な可愛らしさや流行りに上手く馴染むことが出来なかった。

どちらかといえば昆虫やクリーチャーのような不気味で生々しいものが好きだったし、エロティック・グロテスクなどの表現もストレートすぎるものはあまり刺さらなかった。
薄暗くて抽象的で、人間の醜さを描く作風の映画や絵画を好んだ。

彼女のパフォーマンスの中には、私が表現したい「人間の身体」を感じた。

彼女の身体には溢れ出んばかりの感情が宿っていた。
全ての動きに意味やパワーを、存在を感じた。
可視化された心のようだった。

私が絵で表現しきれない人体の生々しい魅力を彼女は持っていて、私の中に「柔らかさは被写体としての表現の幅を広げることに繋がる」という確信をもたらした。

力んだ時に筋走る筋肉の美しさ。滑らかに動く四肢。
彼女のポールダンスは特に私の心を射抜いてくれたと思う。

時にはオルゴールの中のバレリーナのようであり、または羽が生えているかのように重力を感じさせない動きでポールの周りを揺蕩い、それはもう素敵なパフォーマンスだった。

私もやってみたい。

ただそれだけの気持ちからだが、ストレッチと筋トレを初めてみた。27歳だった。

最初は脚が90度も開かず、腹筋も10回やそこらでもう泣きそうになるほど辛くて、というか実際に何度鼻水と涙で自分の顔をぐしゃぐしゃに汚したか分からないほど私は非力だった。

何も成したことのないアラサーにはたった30分の筋トレとストレッチがゲームのラスボスみたいに強かった。

しかし3ヶ月も経ってくるとそこそこの成果が出てきて、自分の体の変化に大人気なく大はしゃぎしたことを覚えている。
30歳の今では夢であったポールダンスのレッスンに通えていて、ボルダリングなどのスポーツの楽しさがわかるようになった。
体も人並み以上には筋肉がつき、開脚も縦は180度以上開くようになったし、昔が嘘のように体力もついた。

ここまで歩めたのは甘やかさずに私の尻を叩き、絶対にトレーニングをやめさせなかった同居人の力が大きい。
彼にはとても感謝している。

27歳半ば、ある程度鍛えてるっぽい身体になってきたので、絵では表現しきれなかった事を自分の体で実践してみようと思い、同居人に手伝ってもらって作品を作った。

コラージュなども用いて試行錯誤、迷走の繰り返し。

うーん。これでもない。
頭を再度悩ませた。

私の体にはたくさんの傷痕がある。今ではタトゥーも複数箇所に入っている。
タトゥーはまだ良いとして、傷痕は自分の弱さを晒すかのようで、私にとってはみっともない烙印であり、恥ずべきものでしかなかった。

それを隠すことにも必死だったし、写真の傷痕を修正している間はやりたくてやっている事の筈なのになんだか惨めな気持ちになった。
そして、私の「自分の絵で表現しきれない作品を作りたい」「作品を作ることで表現という心の呼吸がしたい」という意図を知らない顔見知りの人間たちに後ろ指をさされている事で、また更に惨めな気持ちになった。

黒歴史、ナルシスト、メンヘラ、勘違い、構ってちゃん、色んな言葉がまだガラスの破片みたく心に突き刺さっている。

実際のところ、私は自分自身がそんなに好きでは無い。
今ですら憎いし殺してやりたいという気持ちが湧くことすらある。
なのに被写体をやっているということに矛盾を感じる人も多いのではないかと思う。

ある時ふと気づいた。

そもそも私は良くない意味で一般的な普通の人生を送ってきていないし、綺麗に生きてきていない。
さされた後ろ指と言葉の中には事実も存在していた。
私はただそれを受け入れたくなかっただけなのだ。

置かれた場所で咲きなさいという言葉がある。
泥の中に咲いている花があれば、それはそれで美しさを見いだせるかもしれない。
そもそも花である必要もない。何を美しいとするかは全て自由であるし、それでこその多様性と芸術性なのではないか。

私と全く同じ容姿の人、生い立ちの人は存在しない。
それは私に限ったことではなく、誰しもがそうであって、皆一人ひとりが違うからこそ尊いと私は思う。

誰かの当たり前は誰かの非日常で、ドブやゴミ溜めの中にもダイヤモンドが眠っているかもしれない。
そもそも其処はドブでもゴミ溜めでもないかもしれない。
人生や居場所がどう見えるかは人によって違うものだ。
見る角度が変われば悪にも正義にもなりうるし、切り取り方でどんなふうにも受け取れる。

人の生き様は絵や写真みたいだな、と私は感じた。
30歳になる少し前のことだった。

私は本格的に被写体活動をしよう、と決めた。

世間では18歳や20歳で成人と呼ばれるが、私は内側に閉じこもりきった人生を送ってきていたし、恥ずかしながら社会経験も対人経験も人並み以下だ。
特段綺麗な顔はしていないし、手脚は短いし、女性なのに女性らしい美しさがあまり無い体型をしている。

でも、自分の心の脆弱さを、醜い感情を、ありのままをやっと受け入れ始める一歩が踏み出せたと思った。

2023年2月16日、小樽のフォトグラファー未咲さんに心の成人式も兼ねて、写真を撮って頂いた。
2023年2月17日、Instagramのアカウントを作った。

未咲さん撮影「食虫花」という題名で
Veilという展示会に出展していただいた写真。

少しずつ少しずつ色んな方に写真を撮ってもらい、色んな出会いに恵まれて、2023年5月を目前とした今では、私もカメラを持つようになった。写される度に新しい自分を知れたり、誰かの表現のお手伝いが出来る。写す度にファインダー越しに切り取られた世界の美しさを感じるし、誰かの当たり前な日常の一場面や、四季や天候に小さな悦びと感動を覚える。

こうして活動している今、不思議なことにあれだけ描けなくて悩んでいた絵が、じわりじわりと描けるようになってきた。
私の口が、また何かを話そうと小さく開き、ゆっくりと息を吸い込もうとしている気がする。

再び舌という私にとっての筆を使って、言葉にできない"何か"を形に出来たら良いなと思う。

私の舌が筆なのであれば、カメラは私の目で、表現する為に写らせてもらうこの体は手のようなもので、多くの人と繋がれるSNSや言葉は私にとっての耳や足なのだろうと思う。

未だに悩む事も行き詰まることもたくさんあるけれど、30歳を過ぎてようやく自分の実体を得たというか、心と体がピッタリとくっついたような安心感を感じることができた。

そんなこんなで、私は被写体活動・身体表現をして生きている。
私の写った作品は誰かのファインダー越しの景色のひとつであり、私が生きた証のひとつであり、また一歩人生を歩み進めることができた勲章なのだ。

カメラは始めたばかりだけれど、私も誰かにとって「生きた証を残せた」と感じてもらえるような写真が撮りたいと願っている。

身体表現は心の内側をさらけ出す芸術だ。
いつどんな形であるかはまだ分からないけれど、自分が選んだ北海道という場所にこれからも身を置き、大輪の花を咲かせたい。

そして、昔の私と同じように自分に対して何の価値も感じられず苦しんでいる人達に、
自分という個であるだけでそれはもう特別であること、あなたのコンプレックスは唯一無二で美しいことを伝えられたら嬉しい。

美しさの多様性がもっともっと広がると良いなと思いながら、身体を作り、メイクを施し、衣装を考え、私は今日も日光を浴びています。

人生に彩りを。その彩りをフレームに収めて。

タイトル写真: 未咲様撮影

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