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2019年1月の記事一覧
子供の学びについて考えない勇気
ここ1年ほど、いやここ数ヶ月子供にとって学びとはなんなのか、散々家族で話をしてみた。結局のところ、子供にとっての学びとはなにか、という問いは日本語としては成立するが、実態として存在しない問題であるというのが結論だった。
親は「子供の学び」について「◎◎というところにはいって良い学びをして欲しい」と考える。でもこれはどこまでいっても親の課題であって、子供の課題ではない。子供がどんな学びをしようとも
自分いなければ世界が上手く回ると思うこと
だいたい自分が調子が悪くのは「自分は世界から排除されている」と勝手に思うことじゃないかとおもう。アドラーの用語でいう共同体感覚について積極的に否定しているのだろう。
たとえば、家族からも自分が排除されているとおもうことで「自分がいないほうがうまくいく」と思い込むことがあるし、それを破壊する行動をとりつづけてしまう。破壊された瞬間に最大限の所属を感じるというリワードのためにそのような行動をしている
焦れば焦るほどなにも出ない
なんか焦ってる。理解できないこと、いや言語化できないことがなんでできないかという自分に対して焦ってしまい、なにも出てこない。でも入れることはできる。もしかしたらセルフハンディキャップ、いや親によるレッテル貼りの一種かも知れない。ともかく正解がない問いに対してどうしたらいいのかまったくわからなくなっている。
焦ってからパセージプラスが始まるのになぜかアドラーに対してもの凄く興味を失っている。半年間
探求について考え直してみる必要がある
冬休みの宿題でジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」とエマニュエル・レヴィナス「タルムード四講話」を同時に読み進めてみている。さらに副読本として、「精神分析の四基本概念 解説」という本を読んでいる。そこの中で、ラカンは精神分析は科学かということについて、話をしている。ここで探求というキーワードが出てくるので、ここにフォーカスを当てて考えをしてみたい。
ラカンの文章を引用からスタートしてみよう