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【自己紹介②】何語も通じない友だちがつくる激辛ラーメン

この記事は、【自己紹介①】の続きです。

前回は、わたし書き手Yumiの幼少期のライフストーリーとアイデンティティにまつわるお話かいていきました。

今回は、自己紹介完結編ということで、わたしの大学生からのライフストーリーとアイデンティティについてかいていきます。

そして、このnoteの今後の企画、「国際カップルやハーフの方々のライフストーリーやアイデンティティにまつわるインタビューを記事にする」をなぜはじめようとおもったのかについても、お伝えしていきます。

何語も通じない友だちがつくる激辛ラーメン

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わたしが生まれ育った地域は世界的にも有名なメーカーの本社やその関連企業が集中する地域です。そうした企業ではたらく外国人の方々も多く住んでいます。

小学、中学の同級生には、ブラジル、フィリピン、ポルトガルなど外国にルーツのある子どもが多くいました。(意外にわたしの周りはわたし以外、韓国ルーツの子はいなかったです。。)

わたしが大学生になった頃、その地域で外国人エンジニアの方が集まって一時的に住む社宅で、エンジニアの妻さん方に日本語を教えるボランティアを少ししていたことがあります。

生徒さんのほとんどは、インドの方だったので、わたしは英語をつかって日本語を教えていました。

その中にぽつんと一人だけ、中国人の方がいました。彼女は英語ができませんでした。そして、教えるわたしは中国語ができませんでした。二人の間に共通言語はありませんでした。

ですが、不思議と中国人の方(以下、チョーさん)と一番仲良くなり、日本語教室以外の時間にも会って交流するようになりました。

あるときチョーさんの自宅に招かれ、手作りのラーメンをごちそうになったのですが、そのラーメンの辛いこと。。。

普段からキムチなど食べている日韓ハーフのわたしは辛い料理への耐性は充分にあるとおもっていたのですが、、、辛い、辛すぎる。。冷や汗を流しながら食べたそのラーメンは過去1、辛い料理でした。

言語でのコミュニケーションが上手くいかなくても、なんとかお互いに通じ合おうとするのが楽しくて、なんとか通じた合えたときはうれしくて、お互いの文化のギャップはおもしろくて、いわゆる異文化交流が大好きな大学生でした。

そんなわたしは大学生当時、日本語教室以外にも、留学生のチューター、留学生の日本語弁論大会の運営、地域の学校に異文化理解の出張授業をする学生団体などにも取り組んでいました。

激辛ラーメンに苦しむ時間も、言語が通じない時間もわたしにとっては一番楽しくて、好きな時間だったのです。

日本語がアウェイになる日本の大学院

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わたしは学部卒業後、大学院へ進み、国際開発研究科というところに所属していました。

日本の大学院にもかかわらず、当時も研究科の6割以上が留学生で、日本人学生の方がマイノリティという環境です。

英語のみで修士号を取得できる大学院だったので、研究科内は英語にあふれていました。発展途上国から国費留学生として来る学生も多く、彼(女)らは日本語がそれほど流ちょうでない場合が多かったです。

わたしは院に進む前から、オンライン英会話などで英語の勉強をしてはいました。しかし、英語圏への留学経験や在住経験はなく、それほど英語も流ちょうではありませんでした。日本の大学院に通っているのに、言語面では完全にアウェイでした。(わたしの所属していた研究室自体は日本語で研究を進めることは可能でした汗。)

英語オンリーのクラスに参加しているときは冷や汗をかきながら、必ず日本語と英語の両方ができる友だちの隣で参加していました笑。

あれ?おかしくないですか?

つい上記の激辛ラーメンエピソードのとき、わたしは、”言語でのコミュニケーションが上手くいかなくても、なんとかお互いに通じ合おうとするのが楽しくて、なんとか通じた合えたときはうれしくて、お互いの文化のギャップはおもしろくて、”なんて呑気なことをいっていたのですが、、、笑。

言語マイノリティの当事者になってみてはじめて、「ああ、言語ができないということは、こんなにも大変なんだ」と気づかされた経験となりました。

そして、中国人のチョーさんや日本語ができない状態で、妊婦という身重で当時来日したわたしの母のことを思い返します。

それぞれ異国で、言語だけでなく、文化も異なる環境下、どれだけの気苦労が耐えなかったのだろうかと。。。

”痛み”に心を寄せて

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前回のnote【自己紹介1の1】につづってきた通り、幼少期、日韓ハーフというわたしの背景は、最高に自己肯定感をあげるものとして機能していました。辛いことは何もなく、楽しい思い出しかありません。

ですが、”のほほん”とだけできたのは、自分の目に見え、経験できる範囲が全ての幼少期だけです。

わたしも大人になるにつれ、認知できる世界も広がるに伴い、”ハーフだからこそ感じる”もどかしさ、苦しさを徐々に直面することになります。

わたしの学部時代の研究室の教授は黒人の方でした。研究室では、黒人の奴隷貿易の歴史から現在もつづく黒人差別、海外でのアジア人差別、各人種のステレオタイプと、そのステレオタイプを再生産しつづけるメディアについて学びました。

また、黒人という理由で、先生自体が日本で受けた人種差別についても聞きました。わたしにとって人種差別を受けた当事者の話をきくのはそれがはじめてでした。外国人を家族にもつわたしにその話はリアルに迫ってきて、胸が苦しかったことをおもいだします。

大学院に進んでからは、在日コリアンの多様性をテーマに修士論文を執筆しました。在日コリアンの方々が受けてきた差別、在日コリアン間や対朝鮮半島との対立や葛藤の歴史を文献でまなぶだけではなく、フィールドワークで実際にその声をきくこともさせてもらいました。わたしも在日コリアンの一人としてもどかしく、また、胸の痛くなる内容ばかりでした。

わたしは日本ではマジョリティーの日本人の部分もあるし、日本ではマイノリティの外国人であるコリアンの部分もあります。

どちらの心情も立場もくみとって最良の関係性が全員と結べたら、言うことはありません。そう願うそれがハーフとしてのわたしの複雑な心中です。

これからのnoteでは

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これ以降のnoteでは、さまざまな国の国際カップルやハーフの方々のライフストーリーやアイデンティティにまつわるインタビューを記事にしていきます。

なぜそれをわたしはするのでしょう?

それは、国際カップルもハーフも”痛み”を背負いつつも”可能性”があるとわたしはおもっているからです。

”可能性”とは?

わたしの場合で言えば、”どちらの心情も立場もくみとって最良の関係性が全員と結べたら、言うことはありません。そう願うそれがハーフとしてのわたしの複雑な心中です”

まさにこの心中が、”可能性”にあたります。

これは、わたしが、他の国際カップルやハーフにもあるだろうと仮定している”可能性”でもあります。

あくまで仮定なので、これからインタビューさせていただく方にその仮定を証明せよと無理強いはしません。

このnoteは、わたしのこの仮定、”問い”を検証すべくインタビューをしていくのです。

この仮説が正しいものであれば、それは”可能性”になります。

それは、皆が平和に共生できるための”可能性”です。

このnoteが平和へのヒントで溢れたnoteになることを願いながらこれからの執筆を頑張っていこうとおもいます。

今後ともぜひその軌跡にお付き合いいただけるとうれしいです。コメント等もおまちしています(^o^)♪



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