社会進化の真の原動力
近頃あまり流行らぬ社会進化論であるが、私は個人的に昔から好きである。
社会の発展の歴史から法則性を見出だし、そこからさらに未来予想をする、という態度は、実際必要な考え方であろうと思う。
私は幼いころから歴史が好きだったこともあって、大学のころには半ば必然的に社会進化論に到達し、すぐに傾倒したものであった。
故に私もちょっとした将来予想というか、大局的世界観を有しており、そのうち語りたいと思っている。
だが今回私がお話したいのは、そうした社会進化の法則性というより、その法則に従いながら社会が進化する過程の原動力についてである。
これはいうならば化学反応における触媒のようなものであるが、この触媒が実に重要である。
ある革新的な社会思想や宗教哲学などにより、社会の次の段階が具体的に示されても、この触媒がなければその段階が実現することはない。
ではその触媒、即ち原動力とはーー他ならぬ「陶酔」である。
ニーチェはこうした陶酔的原動力を「ディオニソス的なもの」という概念として「悲劇の誕生」で提唱したが、似たようなものと考えてほしい。
はじめは「アポロン的なもの」と対立する概念にすぎなかった「ディオニソス的なもの」であるが、彼の変遷する思想のなかで「ディオニソス的なもの」はニーチェのなかでその存在感と価値を高めている。
ニーチェはそれを個人のみの領域において語ったのだが、私はそれを社会規模でみた。
陶酔は物質の生産関係のように数値化されず、目にも見えない。それゆえこれまで軽んじられてきたのだが、これなくしてあらゆる社会は進化し得なかった。
例えば古くからの中国において、王朝の変わり目に現れる謎の新興宗教による暴動は分かりやすい。
黄巾の乱、紅巾の乱など、近代には太平天国の乱、義和団事件…いずれもこの非合理的宗教団体の持つ熱量によって王朝は倒されてきたが、その原動力はこれを信じ、熱狂する民衆の「陶酔」に他ならない。
フランス革命のときは啓蒙思想が大衆に「思想から来る陶酔」を与え、その力はナポレオンの手に渡るとヨーロッパを席巻した。
明治維新では水戸学が理論的支柱となって王政復古の道を示し、それが陶酔をもたらした。
当時の大衆が新時代に希望を見出だし、「ええじゃないか」と躍り狂ったのは、これを象徴している。
ロシア革命はいわずもがな、共産主義がもたらした陶酔によってなされた。
しかるに戦後日本においては、ソ連の指導が入った日本共産党は、何らの成果も得られなかった。
国民のなかに全く社会主義による陶酔が溢れていないのにも関わらず、ロシア革命と同様のやり方を試みて徒労に終わった。
これは今では極左冒険主義と批判されている。
ロシア革命と日本共産党の差はこの陶酔の有無につきるといえるかもしれない。
革命は体制側には危険思想だが、社会を純粋に客観視してみれば、一定間隔で必要とされることがわかる。
大化の改新、明治維新などは歴史に肯定されており、実際これらがなければ日本史は全く違うものとなっている。
現代、将来の日本にも革命的大改革が必要なときは必ずくる。
そうした時、社会が陶酔を産み出しやすいかが相当重要となってくる。江戸時代などはこの点非常にすぐれていた。
現代日本も陶酔を生み出しうる素養を大衆に育まねばならない。
その素養とは、各人が流されずに自己で是非を判断することのできる確固たる道徳、そして美しいものにあい感激できる豊かな感性のふたつである
これらなくして、日本の不滅は確信できない。
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