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連載長編小説『赤い糸』10

        10

 翌朝登校した修也は、泉が目を覚ましたことを麻衣に伝えた。麻衣は安堵の表情を浮かべるのと同時に緊張の糸がぷつりと切れたようで、目に涙を溜めていた。
「よかった。本当によかった」
「今日にでも見舞いに行ってやってくれ。きっと泉、喜ぶだろうから」
「修也は?」
「俺は今日、バイトがあるからいけない。でも泉とは昨日話もできたから」
 もう気に掛けてくれなくていいよ――。
 泉の声が耳に木霊した。本心であるはずがなかった。責任を感じる修也の気持ちを楽にするために言ったとしか思えない。
 二人は別れた。もう恋人じゃない。だから、もう気に掛けることはない。
 そういう意味だろうか。
 それで修也が見舞いに来なくなっても、泉は後悔しないのだろうか。あるいは未練を抱いているのは別れを切り出した修也だけで、泉は何とも思っていないのかもしれない。
 だが、目が覚めて修也が傍にいたことを彼女は救いだと言った。
 恋人じゃなくなっても、泉が心身ともに安定するまでは気に掛けなくては。そう思うのは、やはり泉を自殺未遂に追い込んだ責任の一端を感じているからだった。
 泉が修也のせいじゃないと言っても、修也の気持ちが収まらない。
 平日は学校、放課後にはアルバイトで予定が埋まっているため見舞いにはいけないが、土日にはなるべく病院に足を運ぼう。
「水を差すようで悪いんだけど……」
 修也と麻衣の会話に薫子が割り込んだ。どうやら薫子は修也の話を聞き、麻衣と泉の無事を喜んでいたようだ。
 考え事をしていたせいでまったく気づかなかった。珍しく俯きがちな薫子に、修也は不穏な気配を感じた。
「パパから、事件のことを聞くことができたの」
「本当に? どうやって……」
「取調の内容まではさすがに言えないみたいだったけど、一週間粘った甲斐あって、パパは事件のことを話してくれた。十五年前のことも」
「十五年前。畑野さんのお父さん、十五年前もこの事件に関わってたの?」
 薫子は頷いた。上目遣いに修也を見る表情がみるみる蒼白になっていく。
「十五年前、幼児殺害事件は犯人が逮捕されて裁判で有罪になったことで幕を閉じた。犯人は自首して、証拠も揃っていたらしいの。でも今回真木さんのお母さんが逮捕されて、十五年前のことは冤罪だった可能性が出てきた」
「犯人が自首してるのに?」麻衣が首を傾げた。
 薫子は小さく頷く。「それでね、その……十五年前の事件で真木史緒里の罪を被ったのが滝沢直人、滝沢君のお父さんなの」
 脳天から頸椎に掛けて鈍い痛みが走った。手足が痺れて、喉も使えない。雷に打たれたよう、とはこのことかと修也は思った。薫子の衝撃的な告白に声も出ない修也だったが、額に浮かんだ玉の汗がこめかみから頬を伝ったことで、俺動揺してる、と妙に冷静に自分を見ることもできた。
 滝沢直人。
 初めて聞く名前だった。
 幼い頃から母には父について何度も質問してきた。しかし今まで母がまともに答えてくれたことはない。父の名前すら教えてもらえなかった。父の話を頑なに拒む母、名前すら教えてもらえなかった過去、亡くなったとされた父の仏壇が家になかったこと、すべてが薫子の告白で符合した。
 歪だ。だがすべてがぴったりと嵌まる。
 父は殺人犯だったのか。狼狽を隠せないまま、修也はそう思った。
 冤罪の可能性があると薫子は言った。では父は殺人犯ではないのか。ならばなぜ自首したのだろう。
 目まぐるしく暴れ回る思考の渦から、修也は最後にある考えを手繰り寄せた。
 父は生きているのではないか――。
 物心ついた頃にはいなかった父。亡くなったとされた父。それゆえに、貧乏暮らしをするしかなかった母子。
「それでね」と薫子は続けた。「パパ、十五年前にも真木さんのお母さんが臭いと睨んでたんだって」
「ちょっと待って」麻衣が困惑顔で言った。「修也のお父さんと泉のお母さんは昔からの知り合いだったの? 二人とも事件に関わってるってこと?」
 薫子は小さくかぶりを振った。
「順を追って話す」
 薫子は、一段と声を落とした。
「十五年前に殺されたのが柿本愛斗君っていう二歳児だったことは報道されてるでしょ? 事件が発覚したのは滝沢君のお父さんが警察署に出頭したから。それから現場に警察官が集まって、いろいろ検証が行われた。逮捕された滝沢容疑者の供述では、その日近所に暮らしていた柿本夫妻から息子を預かってほしいと頼まれ、面倒を見ていた。でも仕事で疲れていたこともあって、ふとしたことでかっとなり、愛斗君を撲殺した」
 優しい人だった、という母の言葉とは繋がらない。だがそれも当然だった。史緒里が逮捕されたことで父の無実は証明されたのだから。警察署でも辻褄が合うように嘘の供述を行ったのだろう。
 しかし何のためにそんなことをしたのか、なぜ史緒里の代わりに自首したのかがわからない。
 薫子は続けた。
「凶器も回収され、容疑者の供述に破綻はなかった。容疑者が犯行を認めていることもあって、あとは送検するだけ。そんな空気の警察の中で、パパはあることに目を付けた。それが真木さんのお母さん。なぜなら殺された愛斗君の父親、柿本弘之さんは真木史緒里の元夫だったから」
「泉のお父さん?」麻衣がわかりやすく狼狽えている。泳いだ目が宙を彷徨い、眉間には不快そうに深い皺が刻まれている。
「泉の父親の話なら俺も知ってる」
 修也は佳純から聞かされた話を思い出した。泉を傷つけないでほしいと言われた、あの時に聞かされた話だ。
 泉の父親――柿本弘之は史緒里と結婚する以前から浮気を働いており、史緒里と結婚した後も愛人関係は続いていた。そして愛人の妊娠が発覚し、まもなく史緒里とは離婚。その直後に史緒里の妊娠がわかったが、すでに後の祭りだった。
 麻衣はますます顔をしかめ、憤怒を顔全体に滲ませた。
「容疑者の供述に破綻はなかったけど、犯行を隠さずすぐさま出頭したのは誰かを庇ってるんじゃないかって刑事の勘が働いたらしいの」
「それで畑野さんのお父さんは泉のお母さんを疑った」
 確かに、史緒里なら柿本弘之を殺したいほど憎んでいるだろう。一方的に離婚を突き付けられる原因となったのは他でもない。柿本弘之が愛人との間に作った子供、柿本愛斗なのだ。
 薫子は頷いた。
「殺害の動機は十分。パパが調べたところアリバイもなかった。でも滝沢容疑者が自分一人の犯行だと供述していたこともあって捜査は打ち切られた。それからすぐに検察に送検されたんだって」
「結局、泉のお母さんと修也のお父さんの関係は?」
「何も見つからなかった。学歴も職歴も、共通の知人も、一切繋がりは見つからなかった。だからパパは諦めるしかなかった。でも今回真木さんのお母さんが逮捕されて、パパの勘は正しかったことが証明された」
「でもどうして――」
 麻衣が何か言い掛けたところで定岡が入室した。すでにチャイムは鳴っていたようだ。三人ともチャイムが聞こえないくらい切羽詰まっていたのだ。
 まもなく野球部が慌ただしく廊下を駆けていった。龍一も汗を滲ませながら教室に現れた。その頃には、三人はそれぞれの座席についていた。
 ホームルームの最中、修也は薫子の話を整理した。
 ふと空席の泉の座席に目をやると、腹の底から怒りが湧き上がって来た。
 泉とは同じ苦労を共有している。同じ価値観で語り合うことができる。そう思っていた。しかし自分と母の幸せな生活を奪ったのは史緒里だった。父が出頭して逮捕された後、史緒里が正直に申し出ていれば、滝沢家はばらばらになることもなかった。修也は両親の愛情を受けて育ち、週七日もアルバイトをする生活はなかっただろう。
 母が夜な夜な働きに出ることもなかった。
 少年野球にも入れただろう。高校野球もできたはずだ。食事を腹一杯食べて、甲子園、プロ野球選手を目指せたはずなのだ。
 それらすべてを壊したのは史緒里であり、修也の救いのない人生を作ったとも言えるだろう。史緒里が泉の母親であることも恨めしかった。
 泉とは、どうしても結ばれ得ない運命だったのだ。赤い糸は赤い糸ではなかった。それと同じで、二人は出会った時には足元で糸がほつれていたのだ。
 それを悟った今、泉の見舞いに行くことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。泉と過ごした時間も、泉と共有した幸せも、すべて虚しい思い出となってしまった。
 すべて史緒里が蒔いた種だ。
 俺は悪くない。
 それは確実に言えた。今となっては、泉が自殺未遂を図ったことすら無責任な行動に思えてきた。もう見舞いなど行かない。
 そこまで考えて、修也は深呼吸をした。
 冷静になろうとしたが、どうしても怒りは収まらなかった。それは仕方がないことだと修也は自分を擁護した。
 無実の罪を着せられ、家族は崩壊した。父は死んだとされ、母子は苦しい生活を十五年も続けた。夢も希望も救いもない毎日、その中でようやく報われようとした矢先、無情な人生の発端を知ることになった。
 以前黒板に「人殺しの娘」と書かれていた。そんな汚い真似で復讐をしようとは思わない。泉を傷つけるつもりもない。
 だがあえて言うなら、泉はただの人殺しの娘ではない。
 自分達家族を粉々にした、残虐非道な人殺しの娘だ。到底赦すことはできない。たとえ泉に罪がなくとも。

 アルバイトを終えて帰宅すると母がいた。今日はパン屋の仕込みに行かなくてもいいようだ。お互いシフトは把握しているが、母の休日を頭の片隅に置いておくだけの余裕が修也にはなかった。
 コンビニで廃棄予定の弁当を二つ持ち帰ったが、母はすでに夕飯を済ませたらしく、いらないと言われた。
 別にいいのだが、流し台には茶碗と小皿しか置かれていない。枝のように細い母の体を見ていると、少し心配になる。何を食べたのか訊くと、白米、玉子焼きとほうれん草だけだと言う。
 普段と変わらない食事量だが、今日は母にちゃんと食べてもらいたかった。どうせ廃棄される弁当だが、まだ食べられる。
「両方開けるから、ちょこちょこ摘まんで。弁当二個はさすがに多いから」
 母は遠慮がちに頷いた。修也は袋からオムライスとカルビ弁当を取り出した。割り箸を二膳卓袱台に置くと、母が弁当を覗いた。
「カルビ弁当食べていいよ。余った分だけ俺が食べるから」
 母は夕飯に玉子焼きを食べていたから、オムライスだと飽き飽きすると思った。
「修也はどっちが食べたいの?」
 修也の気遣いを見抜いたのか、母は両方の弁当を手に取り、訊いた。
「オムライスでいい。デミグラスがうまそうなんだよな」
 どちらかと言えば、カルビ弁当のほうが食べたかった。しかしオムライスに不満があるわけでもない。
 わかった、と言うと母は弁当を両手に電子レンジへと向かった。タイマーをセットして母が戻って来ると、修也は居住まいを正した。
 それだけで雰囲気が変わってしまったようで、母は息子をまじまじと見つめた。
「どうしたの?」
「滝沢直人」
 父の名を口にすると、母はぎょっとして表情を凍り付かせた。取り乱した様子はなかったが、狼狽しているのは弱々しく揺れる瞳から見て取れた。
 修也は続けた。
「真木史緒里さんの代わりに逮捕されていた人の名前。滝沢直人って、俺のお父さんなんだろ。ずっと死んだと思ってた。でも死んでなかった。どうして死んだって嘘吐いてたの」
 母は戸惑った様子で、俯くしかないようだった。
 どう説明すべきか母が考えている内に、弁当の温めは完了した。甲高い機械音が、重い沈黙を切り裂いた。しかし母はそれも聞こえないのか、じっと俯いている。
「母さんを責めるつもりはないから」
 修也は母の手をそっと握った。父が殺人犯なのを隠されていた怒りはある。嘘を吐き続けられたことへの怒りもある。だが今は、その怒りを鎮めた。目的は鬱憤を晴らすことではない。真実が知りたい。それだけだ。
 母は、下を向いたまま口を開いた。
「あの人がそうしたほうがいいって」
「あの人って、お父さんのこと?」
 母は頷いた。
「何も言わないことが、修也のためだと言ったから。だからずっとお父さんは亡くなったことにして、修也を普通の子供として育ててきた。母子家庭の子供でも、殺人犯の子供よりはよっぽどましでしょ?」
 泉の身に降りかかったことを思えば、そうなのかもしれない。史緒里が逮捕されなければ、おそらく事件を知ることは生涯なかった。本人が知らずに死ぬのなら、それは嘘を吐かなかったのと同じことかもしれない。
 だが嘘は、いずれバレる。どう繕っても綻びが出るのだ。父の仏壇がどこにも見当たらなかったように、些細な違和感が必ずあるものだ。
 修也は肯定も否定もしなかった。母子家庭の子供のほうが殺人犯の子供よりましなのかどうか、今の修也に答えは出せない。
「母さんは、お父さんが殺人犯として捕まった時どう思った?」
 意表を突かれたように、母は唖然とした。眉根を寄せたかと思うと、みるみる血の気が失せていった。
「お父さんは優しい人だったって母さんは言ってた。優しい人がかっとなっただけで人を殺すかな? それも二歳児。当時の俺と同じ歳の子供を。もしかして優しい人っていうのも嘘?」
 母はかぶりを振った。はっきりと、力強く。
「お父さんは修也が大好きで、優しい人だった」
「優しい人が人を殺すとは思えないし、息子思いの父親ならどうして家族を路頭に迷わせて他人の罪を被る必要があった?」
 母は答えない。口を噤んだまま、涙袋に溜めていた涙を薄っすら流した。
「まして知り合いでも何でもない人の罪を」修也は続けた。「二歳の息子って、一番かわいい時だし、きっと家族が一番幸せな時だろう? その暮らしを捨ててまで出頭する理由があるとは思えない。母さんは、何か知ってるんじゃないの?」
 手の甲で涙を拭いながら、母は「わからない」と言った。
「わからないの。何もわからない。事件は前に住んでた家で起きた。庭付きの、今では想像できない一戸建ての家。その庭で預かってた子が亡くなった。お父さんは混乱したのかもしれない。出頭して逮捕されて、面会に行ったお母さんに、修也には何も言うなって。それが修也のためだって。お母さんも、あの日までは幸せだった。この幸せがずっと続くと思ってた。どうしてお父さんが幸せを捨てたのかはわからない。責任感の強い人だったから、自分の家で事件が起きて、罪の意識を持ったのかも。でも確かなことは何もわからない」
「それが真実なの?」
 母は激しく洟を啜っており、修也の声は聞こえていないらしかった。
 修也は庭付きの一戸建てを想像しようとしたが、うまく思い浮かべることはできなかった。家族三人での幸せな時間を想像してみたが、それもうまく描けない。
 六畳の狭いリビングと、過酷な人生を語り悲しみの涙を流す母。明るみになった真実に衝撃を隠せず、確かに過去に存在した物と時間を思い描けない自分。そんな現実だけがあった。
 感情が萎れていく。みるみるうちに枯れていく。
 自分の置かれた立場も、見舞われた過去も、もはや無情とも哀れとも思わなかった。
「お父さんに会いたい。直接会って話がしたい」
 母は一つ息を吐くと、無念そうに肩を落とした。
「お父さんがどこにいるのか、お母さんも知らないの。もう出所してるけど、お父さんと会ったのはさっき話した面会が最後だから」
「そっか……」
 修也は立ち上がり、電子レンジから弁当を取り出した。表面に触れた後、レンジの中に戻した。温め直していると、レンジの蓋に自分の顔が反射していることに気づいた。
 生気のない、痩せこけた顔。そこに埋め込まれた黒々とした目はぽっかりと穴が空いたみたいで、自分の顔なのに恐怖を感じた。
 きっと殺人犯は、こんなふうに感情のない顔をしているんだろうなと思った。

11へと続く……

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