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連載長編小説『赤い糸』12-2

 すでに太陽は沈んでいる。外灯の乏しい路地は深海のように暗かった。今日は曇り空で月もなく、気味が悪い。
 背後に人が立つと、男の修也でも背筋が寒くなる。麻衣は修也の何倍も恐怖を感じているはずだった。丼屋へと向かう道すがら、夕闇深い道を歩いていると、午前中に南から聞いた話が意図せず再生される。
 十字路の死角からカタカタと自転車のペダルが回る音がして立ち止った。自転車は修也の通う高校の方角から走って来た。運転手も人影に気づいたようで、減速した。
 自転車が通過するのを待とうとしたところで、自転車はなぜか止まった。
「やっぱり修也か。どこ行くんだよ」
 龍一の声だった。やっぱり修也かと口にしたものの確証はないらしく、彼は修也の顔を露骨に覗き込んだ。それで修也も龍一の顔を認識した。龍一は制服の上からグランドコートを着ていて普段の三倍ほど体格が良く見える。
自転車の前籠には野球部で揃えているリュックが積まれていた。龍一の家は学校から遠くないが、荷物が多いので自転車通学をしているのだ。
「バイトだよ。丼屋」
「そっか。送って行くよ」
 龍一は自転車から下りると修也の横に並んだ。もし高校球児になれていたら、こうして龍一と並んで毎日談笑しながら帰っていたのだろうか。
 そんなことを考えて、悲しくなった。
「別にいいよ。すぐだし。龍一も部活帰りで疲れてるだろ」
「いいんだよそんなことは」
 歩きながら、今日は何してたんだと訊かれたので引っ越しのアルバイトに行っていたことを話した。これから丼屋で勤務だと言うと龍一は「冬練よりきついな」と驚いていた。
 そうだよ。生きるのはきついんだ。
 修也はそう思ったが、顔には出さなかった。龍一は何も悪くない。龍一の悪いところといえば二股を掛けていることくらいだ。プロ野球選手になった時は、どちらかと別れさせないと。
 スキャンダルは尾を引く。
 会話が一段落して、麻衣のストーカー被害を伝えようかと思った。だが喉元まで声が出掛かったところで憚った。
 知らないほうが幸せなこともある。
 もし史緒里の代わりに父が逮捕されていたことを知らなかったら、昏睡状態から生還した泉と寄りを戻せたかもしれない。殺人犯の娘に少しの軽蔑もないことはなかったかもしれないが、恨みや憎しみを抱くことはなかったはずだ。
 麻衣のストーカー被害のことは伏せておこう。まずは本人と話をしてから龍一に伝えるかどうかを決めよう。
 数分の沈黙の後、龍一が口を開いた。
「真木の見舞いに行ってないらしいな」先程までとは打って変わった、真剣な声だった。「行かないのか?」
 修也は頷いた。
「そうか」
 修也を責めるような声ではなかった。落胆したふうでもなく、ちゃんと納得しているように感じられた。
 龍一は「修也は悪くない」と言ってくれていた。史緒里の代わりに修也の父が逮捕されていたことを知っているかはわからないが、彼は見舞いに行けと無理強いするような人じゃない。
「もう好きじゃないのか?」
「好きだ。好きは好き。好きだけど……俺達はどうしても結ばれない」刹那逡巡した後、修也は口を開けた。泉に対して、史緒里に対して、いくらでも冷酷になれる気がした。「人殺しの娘とは生きてる世界が違うんだ」
 言い放って胸がすいた。濁った星空が晴れやかに感じられた。
 修也と泉の生きる世界は、それぞれ平行線上にできていたのだ。交わるはずはなかった。交わってはいけなかった。
 まったく関係のない人生だったなら、泉をただ恨むだけだった。史緒里を憎むだけだった。それならどれだけ楽だっただろう。
 運命のいたずらか、何かのひずみで平行線が折れ曲がり、泉の世界と交差してしまった。それが本来あるはずのない恋愛感情を生み、憎悪や悔恨が入り乱れた結果、今や二人の世界はねじれてしまった。
 すべて史緒里が悪いのだ。二つの平行な世界は十五年前に生まれたのだから。史緒里が十五年前に逮捕されていれば、二つの世界は分岐することもなかったかもしれない。
 まもなく丼屋に到着したが、龍一は駐輪スペースに自転車を置くと、修也と店内に入った。
「飯食って帰るよ」
「いらっしゃいませ」と修也は頭を下げた。
 龍一は笑ってカウンター席に座った。店長に挨拶をしてバックヤードに向かおうとしたところ、龍一に呼び止められた。
「またウチに飯食いに来いよ」
 修也は頷いた。高校生になってから、白崎家には一度も行っていない。中学の時はしょっちゅう足を運んだというのに。
 あの頃から、ずいぶん変わったのだ。変わってしまったというべきだろうか。いや、中学の三年間が異質だったというのが正しいのだろう。生きていて楽しいと思えたのは、部活動をしていたあの頃だけだった。
 バックヤードで着替えて厨房に入ると、龍一はスタミナ丼をアスリートらしく掻き込んでいた。食べ終わると、龍一は満足げに帰って行った。

 翌朝、登校すると神妙な顔つきの麻衣が修也の席に来た。何事かと思ったが、朝らしからぬぱきっとした顔に目立った痣はなく、修也はひとまず安心した。
 挨拶を交わすと、麻衣は修也の前の座席に腰を下ろした。修也の前の座席の生徒はまだ登校していなかった。同様に、泉の席も空席だ。まだ入院しているため、当分学校には来ない。
 そう考えた時、安堵している自分に驚いた。
 父と事件の関係を知った時から泉に対しての憎しみを自覚してはいたが、その先のことは今まで考えたこともなかった。
 泉が復学したら、自分はどんなふうに接するだろう。
 冷酷に、非情に、クラスメイトの前でも構わず、泉を相手にはしないだろう。それを見たクラスメイト達は、修也を酷いやつと見て、悪い評判が流れるかもしれない。あるいは修也の父のことが学年中に広まって、修也に同情すると共に泉に冷たい視線が注がれるかもしれない。
 いずれも恐ろしい結末が予想された。
 修也の悪い評判が広まれば、修也は今以上に泉を憎く思うだろう。父のこともある。今までの母との貧困生活もある。ようやく見た希望の光を遮断された恋愛のこともある。そうした恨みが積もり積もって、一体何をしでかすか、自分でも予測がつかない。
 修也への同情が多く、泉に対して冷たい視線が注がれた場合、結果は目に見えている。泉はまた自殺を図るはずだ。すでに睡眠薬は手元にないだろう。警察が回収しているはずだ。しかし今度は確実に死を選ぶ。刃物か、身投げを選ぶのではないか。
 仮に泉が再び自殺を図っても、修也は驚かない。前例があるから、ということではなく、泉の死はもはや修也に関係がないからだった。
 真木母子のことでなら、いくらでも冷酷になれる。泉が自殺をしたとしても因果応報とさえ思える。
「泉のことなんだけど」麻衣は口を開いた。
 修也は泰然とした様子で頷いた。泉の話だろうと見当はついていた。見舞いに行かないことを責められるのだろうか。
 思えば集中治療室から病室に移ってからの泉を見ていない。
「昨日病院に行ったら男の人が来てた」
 ぐらっと心が揺れたが、顔には出さなかった。口を閉じたまま深呼吸をして、自分を落ち着かせた。冷徹な心はすぐに取り戻せた。
「へえ」と修也は関心がないと言うように答えた。
「気にならないの?」
 麻衣は修也の思惑通り、そう口にした。
「うん」
「最っ低! あんなに仲良かったじゃない。恋人だったんでしょ。入院してるんだよ。それもただの入院じゃない。泉は死にかけたんだよ」
 自ら死を選んだんだ、とは言わなかった。
「普通気になるでしょ」麻衣は吐き捨てるように言った。
 それは俺の事情を踏まえた上での言葉なのか、と思ったが修也は口にしなかった。代わりに、「じゃあどんな男の人が来てたの?」と訊いた。
「じゃあって何?」
 当然ながら、麻衣の反感を買った。殺人犯の娘となった親友の味方でいるのはすごいことだが、少しは修也の気持ちを考えてほしい。
 泉を心底心配して毎日見舞いに行こうものなら、「親切な元恋人」という奇妙な目で見られることになりかねない。
「普通気になるって麻衣が言うから。じゃあ気にしようって」
「泉盗られちゃうよ」
 麻衣は不満そうに眉尻を下げた。あんなに仲良しだったじゃない、と言うように、麻衣にとって修也と泉はお似合いだったのかもしれない。自分で言うのも何だが、自分自身でもお似合いのカップルだったと思うし、泉以上自分に相応しい女性はいなかった。
 だが二人の人生は相容れないものだった。それだけだ。それだけのことで、二人はお似合いだが結ばれ得なくなったのだ。
「盗られるような人なのか」
「バイト先の先輩。何度かお見舞いに来てくれてるの。優しいの」
 優しければいいというものだろうか。特に泉は、優しいだけの男にころりと惚れるということはないだろう。
 それとも麻衣は、傷ついた女は優しくされると惚れてしまうとでも言うのだろうか。そんな愛の妙薬があれば世の男性は何も苦労しないのだが。
 修也はふうん、と興味のない声を出した。麻衣と話をしていて、少しずつ心が冷えていくのを感じていた。
「いいの? 盗られても」
 私がよくないんだけど、と麻衣の目は語っていた。
 俺だってよくない、と修也は答えたかったが、ここまで溝ができて今更どうやって仲直りするというのか。
「仕方ないよ」さらりと言った。
「仕方ない? どういうこと?」
「俺達は別れた。二人の人生はどうしたって交わらなかった。出会ってはいけない二人だったんだよ。運命はそれを思い知らせた。運命の赤い糸を以って。泉との恋愛はもう終わったんだ。泉が誰と会っていようが、誰を好きになろうが」自殺しようが、とはさすがに言わなかった。「俺には関係ない。その優しい人を好きになったなら、それでいい。盗られても、仕方ない」
 そうだ、泉との恋愛は終わったのだ。
 修也は自分の言葉に諭された。同時に、前に進まなければと思った。泉の傍にアルバイト先の先輩がいるように、俺には綾香さんがいる。お互い前に進むことはできるはずだ。
 見損なったと言うように厳しい視線を向ける麻衣に、修也は言った。
「俺も話があるんだけど」
 嫌悪感を露骨に滲ませた声で「何?」と麻衣は言った。
「その痣のこと、龍一に相談したほうがいいんじゃないの?」目立たなくなってはいるが、依然痛々しく残る薄い痣を修也は指差した。「ストーカーされてるんでしょ。中学時代の恋人に」
「へ……」と震える声をこぼすと、麻衣は表情をなくした。みるみるうちに、顔から血の気が失せていく。
 修也はカウンターパンチでダウンを奪ったみたいに気持ちよくなった。だが麻衣を貶める気などない。麻衣のストーカー被害のことを本気で心配しているのだ。
 どうして知ってるの、と問いたげな目を向けている。弱味を握られたと感じているようで、麻衣は怯えた様子だ。それが修也は不本意だった。
「誰にも言わない。でも龍一には打ち明けて、守ってもらうべきじゃない? 恋人なんだから」二人の内の一人だが。「相談に乗ってくれるし、きっと守ってくれる」
 麻衣は動揺が収まらないらしく、瞳を揺らしながら首を横に振った。
「言わない」
「どうして?」
「龍一の練習を邪魔したくないの。野球だけに集中してほしい。私なんかのために神経を使わないでほしい」
「でもこのままじゃ、ストーカーされ続けることになる。それでいいはずがない。そうだろ? ストーカーされてて精神的に苦痛を感じないわけはないし、こうして体も傷つけられてる」
 麻衣は何も言わない。下唇を噛んだまま、俯くだけだ。
「俺みたいに、虐待を受けてるのかと考える人もいると思う。それは不本意だろう? 優しい両親なんだろ?」
 これには微かに頷いた。
「警察には?」
 麻衣はかぶりを振った。
「届けよう。龍一に相談するのが嫌なら、俺がついていってもいい。このままじゃ永久に苦しむことになる」
 その苦しみを耐え続ける意味が修也にはわからなかった。ストーカー行為は犯罪だ。犯罪の被害者であるのだから、すぐに警察に届けるべきなのだ。
 しかし麻衣は首を縦には振らなかった。動揺の消えた決然とした目で修也を見ると、言った。
「これは私の問題だから。気に掛けてくれてありがとう」
 まっすぐな目だ。しかし瞳の奥は怯えているように見えた。麻衣一人には抱えきれない問題だと思ったが、これ以上干渉しなかった。
 父の逮捕劇を含んだ泉とのことのように、修也にも他人に踏み入ってほしくないものがある。人は誰でも、一人では抱えきれない問題を抱えているものだ。
「わかった」と修也は言った。「ストーカーされてることは龍一には言わないでおくから」
「そうしてくれると助かる」
 いったい何が助かるというのか。麻衣自身はむしろ傷つくことになるというのに。
「でも何かあったら、相談して。俺はもう知っちゃったから」
 謝意を込めて修也は言った。
 麻衣に相談する気があるかはわからないが、彼女は「うん」と言って自分の座席に戻った。
 まもなく龍一が朝練を終えて教室にやって来た。恋人の抱える秘密が修也に知られたことなど露知らず、龍一はいつもと変わらず朗らかに麻衣におはようを言っていた。
 健気な光景が羨ましかった。

13へと続く……

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