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連載長編小説『楽聖』第三楽章5


        5

 年の瀬が近づいてきたからか、来週から始まる期末試験に急かされてか、生徒たちの表情にはどこか余裕がなかった。寒さに顔を歪めた一年生の女子生徒がぶかぶかのブレザーで萌え袖になっているのが可愛らしかった。
 階段を上がっていると、すれ違う生徒が会釈を寄越したので僕も返した。何気なく向けられた会釈にふと立ち止まり、僕は生徒のほうを振り返った。生徒は僕のことを気に留めるふうでもなく、友人と談笑しながら階下に向かっている。それを見て、みんなは僕の耳のことなど忘れてしまったかのように平穏に過ごしていることに気がついた。生徒たちに言わせれば、僕の耳のことなど他人事だ。気にならなくて当然なのだ。しかし僕にとっては重大なことだから、誰しもが常に気に掛けてくれているものだと心のどこかで思っていた。そんなわけもない、と今更気がついた。でも虚しさや寂しさなどは感じなかった。
 音楽準備室に戻り、昼食を摂った。交響曲が完成してから三週間が経つけれど、散らかっていないデスクにはまだ慣れない。だからデスクの端に楽想をメモするためのノートやスケッチブックを積んでいるのだが、どこか物足りない。窓から一望できた紅葉も今はなく、枝葉の剥がれた木々が桂川沿いに並んでいる。午後一時になろうとする今でも気温は十度に届かず、嵐山の山頂近くに霧が掛かっているため、雪が降っているような錯覚に陥る。まるで水墨画のような嵐山を眺めていると、先月までとは打って変わって僕の中の時間が止まってしまいそうになる。厳しい寒さを包み込むような陽射しがあるからなおさらだ。暖房の利いた部屋の中でぼうっと霧の動きを目で追うのは意外にも退屈しなかった。
 右から左に動いた霧を目で追うと、視界の端に人影が映った。ゆっくりとそちらに首を回すと知里だった。彼女は僕に見られたことを自覚すると、照れを隠すように笑みを浮かべた。忍者のように用心しながら歩く姿は、一度視界に入るとむしろ目立つ。
 眠い目を擦ると、僕は補聴器に手を伸ばした。
「どうした?」
 音楽準備室から音楽室に移りながら僕は訊いた。訊きながら、森沢はすっかり来なくなったな、と思った。授業にやって来た時の様子を見ていると、クラスメイトたちとうまくやっているようなので不満はない。
 知里は、蓋の閉じたピアノを人差し指でトントンと叩いた。
「弾かないんですか?」
「うん、満足のいく演奏できひんから。昼休み、ピアノが聴けへんくなって残念?」
 知里は眉をハの字にして首を傾げた。うーん、と唸って苦笑する。
「わからないです――」
 言ってからも知里は口をもごもご動かしていたが、結局続く言葉はなかった。
「授業中も、あんまり弾かなくなりましたもんね」
 僕は頷いた。それを見て、知里は気遣うように満面の笑みを浮かべた。僕も柔らかい笑顔を作ったつもりだったのだが、うまく笑えていなかったのかもしれない。
 知里は、黒い蓋を開けた。
「何か弾くん?」
 僕の問いかけに知里は頷いた。パッヘルベルのカノンだろう、と僕は思った。カノンは彼女の十八番だからだ。これまでにも何度か聴いたことがある。
 しかし知里が弾き始めた曲はエルガーの愛の挨拶だった。エルガーが求婚の際に恋人に贈った楽曲であり、プロポーズの場面にふさわしい優しくて温かい旋律だ。希望溢れる未来へ向けられたその音色は、柔らかく、最後は軽やかに着地する。技術的には簡単な曲であるが、知里は巧く弾いた。カノンを弾いていた時や合唱コンクールの時と比べても明らかに技量が上がっていた。今カノンを弾けば、前とはまるで別の曲のように聴こえるだろう。
 僕は拍手を送っていた手を止めた。
「勉強せんとピアノ弾いてたんか?」
「そんなわけないじゃないですか。受験勉強の合間に、気分転換も兼ねて少しずつ弾いてたんです」
「それならいいんやけど」
 知里は鍵盤から手を離すと、「堀江先生から聞きました」と言った。僕は思わず「は?」と訊き返しており、同時に愛の挨拶が話を切り出すための序曲であったことを悟った。今日のためにわざわざ練習したのか、それとも偶然この曲を練習していたのか、わからない。もしかすると、元々弾けたのかもしれない。
 僕は、白を切るべきかどうか迷った。教員間の恋愛話を生徒に聞かせるべきではないだろう。しかし堀江先生はすでに知里に打ち明けているという。それが本当なのかはわからないけれど、やはり安易に口にすべきではないと思った。が、僕たちは交際しているわけではなく、むしろ僕はあの日堀江先生を拒絶した。堀江先生に告白されてからもう三週間が経つことに時の流れの速さを感じつつ、交際していないのであれば僕たちの話をするのは問題ないのではないかと思った。他にも男女で親しげに接し合う教員たちはいるのだ。
 しかし交際を断った僕が何をどう話せばいいのかがわからなかった。そもそも三週間が経った今でも、なぜ堀江先生の告白を断ったのかがわからないままだ。
「そうか」
 僕はそう言うので精一杯だった。
「私たち、堀江先生の気持ちを知ってたから背中を押したんです。だって放課後ここでヴァイオリン・ソナタを練習してる二人はめちゃくちゃ楽しそうやったし、お似合いやった。文化祭での演奏も凄かったし、演奏の後の二人のハグは見ててしっくりくるものやった。それに……」
「それに?」と僕は訊いた。知里の言いたいことがわかっていたので、僕のほうから言った。「もうすぐ先生じゃなくなるから付き合っても問題ない――かな?」
 知里は頷いた。
「何でですか?」
「何でって、何が?」
「何で堀江先生のこと振ったんですか? 私、赤穂先生も堀江先生のこと絶対好きやって思ってた。堀江先生がそっと一言、振られた、って口にした時は信じられへんかった。他に、好きな人がいるんですか?」
 目元は普段と変わりないが問い詰めるような口調に僕は少し怯んだ。知里の質問を一つずつ考え込むが答えの出る問いは一つとしてなかった。わからない、とにかくわからない。まるでそれしか言葉を知らないかのようで僕は自分が惨めに思え、微苦笑した。
 ふと音楽準備室に目をやると、難聴を自覚した時の自分の姿を思い出した。半狂乱になった僕を後ろから抱きしめる堀江先生の姿が映像として見える。
「大変な思いをさせたくないと思ってしまったんかもなあ」
「どういうことですか」
「告白の時、堀江先生は僕のことを守りたいって言うたんや。僕自身、今は自分のことで精一杯やし、この悩みを一緒に背負ってもらおうとは思わへん」
「堀江先生が望んでも?」
 うん、と僕は頷いた。
苦しむのは僕一人で十分だ。それに、僕は守ってもらうのではなく、自分の力で乗り越えていかないといけない。乗り越えられなければ、僕はそれまでの人間だったということだ。乗り越えるためのことを、僕はまだ何もやっていない。守りに入るのは早すぎる。

 ピアノ室は独特の緊張感に包まれていた。狭い部屋に書棚とグランドピアノが置かれており、ただでさえ圧迫感を感じるというのに、僕と聡志の他に大人が二人いるとなれば圧迫感は倍増どころではない。被告人を見る検察官のような険しい顔つきの聡志の父親がいるせいで、息苦しさもあった。
 服装や雰囲気は普段と何ら変わりない聡志だが、意気込みはまるで違うはずだ。が、そんな中でもケロッとしているのだから大したものだ。聡志は両手を口元にやり、吐息で温めた後に手を擦り合わせた。
 聡志は僕に視線を向けるとにこりと頷き、演奏を始めた。

 ショパン ピアノ・ソナタ第一番

 今でこそ人気の高いショパンのピアノ・ソナタ第一番だが、完成当時はあまり高い評価を受けておらず、作曲したショパン自身も未熟な作品として敬遠していたらしい。たしかに美しい音楽ではあるものの、ピアノ・ソナタと銘打っている割にソナタとしての体裁は整っていない。が、シューマンの評に端を発する「ソナタ破綻論」が登場して以降、ショパンのピアノ・ソナタはむしろその先進性が高く評価されるようになった。時代を置き去りにしてしまう天才は常に逆風にさらされるものだ。
 とはいえ形式習得のために書かれたと言われる第一番は全体的に未熟な部分が見受けられる。しかしその中にもショパン独特の音楽世界を感じることができ、その天才性は頭角を現し始めていた。
 聡志はミスなく普段通り卓越した演奏を披露している。初めて見るのか、息子が汗ばみながら弾く強烈なピアノに聡志の父親は固唾を飲んでいるようだった。まもなく四十代になるというが、引き締まったその体は三十代前半かと思わせるほどだ。卵型の顔の中で険しい表情は崩さないけれど、その顔を支える首元で、喉仏が何度も上下している。
 午後二時になろうかという頃、高宮一家は赤穂宅に到着した。いつもより早い到着ではあったけれど、交通状況の関係で多少は時間の前後もあるだろうとその時は思った。しかし事情は別にあり、聡志のレッスンを始めて以来、初めて聡志の父親がレッスンにやって来たため普段より早い到着になったのだった。わざわざ父親が出向く理由はただ一つ、聡志をピアノコンクールに出場させるか否かを決めるためだ。
 リビングに入り、腰を落ち着けた聡志の父親は早速ピアノコンクールの話を切り出した。
「聡志にコンクールに出場するだけの才能があるんですか」
 僕は頷いた。しかし前のめりになって質問する聡志の父親に、好感触ではないな、と感じた。
「お父さんは、コンクールに出場させるのに反対ですか?」
「音楽のことはよく知りませんから、聡志の実力がコンクールに出る人たちと比べてどれほどのものなのか見当もつきません。ただ一点気掛かりなのは、聡志がコンクールに出ることで恥をかかないかということです」
「恥なんてかきません。聡志君の実力は天下一品です」
 刹那聡志の父親の表情筋が緩んだ。感心したように息子のほうに一瞥をやったが、すぐに我に返って眉根を寄せた。
「でも、聞くところによると聡志が出ようとしているのは浜松国際ピアノコンクールらしいじゃないですか。子供だけの大会ならまだしも、あそこにはプロのピアニストや金の卵である音大生たちが集結するでしょう。そんなところに出て、本当に恥をかきませんか? 息子が傷つくようなことはありませんか?」
「聡志君が初めてクラシック音楽に触れたのは五年前の浜松国際ピアノコンクールだと伺いました。その時お父さんもコンクールをご覧になられたようなのでおわかりでしょうが、やはりレベルは高いです。世界最高峰と言って差し支えないでしょう」
「子供にしては弾けるほうかもしれないが、そんなところで戦えるとは思えませんね」
「僕は、その五年前の浜松国際で入賞しました。その僕がはっきりと申し上げましょう、聡志君なら戦えます。これは買い被りでも何でもなく、彼は天才です。お父さんが不安になられるのも重々理解しております。ですが彼の才能を摘み取ってしまうのはあまりに惜しい」
 聡志の父親は目の前のカップを口に運んだ後、険しさを保ったままの目を閉じ熟考した。腕を組み、眉間に刻まれた皺からは、愛息子の可能性と失敗した時に負う傷の間で揺れる心情が生々しく浮き出ていた。
 天秤がどちらに傾くか、僕は息を呑んで返事を待った。
「赤穂さんは幼い頃からピアニストとして活動されて、ウィーンへ留学もされたんですよね」瞼を伏せたまま聡志の父親は言った。「これまで多くのピアニストを見てこられた……」
「はい」
「そんなあなたから見て、聡志には特別光るものがある、と?」
 僕は思い切り首を縦に振った。「注目に値する――僕はそう思います」
「そうですか……」
 畳み掛けるなら今だと思った。天秤は重しが載せられた反動で揺れ動いている。しかし決定打となる重しが見つからなかった。言葉では、限界がある。
「この後のレッスンで、聡志君の演奏をご覧になられてはどうです? それを見れば、聡志君の実力をおわかりいただけると思います」
 人並外れた実力というのは、たとえその分野に精通していなくても見る者に感動を超えた衝撃を与える。それは音楽に限らず、料理やスポーツなども同様だ。単にすごいだけのものには感動しか覚えない。しかし真にスター性を持つ「天才」の繰り出す技には、感動を遥かに凌駕してしまう衝撃が備わっている。聡志のピアノはまさにその次元だ。聡志の父親はピアノのことはよく知らないと言ったが、明らかに衝撃を受けている。彼の胸の中でどんどん傾いていく天秤が見えるようだ。
 丁寧に育てていけば、聡志はその名を世界に轟かすことになるだろう。
 強烈な和音連打に半音階の走句、転調が休みなく繰り広げられる上に何よりもテンポの速い第四楽章は、どこかベートーヴェンのような力強さを彷彿とさせる。演奏には相当な体力と大変な技術を要する第四楽章を聡志は弾き切った。汗だくの聡志を見て、僕は部屋の窓を開けた。
「ブラボー」
 背中側から大きな拍手と共に声が聞こえた。低い声に、振り返らずとも聡志の父親のものだとわかった。僕は窓の淵に手を掛けたまま笑みを浮かべた。
「どうでしたか?」
 窓を全開にし、寒さに身を強張らせながら僕は訊いた。
「まさか、これほどとは……」
 信じられない、と言うように聡志の父親は何度も首を横に振った。
「今の演奏なら、ショパン国際ピアノコンクールでも十分戦えたと思います。お父さん、聡志君の才能を、育てませんか?」
 ふうー、と長い息を吐くと、聡志の父親は二度首を振った。
「よろしくお願いします」
「コンクールに出場するには推薦状を書き、書類選考を突破しなければなりません。そこまでは僕の仕事です。聡志君の戦いは、その後になります」
「書類選考は、通るんですか」
「ご心配なく。僕にはまだ実績がありませんが、心強い師匠がいますので」
 次に開催される浜松国際ピアノコンクールは来冬だ。あと一年ある、と考えるよりも一年間で課題を潰していかなければならない、と危機感を抱いたほうがいいだろう。もちろん、念のためではあるが。しかし何曲もある課題曲を自分のものにしていかなくてはならないのだ。決して簡単な作業ではない。
 腕を引かれて我に返った。見ると、聡志が満面の笑みを浮かべていた。


6へと続く……

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