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連載長編小説『赤い糸』15-3

 例によって店長は五分ほど早く上がらせてくれた。たった今来店した客のオーダーを取って厨房に戻ると、今日はこれで上がっていいと言われたのだ。
 すでに賄いも用意されていた。
 出勤した時に「今日は店で食べて帰ります」と伝えていたため、テイクアウト用の容器ではない。丼鉢には石畳のように敷き詰められた牛肉がすでに見えていた。
 母と和解したとは言えないが、賄いに関しては父の話を知る以前と変わりはなかった。母が出勤する直前に修也が帰宅し、持ち帰った賄いを半分こする。
 嘘は赦せないが、食事を取り上げて母が体を壊したら本末転倒だ。母にもしものことがあれば、それこそ修也の人生は無意味なものになってしまう。
生まれてきた意味などなかったのだ、と。
 そんなふうに思いたくはない。生まれてきた意味がないなど、親不孝者の吐くセリフだ。
 母を幸せにするために俺は生まれた。高校生の内からアルバイト漬けの日々を周囲の人間は哀れと思うかもしれない。親の懐のために働かされているのだと見るかもしれない。それの何がいけないというのか。
 息子の存在が母の精神面と経済面を豊かにできるなら喜んで働く。
 その気持ちが揺らぐことになるなど、一ヶ月前までは思いもしなかった。
 むろん、母に楽をさせてやりたいという思いは変わらない。だが母を初めて憎んだ日から、以前ほど働く意味を見出せなくなっていた。
 働き出して初めて「バイト怠いな」と思ったのだ。
 その日はコンビニでの勤務だったが、気持ちが上向かない日に限って忙しく、普段の何倍も疲労を感じた。
 そんなことを考えながら、賄いを食べた。今日は帰宅すれば母がいたが、用事があってまっすぐアパートに戻らないのだ。
 用事とは、麻衣の警護である。浅野から麻衣を守るために修也が麻衣を迎えに行く約束をしていた。麻衣は修也ほど多忙ではないため毎日アルバイトというわけではないが、意外にも早く、今日が早速麻衣の勤務日だった。
 修也は丼鉢を洗うと着替えを済ませて店を出た。
 麻衣は高架下で営業しているたこ焼き屋の店員として働いている。たこ焼き屋は泉の勤めるショッピングモールを越えて十分ほど歩いたところにあった。
 すでに店は閉まっている。
 高架下の通りは繁華街のため、人通りも多い。すでに二十二時四十分を回っているが人の往来は減らない。居酒屋やバーも多く、仕事終わりのサラリーマンの姿も多々あった。
 人波の中に浅野を警戒してみたが、人が多過ぎて見つけられそうになかった。
 本当にここでいいんだろうか。
 すでに閉まっているたこ焼き屋を見回しながら修也は不安になった。麻衣からは店の前で合流しようと言われていた。しかし店の中に人がいる気配はない。
 まさか約束を忘れて先に帰ったのだろうか。
 麻衣ならあり得ることだと思った。麻衣自身は、ストーカー被害を修也ほど重く受け止めていない。牛丼をのんびり食べ過ぎたことを少し後悔した。
 修也は何度か店に呼び掛け、ノックもした。何度目かのノックの時、背後に人が止まったのを感じ取り、ゆっくり振り返った。
 泉だった。
「どうしてこんなところに……」
 修也は驚いて、泉の全身を何度も見回した。
泉は昨日退院したが、学校に復帰するのは来週からということだった。定岡教諭の話を聞き、安堵を覚えた修也だったが、まさかこんなところで会うとは思いもしなかった。
 泉も怪訝そうに眉をしかめた。
「修也のほうこそ、どうしているの?」
 麻衣の警護のためだと言えば話は早いだろう。だが麻衣のストーカー被害は修也しか知らないのだ。泉が信用できないわけではないが、迂闊に話すのはよくないと思った。
「母さんに買い物頼まれて……」咄嗟に嘘を吐いた。「昨日食器が割れたから。店は殆ど閉まってるだろうけど、一応確認のために」
「そこ、たこ焼き屋だよ。麻衣がバイトしてる」
 泉はさらに疑り深く修也を見つめた。修也は返事に窮して観念しかけた。しかし泉は矢継ぎ早に続けた。
「昨日河川敷にいたでしょ。あたし、病院から帰る時にあそこを通って、修也を見たの」
 見事に咲き誇る梅を思い浮かべながら修也は頷いた。
「確かにいた。暇だったから……。昨日はバイトもなかったし」泉と出掛けられたらと思いシフトを空けていたのが、やはり悲しみを増幅させた。
 ふと泉の背後に付き添っていた男のことを思い出してしまい、修也は胸が苦しくなった。
「あたしと目が合ったよね? あたしに気づいてたでしょ?」
「うん。気づいてた」
「どうして逃げたの?」
 もう気に掛けてくれなくていいと自分から言ったのを彼女は覚えていないのだろうか。もちろん鵜呑みにしているわけではないが、気に掛けるなと言われたのだからわざわざ泉に近寄って声を掛ける必要もない。
 回復してよかった――。
 そう声を掛けたかったが、なぜかどんどん心が冷めていく。恋人を詰るような口調で話す泉に無性に腹が立った。
「今更どうでもいいんじゃないのか? 泉には新しい恋人がいるんだろ」
 気が付くとそう言い放っていた。
「恋人……?」
 泉は顔を険しく曲げると、修也から視線を外した。その様子を見て、泉は片想いされているのだと察した。高身長で端正な顔立ちなのかもしれないが、泉は外見に惚れるタイプではない。
 数秒して昨日退院の際に付き添っていた男のことに思い当たったらしく、泉は釈明しようとしたが、そこに麻衣が現れた。
「ごめんね待たせちゃって」
「待ってないよ」と答える声が泉と重なった。
 二人は顔を見合わせた。泉は眉をしかめ首を傾げている。麻衣のほうを見ると、お茶目に舌をぺろりと覗かせてウィンクして来た。
 図ったな、と修也は溜息を吐いた。
 そういえば、警護を頼まれた時「修也と泉で」と言っていた。まさかこうして鉢合わせさせようとするなんて。
 それに泉は昨日退院したばかりなのだ。病み上がりに警護など務まるはずがない。そもそも麻衣より泉のほうが体は小さいし、今や不健康なまでに痩せ細っている。
「じゃあ帰ろっか」
 そう言うと麻衣は紙袋を腕に提げて歩き出した。初めから警護してもらうつもりなどなかったのだろう。こうして修也と泉を会わせることが目的だったのだ。
 あんな目に遭っているというのに……。
「食器買うって嘘だったんだ」
 麻衣に聞かれないほどの声で泉は言った。不愛想な声だった。
「ごめん。――泉も知ってたのか、麻衣の痣の原因」
「退院する直前に知った。看護師さんが痣のことを訊いたけど麻衣ははぐらかして、その後であたしが訊いた。そしたら元彼にストーカーされてるって話してくれた。それで今日、退院の報告でショッピングモールに行くから、そのまま麻衣を迎えに来たの」
「そっか」
 修也は何を話していいのかわからず、それだけ言うとかなり前を歩く麻衣の背を見つめた。
 麻衣は路地に入ってからも恐れることなくぐんぐん前進していく。後ろの二人を振り返る素振りもなかった。
 こうして並んで歩くのは史緒里が逮捕される前日以来だ、実に一ヶ月ぶりのことだった。以前ならたわいもない話で静かに笑い合いながら、顔を見合わせて幸福を感じることもできたのだろう。
 だが今は、二人とも押し黙ったまま、重い沈黙が流れていた。点滅する電灯が重苦しい空気に拍車を掛けて、母と同じ部屋にいる以上の居心地の悪さを感じた。
 修也は泉から少し距離を取って歩いた。修也が二歩横にずれるのを泉はちらっと見ていたが、わざわざ近づくようなことはしなかった。
 むしろ泉も一歩離れてしまった。
 険悪な雰囲気のまま二人は歩き続けた。
 こんなことになるなら、恋人になんてならなければよかった。友達のままなら、史緒里が逮捕された時も味方でいられただろう。気軽に見舞いにも行けただろう。父の絡む過去についても、時間が解決してくれたかもしれない。
 何より、こんな空気にはならなかっただろう。胸が張り裂けそうなほど重苦しい空気は恋愛関係のねじれ特有のものだった。
 それでも前を歩く麻衣に追いつこうと足を速めないのは、居心地の悪い中にどこか落ち着きを感じるからかもしれなかった。歯軋りを聞いたように不愉快な思いの中で、隣に泉がいるとどこか安心できるのだ。
 泉も同じように感じているのではないか。でなければ、修也など置き去りに麻衣を追いかけているはずだ。
 もう元の関係には戻れないかもしれない。
 でもこのまま終わらせていいものだろうか。麻衣を自宅に送り届けた後泉と別れれば、憎しみと悔恨だけが残る。二人の人生で最悪の恋愛になってしまうのではないか。
 修也は意を決した。
 三歩近寄ると、泉は横目でこちらを見た。
「お母さんが逮捕された時、黒板に人殺しの娘って書かれた時、俺は泉の味方でいるべきだった」
「もういいよ……」
「いや、言わせてほしい」
 修也は続けた。
「あの時逃げなければ、泉は俺に縋ることができたかもしれない。あの頃はまだ、父さんが事件に関わってることなんて知らなかったから、味方でいられたはずなんだ。でも殺人って聞いて気が動転して、一番の味方でいないといけなかった俺が泉を裏切った。どん底に突き落としたのは俺だと思ってる。本当に悪かったと思う」
「悪いのはお母さんだから」
 それを否定することはできない。修也は一拍置いて、口を開いた。
「見舞いにも行かなくなって――」
「それは仕方ないよ。お父さんのことがあるから。恨まれて当然。別に修也は悪くないよ」
「それとやっぱり、一方的に別れを切り出したのはよくなかったと思うんだ。もう少し状況を理解しようとしてれば――」
「もういい。やめて」
「悪かったと思ってるんだ。言い方も、もう少し――」
「やめて! それ以上言わないで」
「聞いてくれ泉。俺はお母さんの罪と泉は別物だと思えるようになったんだ。それをわかってほしい」
「わかった、わかったから。もう何も言わないで。あたし達の糸はもう切れたの。気を遣わなくてもいい。あたしのお母さんは修也のお父さんに罪を着せた悪人で、あたしはその娘。修也が恨むのは当然のことなの。あたしはどうしたって殺人犯の娘なんだから、修也とは生きてる世界が違うの」
「生きてる世界が違う……」
 修也はゆっくりと泉の言葉を繰り返した。
 かつて自分も同じことを思い、口にしたことがある。それを思い出したのだ。出会ってはいけない二人――。
 それに気づいてしまった以上、やはり二人は結ばれ得ないのだろう。
「そう」泉は怒気で声を震わせた。「あたし達は生きてる世界が違う。誰にも理解されない。理解してるふりなんかしなくていい。優しくしてほしいとも思わない。たとえ善意だったとしても、関わってほしくない」
 修也は一歩距離を取り、「悪かった」と言った。
 父は殺人犯として収監されていた。その息子だから、泉の気持ちを理解してやれるのではないかと思っていた。だが所詮、修也は父が囚人であった頃の記憶がないのだ。殺人犯の親を持つ苦しみは理解できないのだろう。
 俺は幸せだったのかもしれない。貧乏なだけなら、今よりずっと楽だった。
 修也は口を閉ざした。泉も同じだった。前に出す足も、歩幅も揃っていた。
 麻衣に追いついた時、二人は項垂れるように顔を下げていた。浅野は現れなかった。麻衣に感謝を述べられた時、なぜ自分がここにいて、傍に泉がいるのかを思い出した。
 泉は何とか愛想笑いを浮かべたが、修也は頬を動かすこともできなかった。
「じゃあ、あたしもこれで」
 泉は他人行儀に軽く頭を下げると大股で歩き出した。
「俺も」と修也は大声で言った。泉は立ち止らなかったが、構わず続けた。「俺も帰りに寄る公園とか、川沿いの散歩の時間がたまらなく幸せだった」
 それを聞いた泉は立ち止り、肩を震わせたかと思うとゆっくりこちらに振り返った。
 月光が、泉の頬を濡らした。修也を見つめる泉の瞳が揺れて、頬が少しずつ弛緩していく。小さな鼻がぴくぴく動き、破顔したかと思うとまた背を向けた。
 泉は歩き出した。振り返ることはなかった。
 修也も帰路に就いた。

16へと続く……

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