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連載長編小説『赤い糸』4

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 登校すると、泉が珍しく読書をしていた。いつもなら麻衣と楽しげにおしゃべりをしている。修也は教室を見回したが麻衣の姿はなかった。
 麻衣が修也より登校が遅いことは珍しい。しかし時々、麻衣が学校に来るのが遅い日があったように思う。ただ、龍一の恋人というだけで、泉と交際する前までは話す機会もあまりなかっただけに、麻衣についてそれほど気に掛けたことはなかった。
 たまに朝が辛くなる、あれだろう。特に今みたいな冬の時期は寒くて布団から出たくなくなる。
 遅刻も欠席もしないだけ、優秀じゃないか。
 修也は自分の座席に座った。鞄から筆箱を取り出していると、泉の影が動くのが目の端に映った。泉は本を閉じ、麻衣の代わりに傍にいた薫子を置き去りにして修也のほうにやって来た。
 泉が薫子と二人でいるところは初めて見た。先週の突然の告白もそうだが、薫子はどこか異様な存在に見える。何か企んでいるのではないか、と。
 しかし泉は挨拶を交わした後、薫子は先週の件でまだ謝り続けているのだと言った。
 あの告白は、本当に噂の真偽を確かめるためだったのだろうか。もしそうならば、あまりに大胆であまりに捨て身だ。
 やはりただ者ではない気が修也にはした。だが泉が不愉快そうでない以上、薫子と関わるなとは言えない。薫子が泉の日常を充実させてくれる友達なら、修也は彼女を歓迎したいくらいだ。泉には、母と同様幸せになってもらいたい。
 しばらく泉とたわいもない話をしていると、教室前方に麻衣の姿が見えた。修也の表情の変化に気づいた泉は振り返り、麻衣を認めた。
 おはよう、と明るく声を掛けた泉に麻衣は小さく反応しただけだった。一瞬一瞥をくれただけで、背を丸めて自分の席に着いた。
「どうしたんだろう……」
 泉も妙に感じたらしい。いつもの元気な麻衣とはかけ離れた様子だ。
 修也は泉と麻衣の座席に行った。二人が自分の元に来たことはわかっているはずだが、麻衣は顔を上げようとしない。俯いたまま、スマートフォンをいじっている。
 窓を開けたが風はなかった。それでも冷気が襟元を凍らせた。
 朝練を終えた野球部がグラウンド整備を行っているのが見える。外野の白土ではサッカー部が朝練をしていたようだから、内野手は守備練習、外野手は打撃練習といったところか。ふわふわに均された黒土を見て思い切りスライディングしたくなり、グラウンド脇に並ぶ網ネットを見てはバットを振り抜きたくなった。
 白球を追う野球部員が少しだけ羨ましい。
「修也、寒い」
 麻衣に言われて、平謝りしながら修也は窓を閉めた。修也が窓を閉めるのと同時に、「それどうしたの」と泉が物々しい声を出した。
 麻衣はしまったと言うように素早く顔を俯かせた。
 泉が麻衣の顔を覗き込むので、修也もその場にしゃがんだ。泉みたいに覗き込むことはしないが、ふいに麻衣の顔が窺える位置を取った。
「何でもない」と麻衣は力ない声で言った。
「何でもないって、その痣……」
「痣?」修也は思わず訊いた。
「本当、大したことないから」麻衣は前髪の隙間から修也を睨むと、苦笑交じりに言った。「気にしないで」
 泉は麻衣の肩に優しく触れた。その瞬間、麻衣は小さく呻いた。
「何があったの?」と訊く泉のほうに麻衣が向いた。麻衣は顔を曝け出すことはしないが、僅かに変わった角度のおかげで修也にも痣が見て取れた。前髪で隠れていてはっきりとは見えないが、修也から見て右側の額に青々とした痣があった。
 一瞬の目視で断定はできないが、髪の生え際から眉辺りまでの大きなもののようだった。
 泉はひどく心配していたが、頑なに取り合わない麻衣を見て、修也はそっとしておいたほうがいいと感じた。黙ったまま、修也は泉に首を振った。泉は「落ち着いたら話して」と言い残したが、やむを得ず退散した。
 すかさず薫子が寄って来た。修也に会釈すると、泉にどうしたのか訊いた。
 何気ない薫子の態度に修也は戸惑った。先週の告白が本心なのかはわからないが、形として交際を申し込まれたのは事実なのだ。平然と接することなどできない。薫子に好意が芽生えたわけではないが、多少意識してしまう部分はある。
 泉は麻衣を気遣って、「わからない」とだけ言った。
 それを見て、やはり泉もまだ薫子を警戒しているのだろうと思った。薫子が麻衣のほうに向かう気配があったので、修也は引き留めた。
 修也に話し掛けられたことが嬉しかったのか、薫子は微かに口の端を上げた。泉も修也と同調し、今はそっとしておいてあげよう、と諭した。
 その時、「近寄らないで!」と麻衣の激しい声が教室に響いた。
 教室内が静まり返る中、修也と泉だけが麻衣の元に素早く駆け寄った。立ち上がって男子生徒を見下ろす麻衣の額に、やはり修也が目にした痣が痛々しく広がっていた。
 麻衣に声を掛けたのは満田という男子生徒で、予てより麻衣に想いを寄せていると噂されている者だった。泉同様様子のおかしい麻衣を気に掛けて話し掛けたのだろう。まさか麻衣の気に障るような軽口を叩いたとは思わないが、麻衣は額の痣も忘れて烈火の如く満田を睨みつけていた。
 修也は早めに泉を退散させて正解だったと思いつつ、満田を軽蔑するかのような麻衣の悍ましい目つきを怪訝に思った。
 そっとしておいてほしいのはわかる。だが心配して声を掛けてくれた満田に対してなぜ憤怒をぶつけたのか。
 満田の噂は麻衣も知っているはずだった。
 ちょうどその時、朝練を終えた龍一が野球部員と談笑しながら教室に入って来た。教室の異様な雰囲気を察した龍一は、すぐに野球部員との談笑をやめた。事態を把握できない龍一だが、項垂れる麻衣を見て、修也が目元をしかめるのを見て、麻衣の身に何か起こったことだけはわかったらしかった。
 龍一は窓際の麻衣の座席に駆け寄った。
 腰を抜かす満田には目もくれず、満面の笑みで麻衣におはようを言った。麻衣は痣を見られたくないらしく、前髪を額に当て擦りながら小さく頷いた。口元には強張った笑みも浮かんでいた。
「どうした? 元気ないぞ」
 龍一は励ますように言った。机に顎を載せるようにしゃがみ込んだ龍一の目が見開かれた。龍一はそっと麻衣の前髪に触れると、険しい表情になった。
「痣……。これ、どうしたんだよ」
 麻衣は口を噤んだ。
 虐待を受けているのではないか。
 修也はそう思った。前髪で目立たなくすることはできるが、髪の生え際から眉まである大きな痣だ。女性には裸を見られるほどの思いなのではないか。学校を休むという選択肢もあったはずだ。だが麻衣は登校した。登校せざるを得ない理由があるとしたら、虐待くらいしか思いつかない。休んでも虐待する親が家にいて、恥を晒すほうが身の安全だと思ったのかもしれない。
 麻衣の様子を見ていると、決して軽い問題でないことがひしひしと伝わって来る。それは龍一も察しているはずだった。
 しかし龍一は真剣な顔で「夕方に電柱か何かに顔ぶつけた?」と訊いた。
 修也は何を言い出すのかと思わず息を呑んだ。だが意外にも、一拍置いた後、麻衣は小さく頷いた。
「だから心配しないで」
「何だ、そうか。どんくさいなあ」
 龍一は快活に笑いながら立ち上がると、大きな手で麻衣の頭を撫でた。だがこちらを振り向いた龍一の顔は緊張していた。
 修也ははっとして、肩幅の広い龍一の背中を見つめた。よく咄嗟に電柱の話を思いついたな、と龍一の機転に舌を巻いた。
 自分の席に着いた修也は麻衣の様子を窺った。少しだけ、顔が上がっていた。

 下校中、泉は麻衣の様子についてあれこれと思案を巡らせていた。親友の身に何が起きているのかがやはり気になる様子だった。
 授業中も休み時間も、麻衣のことを考えていたのだろう。だが修也に対してもそれについては一切口にしなかった。帰路に着いてようやく、堰を切ったように麻衣への心配を話し出した。
 修也は聞き役に徹し、時々相槌を打つばかりだった。
 虐待されているのではないか、という考えは胸に留めた。確証がないため軽率なことは言えない。
 泉を自宅まで送り届けると、修也は一度アパートに戻った。
 数十分後に出勤した。自動ドアが開いて「いらっしゃいませ」と言い掛けた店員とばっちり目が合った。レジに立つ倉本綾香を見て、修也は思わず立ち止った。
 綾香と勤務が被るのはずいぶん久しぶりだった。修也の勤めるコンビニでは二週間単位でシフトが組まれる。急な欠勤やそれの補充などはあるが、最初に貼り出された勤務表が変わることはあまりない。
 修也は自分のシフトを確認し、勤務表が貼り出された時に誰とペアなのかを確認するだけで、その後はまったく勤務表を見ない。
 綾香と目が合った時、まさに不意打ちを食らったような感じだった。
 勤務を引き継ぐと、「久しぶり」と綾香が言った。修也は軽くお辞儀を返した。綾香は一つ歳上なのだ。
「お正月はゆっくりできました?」
 修也は皮肉を込めて訊いた。丼屋は三が日まで店を閉めていたが、修也はコンビニで三連勤だったのだ。
「お陰様で」
 綾香は端正な顔を華やがせた。ペアが修也に変わったことで気が楽になったのかもしれない。
「今日からじゃんじゃん働くから」
 そう言うと綾香はいいねの手をこちらに突き出し、器用にウィンクした。
 綾香は昨秋の推薦入試で早々と進学先が確定していた。受験が一段落したためアルバイトを始めたのだが、年末から昨日まで、綾香は正月休みをたっぷり取っていた。
 優雅な正月休みだったのだろう。
 綾香は端正な顔立ちもさながら、生まれ持った愛嬌と気さくな明るさで人の懐に入るのがうまい。綾香の交友関係についてはよく知らないが、きっと華やかなものだろう。受験を終えた同級生達と様々な場所で遊び耽っているところがはっきりと想像できた。
 挨拶を済ませると、修也は製菓や即席麺を補充した。しかし十七時台は忙しい。定時上がりの会社員が多く利用するためだ。品出しをしていると綾香から応援を呼ばれ、レジに戻った。数人の客を捌いた後、修也は再び品出しに戻った。
 それから十分もしない内にまた応援が呼ばれた。そんなふうに一時間ほど動き回った。客足が落ち着き、品出しを完了させたのは十九時頃だった。
 在庫をバックヤードに保管してレジに戻ると、綾香はフライヤーでホットスナックを揚げていた。
 修也に気づいた綾香は「一つ食べる?」と悪だくみして笑った。
「いや、いいです」
 もちろん勝手に食べていいものではない。だが綾香は「別に一つくらいいいじゃん」と何でもないふうに呟いた。
 二人の客に対応すると、店内は修也と綾香の二人だけとなった。
「綾香さんって、虐待されたことあります?」
 当初は倉本さんと苗字で呼んでいたが、綾香が名前で呼んでくれと言うので今では名前で呼んでいる。修也以外の高校生店員にも綾香は名前で呼ばせていた。
「虐待?」綾香はかぶりを振るのと同時に言った。「ないよーそんなの」
 そうでしょうね、と修也は心の中で言った。綾香はきっと、何不自由なく育てられたに違いない。修也や泉とはかけ離れた存在だ。
 しかし綾香のふいに放った一言に、修也はぞくりとした。
「誰か虐待されてるの?」
 鋭い指摘に、思わず絶句した。それを見て、綾香はふふーん、と笑った。顔の前で人差し指をぐるぐる回しながら、修也を見つめていた。
「そういうことでしょ?」
「まあ……」綾香は部外者だ。逡巡したが、修也は認めた。「その可能性があるってだけですけど」
 綾香は一歩後退して、修也の全身を舐めるように見回した。
「わかった、彼女だ」
「違いますよ」
 反射的に否定していた。勤務中に誰かに泉の話をしたことはない。綾香はなぜ泉の存在を知っているのだろう。
 そう考えたが、「そうだよね。修也君には恋人いないもんね」と綾香は口にした。
「でしょ?」と念を押して来る綾香に刹那煩わしさを覚えた。今のやり取りで違和感を与える反応があったかもしれない。周囲を嗅ぎ回られるのも面倒だ。
 綾香とは同僚なんだから、と修也は割り切った。
「実は、恋人ができました」
「えっ」と悲鳴のように高い声で綾香は驚いた。「ふうん、そうなんだ。彼女、どんな娘なの?」
「似た者同士ってところですかね。境遇が似てるんです」
「じゃあその娘も母子家庭なの?」
 はい、と首肯しながら、無意識の内に綾香に自分のことをたくさん話していたことに気づいた。綾香は相手の話を引き出すのがうまい。
「どういうところが好きなの?」
「どういうところって……」
「顔意外ね。何でもいいからさ、ほら、彼女のこと思い浮かべてみて」
 修也は言われるがまま泉のことを思い浮かべた。
 泉は修也と同じく母子家庭に育った。父親の記憶がないという点も同じだ。泉の両親は、泉が生まれる前に離婚していた。泉が生まれた後、泉の母史緒里は幸いにも事務職に就けた。友人に斡旋してもらったのだ。しかし女手一つで泉を育てるのは経済的に苦しく、週に三度は泉が寝静まってからアルバイトに出掛けた。泉が保育園に入るまでは両親の手を借りていた史緒里だが、まもなく両親は病気で亡くなった。経済的にも体力的にも厳しい史緒里だが、懸命に泉を育てた。
 そんな中、泉には自立した女性になるよう説いたという。そのため泉は収入の安定している看護師を目指している。修也とは違い進学の予定だ。
「苦労を感じさせないところです。でも俺にだけは弱いところを見せてくれる。明るくて優しいし、彼女といると自分の苦労もなかったように感じられるところですかね」
 そんな人は滅多にいない。修也も周囲に苦労を見せないよう心掛けているが、泉になら弱さを曝け出せる。交際前から、泉とは信頼以上の何かで繋がっていたような気さえする。
 運命の赤い糸――。
 それを思い出し、修也は思わず口の端を曲げた。
「一番好きなところは?」
「今言いましたよ。ああ、でも、あれかな。唯一の贅沢は病院で処方される睡眠薬」
 綾香は首を傾げた。
「彼女のお母さん、昼間は事務仕事、夜はアルバイトの不規則な生活を送っていたんです。昔は彼女も小さくて、何かと手が掛かるでしょう? それで生活リズムが崩れて、睡眠薬を飲むようになったんです。アルバイトをやめた今でも時々眠れなくなることがあるみたいで」
「それが贅沢なの?」
綾香は眉をしかめて訊いた。
「はい、とても」
 修也はきっぱりと言った。病院代ほど痛い出費はない。小学校に入って以降、風邪や発熱、捻挫程度の怪我で病院に行った記憶がない。病院の記憶は一つしかない。インフルエンザ蔓延期に学級閉鎖となり、修也も三十八度を超える発熱があった。この時は医者に掛かったが、結果はインフルエンザではなかった。それ以降病院とは縁がない。
 綾香には信じられないかもしれないが、何かあればすぐに病院に掛れるというのはかなり贅沢なことなのだ。
 その価値観を泉とは共有できる。
「わかんないなあ」
 綾香は魔境を覗き込んだような難しい顔をしていた。
 そうだろうな、と修也は思った。しかし同時に、わからなくていい、と修也は思った。幸せの中に生きる人に自分と同じ苦労を味わわせたいとは思わない。
 幸せでいられることが一番なのだから。
 午後八時を目前に、客足が増えて来た。二人は会話をやめ、客を捌いていった。

5へと続く……

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