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連載長編小説『赤い糸』14-1

        14

 翌日、龍一は教室に現れると何気なく挨拶をしてくれた。昨夜のことがあるから、今日の龍一の反応を懸念していた修也だが、その心配はなかった。
 ホームルームが終わった後、龍一は僅かな時間だが修也の席に来て、短い会話をした。普段から一緒にいることが多いため、龍一が修也に話し掛けても誰も怪訝には思わないだろう。だが修也だけは、龍一が鯱張っているのを感じ取っていた。
 昼休みになると、野球部のキャプテンが教室に来て龍一に何やら告げた。龍一は麻衣を手招きした。麻衣が龍一の座席に近づいた時、修也は貧相な弁当を広げるところだったが、龍一はそれに構う様子もなかった。
 泉と別れて以来、麻衣と昼食を共にしたことはなかった。いつも修也と龍一が二人で弁当を食べている。食後龍一は昼練に行く。そんな様子を、麻衣は遠目に眺めていた。あるいは睨まれていたかもしれない。
 誰かが何かを言ったわけではない。麻衣が自発的に昼食の輪から抜けたのだ。しかし修也が泉に取った態度に不満があるのは目に見えていた。
 麻衣は体だけ寄越したが、龍一に言われて弁当を取りに戻った。
 麻衣と視線が交錯し、修也は思わず俯いた。顔の痣は殆ど消えている。ストーカー被害はあれ以来受けていないのだろう。修也にストーカー被害の件を知られているせいか、麻衣は攻撃的な目を向けてはこない。
「週末オフだってさ。どこか行こうか」
 麻衣の表情が一気に明るくなった。龍一をまっすぐ見つめる横顔が喜びに満ちている。野球部は甲子園出場経験こそないが、地元では強豪校として知られ、公立の雄と呼ばれているのだ。年間の休日は数えるほどしかない。
 そういう話なら邪魔だろう。
 修也は弁当を片付けて自分の席に戻ろうとしたが、麻衣が頷くと「そういえば」と龍一が声を上げた。その視線は修也に向けられていた。
「そういえば修也は一ヶ月近く真木と付き合ってたけど、デートとかした?」
 思わぬ質問に不意打ちを食った。修也は戸惑って、苦笑が漏れるばかりだった。咄嗟に思い出を手繰り寄せようとしたが、そんなことをするまでもなかった。
「一度もなかったな……」
 泉と交際を始めた後、二人で出掛けることもあるだろうと、それ以降のシフトは今までとは違い週六日、時には週五日で申請していた。和やかで幸福な時間になるはずだった休日も、今や虚しさが待ち構えるばかりだ。
 あと一ヶ月交際が続いていたら、二、三度デートにも出掛けられたかもしれない。
 そんなことを考え、修也は頬をしかめた。
「帰り道に立ち寄る公園や遠回りする時の川沿いの散歩がデートだった」
 ふいに麻衣が言った。
 修也ははっとして麻衣を見た。それに気づいたのか、麻衣はこちらに視線を向けた。麻衣は悔しそうに眉根を寄せ、続けた。
「ただ歩くだけで満たされるのはあたし達だからこそ。だから二人で並んで歩くのが何よりも幸せだった」
 まるで泉が憑依したかのように麻衣は訴えかけた。自分でも気づかぬうちに熱が入ったらしく、我に返ると顔を赤らめた。
「って泉が話してた。あたし達じゃないと、あれはデートにならないって。一円も掛けずに二人で幸せな気分になれるのはあたし達の専売特許だって。恋人が修也じゃなかったら、こんなデートはできない。逆に修也も、恋人が泉じゃなかったら、こんなデートはしないだろうって」
「確かに……」
 しみじみと当時のことを思い返していると、いつのまにか呟いていた。
それを見た龍一が魔球でも見たかのように口をぽかんと開けている。さらに麻衣は畳み掛けた。
「それを話す泉はすごく楽しそうだった。傍から見たら何が楽しいのかわからなくても、二人にとっては最高のシチュエーションだったんじゃないかって。でも……二度とあの頃には戻れないって、泉は最後に呟いた。その時の顔が私は忘れられない」
 最高のシチュエーションかはわからない。だが綾香と出掛けている自分を想像すると、やはり泉のようにはいかないだろうと思った。
 デートに金が掛かるのは当然のことなのだろう。でもそれは、修也にとっては避けたい出費だった。
 泉がいかに特別な存在だったか、そんなことはよく理解していた。わかり切っているから、今の状況に苦しんでいるのだ。
「修也次第だろ」
 龍一が言った。彼は修也が泉に冷酷な態度を取った時も味方でいてくれた。泉を見捨てるなとは決して言わなかったし、同情さえもしていた。しかし泉と別れろとも言っていないのだ。
 修也の心の整理がついたなら、龍一は泉との交際を勧めるかもしれない。
「無理にとは言わないけどな」
 冗談めかして龍一は笑った。
「でも今の話聞いてたら、やっぱりお似合いだと思ったんだよ。俺と麻衣よりお似合いだよ。なあ? 認めるしかない。修也の気持ちはよくわかる。真木を、特に真木の母親を憎む気持ちはよくわかる。でも真木と、真木の母親の罪は関係ない。そうは思わないか?」
 修也は答えなかった。
 思わない。本音を返せばそうだった。親の罪は子供にも及ぶものだ。自分の手が汚れていなくとも、親と同様に罪を償わなければならない。修也は父の罪に巻き添えを食らい、貧しい暮らしを強いられてきたのだ。
 たとえ泉に罪がなくとも、彼女は史緒里の罪を共に償わなければならない。それは母の罪が、すなわち泉の罪ということだ。
 父の無実が明るみに出ても、修也の生活は変わらない。贖罪は終わらないのだ。
 泉に罪がないのはわかっている。頭ではよくわかっているのだ。しかしどうしても彼女を受け入れることができない。
 それはやはり、十五年前に史緒里がきちんと逮捕されていれば、今日までの苦労は何一つなかったはずだからだ。
 幸せな人生のはずだった。それを壊したのは史緒里なのだ。真木母娘が貧しい暮らしをしているのは、言わば自業自得ではないか。殺人の報いを受けるのは当然のことだ。それを修也と同じ世界で貧困に喘いでいた泉を思い出すと無性に腹が立つ。
 修也は腹の底で暴れる怒りを抑えるのに必死だった。微かに燻る泉への想いを噛み潰そうとすると、苦悶のあまり目頭が熱くなった。
「頭ではわかってるんだ」
「じゃあ泉のこと――」
「いや、俺は無理だ。やっぱり泉とは向き合えないよ」
 父がいれば、修也と智美は立派な一軒家に暮らし、休日は家族で団らんし、腹一杯にご飯を食べていた。毎年家族旅行に出掛けていたかもしれない。もしかすると、修也に弟か妹が生まれていたかもしれない。家族揃って修也の野球の応援にも駆けつけたに違いない。
 そんな生活が奪われた。
 それは紛れもない事実なのだ。それはどうしても、赦せないことだった。

14-2へと続く……

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