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連載長編小説『赤い糸』16-1

        16

 仄かに明らんだ寝室に母の鼾が木霊している。
 父が生きていると知ってからも、二人は同じ部屋で布団を並べていた。修也が寝静まってから母が帰宅し、息子を起こさないように布団に入っているのだ。
 起きていると居心地が悪く感じられたが、朝陽に顔を照らされて起き上がった時には、母が普段通り寝ていることにどこか安心感を抱いていた。うるさい鼾で起こされることもしばしばあったが。
 ここ数日鼾がひどくなっている。があー、があーと立てていたものがいつのまにかぐががるる、とまるで狼が威嚇するような物々しいものにまでなっていた。
 心労もあったのだろう。
 口には出さないが、修也と同じように居心地の悪さを感じていたであろう母も鬱々とした日々を過ごしていたのだと実感する。
 もしかすると、嘘を吐き続けた罪悪感もあって修也の想像以上の心労が溜まっていたのかもしれない。
 だがそれも、今日で終わるのだ。
 修也は母の鼾を聞きながら、そっとドアを閉めた。鍵を掛けたことを確認すると、梨恵に教えてもらった住所に足を運んだ。
 父が何時に柿本家を訪ねるかはわからない。常識的に考えて正午前後から夕方に掛けてと思われるが、修也はたとえ深夜まで掛かろうと諦めない心づもりでいた。
 柿本邸は立派な一軒家だった。
 檸檬色の塀がぐるりと住居を囲んでいて、一階部分は外から見えないようになっている。塀の上に晒された二階部分は藍色の壁で、南側は全面が窓になっている。その窓からはベランダに出ることができ、目測五個の鉢植えが置かれている。そこから色とりどりの花が咲いていた。屋根は平らにできていて、防護柵が巡らされているのがわかるから、屋上にも人が出られるようだ。
 本当ならこの家に泉が住むはずだったのだと思うと、忸怩たる思いが込み上げて来て、柿本弘之に拳骨をお見舞いしたくなった。
 俺の人生も、元はと言えば柿本の不倫がきっかけで狂わされたんだ。
 一発か二発、殴る権利が自分にはあると修也は思った。二階の南向きの大窓に人影が映る度奥歯を噛んだが、いつもすんでのところで目的を思い出し、自重した。
 目的を思い出す度はっとして玄関先を見つめては、内臓を掴まれたような緊張に修也は汗を滲ませた。風はまだまだ冬の寒さを帯びている。それでもマフラーはいらないくらい体が熱を帯びていた。
 帰りたい。
 怖気づいてそんなふうに思うこともあった。ここに来て、父と対面するのが恐ろしくなった。何があっても帰らないと自らに誓ったが、その代わりに父が現れないことを祈った。
 すべてが明らかになる。
 父はなぜ警察に自首したのか。それが明かされた時、果たして自分は納得できるのだろうか。真実を知って、今より悲惨な想いをしはしないだろうか。
 不安もあった。
 知らないほうが幸せなこともある。それは史緒里が逮捕されてから嫌というほど思い知らされた。
 父は優しかった。だから史緒里の身代わりで何年も服役していた。そんな説明では納得いかない。十五年前の事件が精査されなかったせいで多くの人が傷つき、路頭に迷っているのだ。
 修也は息を殺した。足音が柿本邸に近づいたからだ。物陰から玄関先を窺うと、ぱきっとしたスーツ姿の男が立っていた。手には紙袋を提げている。
父だろうか。
 修也は父の遺影すら見たことがないのだ。仏壇が置かれていなかったから。
 だが男性がインターホンを鳴らしたのを見て、あれが父だと確信した。頭髪は長く襟足が首を覆っており、やや煤けた頬には土埃臭さを感じた。
 ややあって門扉が開かれ、父は邸内に姿を消した。修也は場所を変え、玄関先が見える位置に身を潜めた。
 柿本邸を見る角度が変わったが、それでも一階部分は塀に隠れて見ることができなかった。二階で人影が動く気配もないから、一階に応接室などがあり、そこで父と話をしているのかもしれない。
 事件の後穂花は塞ぎ込むようになった――。
 龍一はそう言っていた。穂花が人目につくのを嫌い、このようにぐるりと高い塀を囲っているのかもしれない。柿本弘之を略奪した穂花の味方をするつもりはないが、穂花も事件の被害者なのだと思った。
 十五分ほど経った頃、玄関が開いた。父は門扉を開けて外に出ると、深々と頭を下げた。それを見ることなく、柿本弘之と思われる男は邸内に姿を消した。
 修也は一つ深呼吸をして、竦む足を叩いた。それでも及び腰のままだったが、修也は意を決して物陰から飛び出した。
 柿本邸に背を向けて歩き出した父の前に飛び出る形になった。父は微かに表情を変えただけで、目の前の少年が十五年前に生き別れた息子とは思っていないようだった。
 しかし少年が刺すような鋭い視線を自分に向けているのを見て、父はその場で立ち止った。
「初めまして」修也は低い声で言った。「滝沢修也と言います」
 名乗ると、父は伏せがちだった目を丸くして目の前の少年に見入った。修也から視線を逸らさない父は信じられないと言うようだったが、狼狽は見られなかった。
「あなたの息子です」
 父は黒ずんだ大きな手で自分の顔を撫でると、小さく首を縦に振った。
「僕は初めましてじゃないな。よく覚えてるよ。昔の君を」
「疑わないんですか?」
 修也は学生証を持参していた。息子の名を騙って近付く不届き者と判断された時のためだ。しかし父は当然だと言わんばかりに頷いた。
「顔を見ればわかる。面影があるから。でも、大きくなったな。立派に育って……。まさかこうして会う日が来るとは思ってもいなかった」
「あなたが毎月一日に柿本家を訪問していると知って、来たんです」
「そうか。あまり知られたくないことではあるんだが」
「心配いりません。柿本家の親戚の方からあなたのことを聞いたので」
「僕に会いに来たということは、十五年前のことは知ってるんだね。お母さんから聞いた?」
 修也はかぶりを振った。
「母はずっと、お父さんは亡くなったと言っていました。十五年前のことを知ったのは、恋人の母親が犯人として捕まったからです。それから少しして、十五年前に滝沢直人が捕まっていたことを知りました。その人物が父親であることも。それで初めて、母は父が生きていることを認めたんです。でもどうしてあなたが自首したのかがわかりません。真木史緒里さんとは面識がなかったと聞きました」
 父はふむ、と顎を引いた。
「同じことをさっきも訊かれた。柿本さんを訪ねるのは別の人が捕まってから初めてのことだったからね。でも僕もさっぱり……。その真木史緒里という女性のことは知らない。当時も今も面識はない。十五年前に刑事さんからその名前を聞いたくらいだ」
「だったらどうして、面識もない人の代わりに自首したんですか」
「それは根本的な間違いだ。真木さんがどうして捕まったか僕は知らない。でもこれだけは言える。あの事件、真木さんは無関係だよ。亡くなった愛斗君の親と因縁があったというだけだ」
「証拠が出てきたんです。だから警察は動いた」
「うん。その証拠は間違った証拠だろうな」
「じゃあ真犯人は誰だと言うんです?」
 父は息子をきっと見据えると、殺気を漂わせて言った。
「僕じゃだめなのか?」
 目眩がして、修也はその場に倒れそうになった。
「十五年前の事件は僕が出頭して終了。間違った証拠が発見されたために掘り返されてしまった。そうは考えない?」
「でもそれじゃ、俺が納得できないんです」
「でもそれが、最善の道だとは思わない?」
「最善の道? あなたが真犯人として捕まっていることがですか?」
「そうだよ」
「じゃあ、やっぱりあなたが殺したんですか?」
 父はすぐには答えず、空を見上げた。北東の空はどんより灰色がかっていた。しかし二人の真上には太陽がぎらぎらと滾っており、直射日光は背中を焦がすほど熱い。
「あの日の空も、こんなだったな」
「答えてください」
「結論から言おう。僕は愛斗君を殺してない」
「じゃあどうして自首したんですか」
「じゃあ修也は、僕が出頭することをどうしてお母さんが許したと思う?」
 修也の問いに答えず、自分の問いを繰り出した父に腹が立ったが、言われてみればその通りだった。父が犯人ではない事件で自首するのを、なぜ母は止めなかったんだろう。
 そんなことを考えたことなどなかった。
 事件現場は確かに当時の滝沢邸なのだ。
 母は言っていた。父は正義感が強い人だったと。自分の家で起きた事件だから、その責任を負わなければと思った……。
 そんな馬鹿な話があるか。
 罪に問われるべきは殺人犯であって、事件現場の管理人ではない。では当時事件現場に居合わせた人物がいたかといえば、いなかった。
 修也は「わかりません」と諦めた。
「僕の出頭をお母さんは許可した。それだけの理由があった。それはね、僕が人生を棒に振ってでも二人を守らなければならなかったからだ」
「二人?」
「そうだ。二人だ。愛する妻と息子をだよ」
 二人を守るために出頭した?
 では強盗犯が侵入して家中を荒らし回ったとでも言うのだろうか。その時柿本愛斗が不運にも殺害されてしまい、父が警察に出向いた。そこで強盗事件の話をしたが証拠はなく、強盗犯ではなく父が逮捕されたということなのか。
 だが二人を守らなければならなかったのなら、強盗犯を前にして妻子を残して家を出るわけがない。
「お母さんは墓場まで持って行くつもりだろうが、こうして修也が事件に触れてしまったのは宿命なのかもしれない。まるで見えない糸に手繰り寄せられたように」
「糸?」と修也は思わず口にしていた。思い浮かべたのは、むろん泉が見つけた赤い糸だ。
「あるいは運命の糸からは逃れられないのかもしれない。人生とは奇妙なものだ」
父は息子に近寄ると、声を潜めて続けた。
「愛斗君を殺したのは修也だった」
 父はさらりと言ってのけたが、その瞬間修也の思考は停止した。耳を疑った。父の顔を窺いたかったが、首が錆びついたように回らない。
「……俺?」修也は自分を指差して、そう訊くので精一杯だった。
「そうだよ。愛斗君を殺したのは君だった。だから僕が代わりに捕まったんだよ」
 父は冷徹に、淡々と言葉を続けた。真剣味を帯びるその声に嘘の響きは感じられなかったが、それでも修也は信じられなかった。
 声を絞り出そうとすると、空咳が出た。
「十五年前は二歳ですよ。二歳の子供がどうやって人を殺すんですか?」
「当然殺意はなかっただろう。でも僕達がちょっと目を離して庭に戻ると、愛斗君は血を流して倒れていたんだ。修也の手には血に染まった金属バットが握られていた。僕が草野球で使っていたバットだ。二歳児に持ち上げることなどできない。でも庭に置いてあったバットを引きずり回せば、遠心力で僅かに持ち上げることはできる。その時に愛斗君の後頭部にバットが当たったんだ」
 修也は茫然と自分の手を見つめた。じんわりと、掌が赤く染まっていくようだった。少しずつ広がる血色の滲みに鳥肌が立った。まだ信じられないでいるが、体は当時の感触を記憶しているらしかった。
 指先に、ゴムボールを握り潰したような感覚が蘇った。
「これからの修也の長い人生を考えると殺人は暗い影を落とす。二歳児の事件だから、大人と同じように裁かれるわけではないが、触法少年として人生を歩むことになる。もちろん親である僕達も責任を取らなくてはならない。でもそんなことはどうだってよかった。とにかく修也を守らなければと思った。息子の罪は親の責任だ。修也を守るために自首しようと決意した。迷いはなかった。お母さんとは修也に話さないと約束した。でもまさか、こんなことになるとは思いもしなかったよ」
「凶器のバットには、俺の指紋がついてたんじゃないの?」
「そんなことで修也が疑われるわけはない。滝沢家のバットなんだ。息子の指紋がついているなんて当然だ。修也の指紋の上から僕の指紋をしっかりとつけて警察に持って行った。警察もまさか二歳児が殴り殺したなんて思わない。修也が疑われるわけはなかった。僕達はそれでよかったんだ。修也が事件と無関係でいてくれれば……」
 だから母は、修也にバットを与えてくれなかったのか。
 父の形見として扱っていた野球道具の中にバットがなかったこととも符合した。少年野球に入れないのは貧乏だけが理由ではなかったのだ。
 近所のお兄ちゃんと公園で遊ぶようになった時、母にバットを買ってほしいとねだったことがある。だが母は買ってくれなかった。母は修也にバットを持たせることを嫌い、バットを握った修也が事件を思い出すことを恐れていたのかもしれない。
 中学に上がった時、試合の応援に来た時に祈るように観戦していたのは、修也がバットを握って溌溂とプレーするのを、柿本愛斗に許してくださいと乞うていたからかもしれない。
 ようやく確信が持てた。
 殺人犯は俺だったのだ。
 絶望は孤独の島に巣食っているのかもしれない。殺人犯に味方などいないのだ。それを修也は痛いほど知っていた。
 今まさに、自分は孤独の島に向かって船を漕ぎ出したのだ。島の上は雷鳴轟く黒雲に覆われている。荒れる大波に横腹を揺らされ、転覆しそうで持ち直す、その激しさは湧き上がる絶望に胸が震えるのと似ていた。
「お父さん……」
 修也は縋る思いで呟いた。
「家に戻って来て。家族三人で暮らそう?」
「それはできない」
 父は無情にもそう言った。
「生涯を掛けて償わせてもらうと誓った。家族の元に戻り、幸せな時間を過ごすことを僕は許されてない。それに、判決が出た後、二人とはもう会わないとお母さんに約束した。その約束を反故にはできない。修也とも、これで今生の別れとなる。立派に成長した姿を見られるなんて考えもしなかった。修也はお父さんが想像した以上に立派な男になっていた。それを知れただけで、人生に悔いはないさ」
 修也はぎりっと奥歯を噛んだ。
「俺は人生に後悔しかないよ」
「そんなことを言うな。修也の人生はこれからなんだ。誠実に生きろ。きっと素晴らしい未来が待っている。お父さんとお母さんが守りたかったものは修也の未来だ。今日話したことを胸に刻んで、修也らしく生きろ。僕やお母さんのためじゃなく、自分のために生きるんだ。いつか修也にも、自分を殺してでも守りたいものができるさ。その時に、自分の身の振り方を考えればいい。誰も修也の決断を否定しないさ」
 父は修也の頭にぽんと手を置くと、微笑んだ。
「本当に大きくなった。修也、幸せにな」
 そう言うと、父はこちらを振り返ることなく離れていった。何メートル、何十メートル離れても、その背中は大きなままだった。
 父の決断が正しかったのかはわからない。だが修也には、その背中が偉大なものに見えるのだった。
 父を見送った後、修也は血に塗れた手を拳に変えた。

16-2へと続く……

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