見出し画像

連載長編小説『赤い糸』7-2

 答えは出せないでいる。
 強いて言えば、俺にはどうすることもできない、といったところだ。自分に同情する者は龍一だけではないはずだ。だが自分が正しいことをしたとは誰も言わない。
 自分の行いが泉への裏切りであることは間違いないからだ。
 いっそのこと、誰からも罵られたほうが気持ちは楽だったかもしれない。罪の意識がはっきりして、泉への申し訳なさで胸が詰まる思いがしたはずだ。
 だが今は、悪者ではない。かといって正義でもない。どっちつかずな立場にいるから、自分を善とも悪とも判断できずにいるのだ。
 受験勉強など、到底できる状況ではなかった。学校の授業すら集中することができないのだから。キャッチボールの後教室に戻った修也は、虚空に歪む黒板をぼうっと見ているだけだった。
 下校、そしてアルバイトに向かう道中で、修也は泉のいない寂しさに気を落とした。だが早くも、泉がいないという違和感は消えつつあった。
 無情な男みたいじゃないか。
 そう考えて、悲しくなった。
 コンビニに到着すると、レジのほうから綾香が微笑み掛けた。それで修也は、今日も綾香とシフトが被っていたことを思い出した。のんびり羽を伸ばした正月休みが明けると、綾香は怒涛の勢いでシフトに入っていた。
 着替えを済ませて店内に戻ると、レジには綾香と丸井陽子の姿があった。
 夕方なのに珍しいな、と修也は陽子を見て思った。陽子は主婦の傍らパートに出ていて、そのため午前中勤務が主なのだ。
「久しぶり」と陽子は言った。母親のような笑顔を浮かべている。
 修也は笑みを返した。陽子と会うのは正月以来だった。修也は土日に午前中のシフトに入ることがあるが、正月以降陽子とは勤務時間が重なることがなかったのだ。
 業務内容を修也に引き継ぐと、陽子はタイムカードを切った。
「お疲れ様」と手を振る修也の横で「お疲れ様でした」と綾香が恭しくお辞儀をした。綾香は怪訝そうに修也を見たが、修也と陽子の関係性を思い出したらしく、何も言わずに背を向けた。
 陽子は母の友人で、修也も幼い頃から親しくしている。修也が高校生になりアルバイトを始めると聞くと、コンビニでのアルバイトを斡旋してくれた。修也が幼い頃から陽子はコンビニで働いていた。
 陽子の助力のおかげで修也は速やかにアルバイトを始めることができた。今ではすっかり恩人だ。
 勤務開始から一時間ほどが経ち、少し手が空いた。修也は「確か今日、早くから勤務されてますよね」と手持ち無沙汰そうな綾香に声を掛けた。
 綾香は足元に落としていた視線を上げると、ぱっと顔全体を明るくした。
「一時から」
 学校はどうしたんですか、と訊こうとしてやめた。綾香は一つ歳上だ。二月に入ると三年生は学校がなくなる。登校日は週一日で、そこではホームルームを行うだけなのだ。
 綾香は修也が考えたことを言った。
「三年は二月になると学校がないから暇なの」
「そうですよね」と修也は返した。綾香とは違う高校だが、やはりどこの学校でも同じことらしい。
「羨ましいでしょ?」
 別に羨ましいとは思わない。学校がない分アルバイトに時間を割き、収入を増やせるのは好都合だが、シフトの調整が自分の都合良く為されるわけもない。ただ暇な時間ができるだけなら、学校があるほうが修也はよかった。
 だがそんな思いを顔には出さず、修也は頷いた。
「たくさん遊べますもんね」
 きっと綾香は同級生と様々な場所に行き、残りの高校生活を謳歌しているのだろう。そのためには否が応でも金がいる。
 自分のために稼ぐお金か……。
 修也は不思議な感覚を覚え、綾香を見つめた。
 ところが綾香は首を捻り、うーん、と唸った。
「それがさ、受験が残ってる友達が多くて、なかなか遊びに行けないんだよね」
 確かに綾香は、友達と遊び惚けているとは一言も言っていない。すべて修也の勝手な想像でしかなかった。
「だからみんなとたくさん遊ぶのはもうちょっとしてからかな。卒業までに色んな所に行きたいなあ」
「受験が終わった友達とどこかに行くことってないんですか」
「あんまりないなあ。元々二人で出掛ける娘くらい? 大人数で遊ぶのは受験が終わってない友達に失礼でしょ?」
 そんな律儀な一面も、綾香の働きぶりを見ていれば納得できた。彼女は美人で愛嬌があるだけではない。そうした細かいことにまで心配りができる。だからコンビニ店員にも向いているのだ。綾香の接客を受けた客は、いつもにこやかに帰って行く。
「優しいですね」修也は思わずそう言った。
「優しい?」綾香は声を上げて笑った。「そんなことないよ。大人数で遊ばないだけで、まったく遊んでないわけじゃないんだよ?」
「はい。でも仲間外れを作らないって、すごいことだと思います」
 綾香は嬉しそうに笑うと、煙草の棚に視線を走らせ、切れかけている種類を収納から取り出した。
「それってすごいことなのかな?」袋を爪で開封し、煙草を補充しながら綾香は呟いた。「一人が闘ってるのに、私達だけ楽しい思いをするのって、何だか裏切ってるみたいで嫌なのよね」
「裏切る……」
 もし綾香が自分の立場なら、泉の味方でいられたかもしれない。そんなことを考え、修也は心の中で自嘲した。
「あ、でもさ、ばれなきゃいいとは思うんだけどね。浮気と一緒」
「綾香さんは浮気肯定派ですか?」
 きょとんとした目で口を噤むと、綾香はゆっくりと何度も首を横に振った。不覚にも、可愛いと思ってしまった。
「私はしないよ。でもたとえば彼が浮気してても私が気づかない内は赦す。というか、気づいてないんだから赦す赦さないの話じゃないんだけどね。で、私が言いたいのはそう言うことじゃなくて、この二月の過ごし方のこと」
 修也は一人の客に対応してから、綾香に話を促した。
「今は大勢で遊びに行かない。でもどうしたって暇だから、その時間は潰したい。二人きりで出掛ける友達もいるけど、毎日予定が合うわけじゃないでしょ?」
「その時は、他の友達を探せばいいんじゃないですか?」
 綾香はかぶりを振った。
「そんなことしたら、綾香は結局みんなと遊んでるって思われる。登校日に学校で会えば、きっとどう過ごしてたかの話になるんだから。でも一人でいるのは退屈でしょう? そこで修也君にお願いがあるの」
 修也は自分の顔を指差した。「俺ですか?」
「うん。二月暇だから、私の暇潰してくれない?」
「でも俺、学校ありますよ。まだ二年だし」
 綾香はそうだったとでも言うように口を大きく開けた。しかし調子を崩さずに続けた。
「そうなのよねえ。そこなのよね。わざわざ休めとは言えないし、それに――」綾香は含みのある目で修也を見た。
 綾香の横では珍しく、修也は居心地が悪くなった。
「それは気にしないでください。もう別れましたから」
「え?」虚を突かれたように綾香は呆然と修也を見つめた。「別れた……。早くない? だってまだ付き合って一ヶ月くらいじゃないの? 恋人ができたって聞かされたのついこの前なんだけど」
 綾香は史緒里の事件を知っているだろう。だが史緒里の娘が修也の恋人だったことは知らないのだ。たった一ヶ月で破局するなど、泉と結ばれた日には思ってもみなかった。
「どうして別れたの? どうして、どうして」
 綾香は執拗に迫って来る。だが修也は苦笑するばかりでまともに答えなかった。客足も増え、業務に追われたのも幸いだった。
 だが再び落ち着くと、綾香はなぜ別れたのか訊いて来た。
「よくわかりません」と修也は答えるだけだった。「だから綾香さんと会うのは問題ありませんよ。ただ、ずる休みはしませんけど」
「本当に別れたんだね」整った眉を寄せ、綾香は深刻そうな顔で言った。しかし声は明るいものだった。「でも、学校休まないんじゃ会えないじゃん」
 放課後になると毎日アルバイトがあることを綾香は知っている。
「あはは。そうですね」

8へと続く……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?