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連載長編小説『楽聖』第三楽章3


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 知里を教室に帰してから、僕は音楽準備室のデスクに向かった。知里が個人的に僕の元を訪ねるなんてずいぶん久しぶりだった。目の前で僕の変化を目の当たりにし、心に戸惑いがあったらしい。まだ中学生なのだから無理もない。現実を突き付けられた時は、大人であっても戸惑い苦しむものなのだ。
 しかし今日の知里は清々しい表情で音楽室にやって来た。彼女によると、模擬試験で志望校の合格基準点に到達したらしい。吹奏楽部の練習に合唱の伴奏と、この数ヶ月間、知里は多忙を極めていた。彼女の志望校は決して簡単に合格できる学校ではない。それだけに僕は感心せずにはいられなかった。
 生徒たちに負けていられない、と気合を入れ、一時間ほど五線譜と向き合った。森沢に音楽の本質を諭されてから一ヶ月が経つ。あの後も気持ちを整理することはなかなかできなかったが、近頃になってようやく気持ちが前を向き始めた。筆の進みは遅いものの、コツコツと作業を続けた甲斐あって作曲は佳境を迎えようとしていた。大曲の終盤に差し掛かったことは僕にとって大きく、精神的にもいくらか余裕を与えてくれた。
 フィナーレは楽想を集めている時から決めていた。今はそこに向かって曲を書き進めている。ようやくゴールが見え、僕の創作意欲は上向いた。何とも都合の良い作曲家だと自嘲する他ないけれど、今の僕はそんなものだ。
 ふう、と息を吐いて背もたれに身を預けた。十一月に入り、気温はぐっと落ち込んだ。すでに暖房を稼働させたいほど室内の空気は冷えている。今年は木枯らしが例年よりも早く吹き、十月下旬には十一月中旬並みの寒さが続いていたから覚悟はしていたけれど、今年の冬は底冷えだ。乾燥する季節、換気をしなければと思うものの、窓を開ける気にはなれない。吹きつける風は、すでに身を切るように鋭い。
 窓を開け、嵐山を望むとちらほらと紅葉が始まっていた。今朝は気づかなかったけれど、確かに山の中腹が赤く染まっていた。僕の一番好きな嵐山の季節が来る、と思うと口元が勝手に緩んだ。
 放課となり、帰り支度をしているところに堀江先生が現れた。彼女が音楽室に出向くのもずいぶん久しぶりだ。知里と言い堀江先生と言い、ようやく今の僕にも馴染んできたようだ。文化祭以前と同様に接してもらえたほうが、僕としてもありがたい。
 堀江先生は、僕の耳元にさっと目をやった。補聴器を掛けていることを確認したのだ。僕としては、できれば補聴器を使いたくないのだが、スクーターに乗ることを考えると周囲の音が聞こえないのはあまりにも危険だ。だから通勤途中は、補聴器に頼らざるを得ない。
「近々、食事とかどうかな?」
 堀江先生は、人懐っこい笑みを浮かべて言った。僕は彼女に微笑み返した。
「ぜひ、行きましょう」
 堀江先生の表情に安堵の色が滲んだ。
「ただ――」と僕は言った。「今交響曲が大詰めを迎えてるんです。だから、できれば作曲のほうが落ち着いてからにしてもらえればありがたいです。集中したいので」
「もちろんよ。私も、奏介君の交響曲の完成を待ち侘びる一人だから、邪魔はしたくないもの。楽しみにしてる。交響曲も、食事も」
 話していて、堀江先生の雰囲気が少し変わったような気がした。しかし去り際の後ろ姿からは以前と変わらぬマドンナ先生の姿を感じた。変わったのは雰囲気だったのか、それとも僕と彼女の距離感だったのか、僕にはわからなかった。
 この時期になると、夕方五時でも周囲は暗闇と言ってもいいほど暗かった。道路沿いに並ぶ店の中の明かりがやけに目立つし、少し遠くに見える嵐電は暗さで車体が見えず、窓だけが宙に浮いて進んでいるようだった。肌を刺すような向かい風は容赦なく手の甲を襲い、信号を待つ間に触れたジャンバーはえらく冷たかった。スクーターに跨った際、ジャンバー以上に冷え切っていた椅子が僕の体温で温まったのは家に到着する少し前だった。
 家に到着し、玄関を開ける前にポストを見ると、封筒が入っていた。クリスティーヌからだとすぐにわかった。この一ヶ月間、他にも二通の手紙が来たけれど、僕がいつも以上に短い返事を書いて送ったせいで、クリスティーヌは僕の体調を案じている。もちろん、僕の体調に異常な点はなく、彼女にもそう伝えるのだがなかなか信じてもらえない。
 補聴器を外して家に上がり、手を洗うと足早に自室に入った。
 クリスティーヌからの手紙を開封する。
『ムッシュー・アコウ
 ごきげんよう。ハッピーハロウィン!
 体調は崩していないみたいで安心したわ。もうパリはずいぶん冷え込んでいて、私が風邪を引いていたの。京都はパリに負けず劣らず寒暖差の激しい地域だから、ソウも体調には気をつけるのよ。
 ところで、クリスマスの予定はもう埋まっているかしら? もし予定があるようなら、ぜひともキャンセルしてもらいたいのだけど……。と言うのも、もちろん理由があるの。じつは今度のクリスマスは日本で過ごすことになっているの。年末にコンサートがあってね。それにフィリックスが年末は日本で過ごすみたいだし、ヴァガノフは東南アジアのコンサートの帰りに日本に寄るみたい。
 事情は理解してくれて?
 私たちがウィーンから羽ばたいて以来、この四人が一堂に会したことはただの一度もなくってよ。フィリックスは快く承諾してくれたわ。ヴァガノフも渋々だけど了解してくれた。ソウは、もちろん参加するわよね?
 クリスマスの夜――私たちの集う場所が、音楽の芸術地区となりますように。良い返事を期待しているわ。
                     クリスティーヌ・ロベーヌ』
 こんな脅迫にも似た文章を突き付けられれば断ることなどできない。単純に、三人と顔を合わせるのも悪くないと思ったし、フィリックスとマキシム、そしてクリスティーヌが集まるところを想像すると、何とも贅沢で溜息が漏れてしまう。
 ただ、僕の吐き出す溜息には後ろ暗い気持ちが混じっていた。彼ら三人には、まだ耳のことを話していない。三人が僕の耳のことを知った時に向ける軽蔑の目は、この世の何よりも僕に恐怖を与える。同じ音楽家として、同情、呆れ、侮辱、それらが混ざった視線は僕を地獄に叩き落す。口にはせずとも、三人の目はまるで卑しいものでも見るような険しいものになるだろう。その視線が劫火となり、僕を飲み込む。
 僕は、返事に困った。自分の置かれた状況を知られることに怯える一方、むしろ打ち明けてしまったほうが気分は楽になるのではないかと思う自分もいる。どちらが正しい選択か、わからない。どちらも間違っているような気がするのだ。
 すぐに手紙の返事を書けないことなんて初めてだった。森閑として風の吹く音すら聞こえない部屋の中で、僕は身動きが取れなくなった。まるで樹海に迷い込み、方角がわからなくなった子供のように。

 僅か一ヶ月ほどの間に、古都コンサートホールの建築はうんと進んでいた。前に来た時は覆われていた防音シートも、今では部分的に外れて外観が露になっていた。寸分の狂いもない設計図を相手にしても仕方がないのだが、僕は自分の作曲過程と比べてしまう。
 しかし今は落ち込むことはない。設計図のない殿堂を、僕は音符によって作り上げたのだ。胸を張り、軽い足取りで僕はホール内に入った。
 昨日伸也さんから指定された事務所に入ったのだけれど、そこは閑散としており、書棚やデスクにはビニール袋が掛けられていて、一瞬部屋を間違ったと思った。事務所の奥のドアが開き、伸也さんの姿を認めたから僕はここに留まっているけれど、もしあと少し伸也さんの登場が遅れていたら僕は広いホールの中で彷徨うところだった。
 挨拶を交わすと、伸也さんは初孫を初めて抱くかのような温かい眼差しで僕を見返した。僕は、脇に抱えていた大判の茶封筒を手渡した。封筒を受け取ると、伸也さんはそのまま僕を元いた部屋に通した。どうやら事務所の最奥にあるこの一室が館長室のようだ。館長室の書棚にはすでに多くの書類が収められ、伸也さん専用のデスクの上も資料などが広がっている。部屋の中央にあるガラステーブルを囲むソファは真新しいが誰かが座ってできたであろう皺が入っている。他のホール内の場所とはがらりと変わって、館長室には生活の匂いがぷんぷんした。
「古都フィルの方々はまだこっちに来られてはないんですね」
 古都コンサートホールが完成すれば、当然古都フィルの本拠地なのだから古都フィルの事務員たちがここの事務室に入る。チケット販売の対応なども彼らが行うのだ。
「楽団の資料やらをここに移すのは全部が完成してからや。その時に社員も移ってくる。まあ、あと一ヶ月くらいやから、言うてる間やけどな」
 伸也さんがインスタントコーヒーを入れてくれ、僕はそれを受け取った。封筒を開けてもいいかと訊かれたので、僕は大きく頷いた。
 三周で留めていた紐が子気味よく緩められていく。封が解かれ、封筒の中に伸也さんの手が入ったのを見て僕は息を呑んだ。僕としては自信作であったが、初めて人の目に触れるということもあって緊張を感じた。いつからか、足が小刻みに震えていた。
「しかし交響曲一曲書き上げるやなんて、大したもんやで」
 封筒の中で楽譜を掴んだであろう右手を引き出しながら伸也さんは微笑んだ。封筒をガラステーブルに置き、伸也さんは楽譜を自分の膝上に載せた。一瞬楽譜に見入ってから、伸也さんの目は僕のほうに向いた。タイトルを見たのだ。
 僕は、赤穂奏介の交響曲第一番に『聖人』というタイトルを当てた。大袈裟なタイトルではあるけれど、僕としては背伸びをしたわけでもなく、そのタイトルをつける自分なりの理由があった。
「けったいな題名やなあ」
 僕は首を縦に振りながら笑った。「でも、中身を見てもらえればわかると思います」
 ほう、と言って口角を上げると、伸也さんは楽譜をめくった。
『聖人』に込めた想いは亜希に対する「尊敬」だ。世界にその名を轟かせる高辻家に生まれ、親譲りの、あるいは親以上の才能を開花させ、若くして世界を代表するオルガニストとなった亜希。若くして活躍し、若くして命を落とした彼女のことを世間は早熟の天才と呼んだ。そんな亜希と共に成長し、また見守られてきたのが僕だ。彼女は僕の恋人だったけれど、時として姉のように、あるいは母のように、僕を励まし背中を押してくれた。ウィーンへ発つ前のことを今でも思い出す。残された時間が僅かと悟りながら、彼女は自分のことではなく僕のことを気に掛けていた。そして音楽家としての誇りを示し、安らかに眠ったのだ。
 そんな偉大な音楽家と戯れ、音を紡ぎ合っていたことがる。まだ僕と亜希が幼い頃だ。当時、まさか将来交響曲を作るなどとは考えもせずに書き込んでいた楽想がいくつもあった。今回の曲には、それらの楽想をアレンジした旋律がいくつも使われている。伸也さんにも馴染みのある音が見つかるはずだ。
 成すべきことがあるのならば、目の前に現れた試練を乗り越えるのは必定。そうでなければ、それまでの人間――乳がんが発覚した際、亜希が言ったことだ。作曲が滞る度、僕の脳内にはこの言葉が過った。亜希が口にした生きる意志は、僕を奮い立たせるのと同時に不安にもさせた。特に難聴が発覚した時は、彼女の言葉を受け入れることなど到底できなかった。しかし森沢に音楽の本質を気づかされ、僕は難聴と向き合う覚悟が決まった。乗り越える試練だと、腹を括った。
 こうして交響曲を完成できたのは、亜希の存在があってこそだ。これが、僕と彼女で紡ぐ最後の音楽。前を向くために捧げる訣別の曲。僕にとって亜希は、誰よりも尊敬に値する「聖人」なのだ。
 一通り楽譜に目を通した伸也さんは、ふっと口元を緩めた。同じように微笑んだ箇所が、他にも四回あった。人差し指で瞼を掻いた後、伸也さんはさりげなく目元を拭った。
 楽譜から顔を上げた伸也さんの目は涙を堪えて充血していた。鼻孔がぴくぴく痙攣している。
「雅楽を使うなんて本気かいな」
 かえって不自然な明るい声に僕は頷いた。
「この曲は当然いくつもの楽想によって形成されていますけど、根幹には亜希の魂が宿ってるんです。日本の伝統的な音楽を何としてでも取り入れたいんです」
「杮落としはスタンダードな形でやりたかったんやけど……まあええか。よし、杮落としはこれや。『聖人』で決まりや」
 杮落とし公演は来年の三月ということだった。コンサートマスターはフィリックスが務め、本格的に稽古を開始するのは来年二月初頭の予定である。伸也さん立っての願いで、僕が『聖人』の指揮者を務めることになった。
 ホールの外に出ると、強烈な木枯らしに吹かれた。前髪が吹き上げられ、コートの裾が靡く。僕は思わず首をすくめた。
「臨時教員の生活もあとちょっとや。頑張りや」
 自覚するよりも、他人からタイムリミットを告げられるほうがその現実味を感じる。秋の曇天を見上げると、名残惜しさが僕の胸の内を占めた。まさか教員生活にこのような感情を抱くなんて、今年の春には考えもしなかった。
 はい、と答え、僕は歩き始めた。今日、楽譜を手渡すのともう一つ、フィリックスたちの集うクリスマス会に参加するか否かを相談しようと思っていた。が、僕はそれを口にはしなかった。自分で決断しようと思ったのだ。これから先は、誰も背中を押してはくれないのだから。


4へと続く……

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