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連載長編小説『赤い糸』3

        3

 泉がアパートを訪ねて来たのは午前十一時を回った頃だった。何の前触れもなく現れた泉は、修也をファミレスに連れ出した。
 日曜の昼前だが、客はまばらだ。書き入れ時まで少し時間があるからだろう。修也の勤める丼屋でも、正午前までは嵐の前の静けさといった感じだ。だが正午を過ぎれば客の入りは急激に増加する。昼は回転が速いので、その分忙しい。
 ファミレスに向かう道すがら、泉は「会ってもらいたい人がいる」と言った。その待ち人らしき人がテーブル席からこちらに手を振っていた。
 てっきり泉の母に会うと考えていた修也はやや拍子抜けした。
 学校では見覚えのない顔だから、泉の中学時代の友達だろう。泉とは高校一年生の時に出会ったのだ。
 泉は、修也が推測した通り友人を紹介した。待ち人は佳純というらしい。
「今日バイトは?」
 二人が腰を落ち着けると、開口一番佳純は訊いた。修也の基本情報は泉から聞かされているらしい。
「三時から」
 今日もコンビニのシフトに入っている。時間は十分にあるので、それを気にする必要はなさそうだ。佳純も同じことを考えたようで、笑顔になった。接しやすそうな人だな、と修也は思った。
 三人は注文を済ませた。佳純と泉はドリンクバーの飲み放題にしていたが、修也は水で十分だった。料理も手羽先だけ注文した。佳純は修也の注文に戸惑った顔をしたが、泉は傍で「サラダ分けよう」とさらりと言った。
 断る理由もないため、修也はそれを受けた。「ちょっとだけもらうよ」
 そんな二人を見ていた佳純が、ゆっくりと首を動かした。
「滝沢君、細いね」
 修也は自分の肩を擦った。日頃の食事を考えれば当然の体格だった。賄いで週に三、四日丼を食べてはいるが、食べ盛りの高校生には心許ない食事量だ。あるいは太りにくい体質なのかもしれないが。
 母はまもなく五十路を迎えようとしているが、骨に皮が引っ付いただけのように細い。
 修也は苦笑した。
「でも、こう見えて意外と力はあるんだ」
「時々引っ越しバイトにも行ってるしね」泉が補足した。
 その通りなので修也は頷いた。力瘤を見せる気にはならないが、筋肉率は運動部員と同等だと思われた。贅肉がないから、筋肉に変わるものがないのだ。
「週何でバイトしてるの?」
「基本的に毎日」修也は苦笑した。佳純は驚いた顔と同時に感嘆の声を上げたが、修也には虚しさしか残らなかった。「時々勤務のない日もあるけど」
「泉でも週五だもんね。週七って、社会人より働いてるし」
 社会人より働かないと生きていけないんだ、と言おうとしてやめた。同情されても哀れなだけだ。
 泉と佳純が明るく笑ったので、修也も微笑を浮かべた。
 それから料理が運ばれて来るまで、泉のアルバイトの話になった。泉はショッピングモールで働いており、不定期に梱包作業のアルバイトも行っている。佳純が近況についていろいろと訊ねるのを、修也は横で聞いていた。
 料理が運ばれて来ると、泉が取り皿にサラダを分けてくれた。泉のサラダなのに半分ほど修也に分けようとしたので、慌てて止めた。修也は三分の一を分けられたが、それでも多いくらいだった。
 食事を始めると、気を取り直して泉が話し始めた。
「実はね、彼氏ができたら紹介するって約束してたんだ」
 へえ、と修也は相槌を打った。「それで今日は連れて来られたのか」
 うん、と嬉しそうに頷く泉に修也も思わず微笑んだ。泉と交際を始めて明日で一週間だ。中学時代の友達との約束を律儀に守っているのがいかにも泉らしい。
「平日はなかなか時間取れないし、昨日はあたし、朝からバイトだったから。今日になっちゃった」
 泉は申し訳なさそうに言った。まだ交際一週間も経っていないというのに。
 当然、佳純は泉を容赦した。
「私に彼氏ができたら、泉に紹介するまで一週間の余裕があるってことね」
 冗談を口にし、泉を笑わせた。
 二人の談笑の中、手羽先の油が修也の胃袋を重くした。滅多に口にしない大量の油分が体に毒なのかもしれない。修也は水をおかわりしに席を立った。
 戻ると、泉の姿がなかった。お手洗いに行ったそうだ。ドリンクバーを次から次に飲み干していく泉の姿を思い出し、修也はそれもそうかと思った。
 ひょっとして、通路側に修也が座っていたから、トイレを我慢していたのだろうか。そんな気がしないでもなかった。
 テーブルに戻ると、気まずい沈黙が流れた。佳純と二人きりで何を話せばいいのかわからない。あまりに打ち解けてしまっても、戻って来た泉に不快な思いをさせるのではないか。
 ほんの数分のことだ。それくらいなら沈黙も耐えられる。そう思い、修也は水を口に含んだ。
 その時、佳純がこちらに視線を向けた。泉がいる時には見せなかった真剣な目だ。
「泉のこと、絶対に傷つけないでほしい」
 修也はグラスを置くと、大きく頷いた。
「もちろん」
「ないとは思うけど、浮気とかしちゃだめだから」
 出会ってからの数十分で浮気をする男に見えてしまったのだろうか。そうだとすれば、些か不本意である。
「泉を裏切ることはない」
 佳純は二度首を縦に振った。「みんな最初はそう言う。その気持ち、絶対に忘れないで」
 どうして、と訊こうとした時、泉が戻って来た。修也は咄嗟に立ち上がり、泉を座席の奥に座らせた。修也が腰を落ち着けた時、佳純はすでに柔らかい眼差しになって座っていた。泉が何の話をしていたかを訊くと、魅力的な女性の条件を質問してた、と佳純は嘘を吐いた。
 泉は修也の魅力的な女性について気になる様子だったが、佳純は「大して参考にならなかった」と言った。
「やっぱり?」と泉もなぜか同調した。
 修也は泉の横顔を見つめながら、俺は絶対に泉を裏切ったりしない、と心に誓った。ようやく報われた人生だ。それは泉にも同じことが言えた。万が一にも、この幸せを手離すことはない。浮気など論外だ。
 三人が店を出る時には、席が埋まり始めていた。それぞれに会計をして、外に出た。しばらく三人で同じ道を歩いたが、やがて修也だけが別れた。泉と佳純は中学が同じだけに家も近いのだ。
 泉のこと、絶対に傷つけないでほしい――。
 佳純の言葉が、修也の鼓膜に何度も繰り返された。

4へと続く……

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