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連載長編小説『赤い糸』12-1

        12

 午前十時を過ぎた頃、修也は指定された場所に集合した。引っ越し作業を手伝うアルバイトだった。
 これまで引っ越しのアルバイトは六度経験がある。何度かペアを組んだ社員の男性がいて、彼は修也を見て安心したように相好を崩した。細かな説明が不要だからだろう。社員の男性は概要を説明すると、出発まで待機するよう言った。
 修也と同じアルバイトは四人いた。その中の一人に見知った顔があった。彼女も修也を覚えているらしく、やや吊り上がった目でこちらを見ていた。
たしか名前は吉岡南といった。彼女とは以前引っ越しのアルバイトで一緒になった時、少し会話をした記憶があるが、何を話したかは覚えていない。どんな人かも忘れていた。
 目が合ったこともあり、修也は会釈した。彼も私を覚えている、と手応えがあったのか、南は微笑を浮かべると歩み寄った。
「マイは元気?」
 唐突に訊かれて、何の話かわからなかった。
「マイ?」と問い返しながら、彼女は同級生だっただろうかと考えた。おそらく以前に年齢は伺っているが、覚えていなかった。「マイって、佐藤麻衣のこと?」
 南は他に誰がいると言わんばかりに首を縦に振った。
「そう。佐藤麻衣」
「元気だけど、どうして麻衣のことを?」
 南は目を細めて仏頂面になった。
「前にお互いの高校の話をしてたじゃない。帰った後、あなたと同じ学校に麻衣が通ってるのを思い出したの」
 そう言うと、南は首を傾げてこちらを見た。覚えていないのか、と責められているような気がした。残念ながら覚えていなかった。南と会ったのは一年以上前なのだ。顔を見て名前を思い出しただけでも褒めてほしい。
 しかし彼女はよく覚えていたな、と修也は思った。修也のことも、会話の内容も。
「同じ中学に通ってたとか?」
「うん。同じ中学だった。だから訊いてみただけ。まあでも、元気ならよかった。もうストーカー被害はなくなったんだ」
「ストーカー?」
 修也の口調が急にはっきりしたせいか、南はどきっと体を震わせた。思わぬ言葉に、修也の声には無意識に怒気が混じっていた。
 南は迷いつつ頷いた。
「昔の話。もうストーカーされてないみたいだし、今の話忘れて」
 いや、思い当たる節はある。
 痣だ。麻衣の顔に時折浮かぶ痣。修也は家で虐待を受けているのだと思い込んでいた。一度麻衣に直接そのことを訊ねたが、麻衣は虐待など受けていないと言った。あの時は虐待されているという認識がないか、あるいは他人に干渉されたくないのだと思ってそれ以上訊かなかった。
 しかし麻衣は確実に暴力を受けていた。髪の生え際から眉に掛けての大きな痣。当然自分でつけられるものではないし、転んだ拍子についたものにしてはあまりに酷いものだった。
 ストーカー被害。あの痣の原因として十分考えられるものだった。
「その話、もう少し詳しく聞かせてほしい」
「でもこういう話ってデリケートだから、今被害を受けてないなら――」
「今も続いてる可能性が高い。麻衣は時々顔に痣を作ってる」
 それを聞き、南は怯えたように目を見開いた。
「だから話を聞かせてほしい。その前に、一つ訊いておきたいことがある。麻衣の両親は、暴力を振るうような人かな?」
 南はかぶりを振った。
「すごく優しい人。お父さんもお母さんも、娘に暴力を振るうような人じゃない」
 それを聞いて少し安心した。麻衣まで家族のことで傷ついてほしくなかった。かといってストーカー被害は看過できない。
 修也は麻衣のストーカー被害について話をするよう促した。
「麻衣には中学の頃に付き合ってた彼氏がいたの。浅野っていうんだけど、浅野は麻衣に振られた後も未練が残ってて、麻衣のバイト先に出没したり帰りを待ち伏せしたりして、ずっと麻衣に言い寄ってた」
「それは麻衣から相談を受けて知ったの?」
「ううん。麻衣とはクラスが一緒になった時に会話をするくらいで、連絡を取り合うほど親しくはなかった。麻衣が浅野にストーカーされてるのを知ったのは私がこの目で見たからなの」
 どうして麻衣を助けなかったのか、なぜ通報しなかったのか、とは言えなかった。南の目は麻衣と浅野を目の前にしたかのように震えていた。暗い夜道で、南も一人だったはずだ。十五、六歳の少女がストーカーに立ち向かえるはずもない。
「それも何度も」南は続けた。「最初に見た時は、浅野も暴力を振るってはなかった。むしろ麻衣のほうが強いというか、言い寄る浅野をはっきりと突き放して、どれだけ追いかけられても振り払ってた。でも次に見た時、浅野は躊躇なく麻衣の顔を殴った。何発も麻衣の顔を殴って、麻衣は電信柱に頭を打ち付けられてた。通報しなきゃって思ったけど、怖くて体が動かなかった。物陰から見てることがばれたら、私も同じ目に遭うような気がして」
「それは仕方ない。そんな場面に遭遇して、冷静さを保てる人は少ないよ」
 南は小さく頷いた。不快そうに顔を歪めると、彼女は続けた。
「それから少しして、また二人を見掛けた。浅野はまた麻衣の顔を殴ってた。倒れた麻衣の横腹を蹴って復縁を迫ったり、倒れてるのに髪を掴んで、無理矢理体を起こしたら今度は平手打ちを浴びせてた。中学の頃は、そんなやつじゃなかった。浅野は勉強もできたし優しかった。口調も穏やかで、周囲からは好かれてた。あの時、そんな面影はなくなってた。ふらふらの麻衣を立たせると、浅野は近くの公園に移動した。無抵抗な麻衣を花壇に押し倒して、たぶん、無理矢理キスしてたんだと思う。それから麻衣の服を脱がそうとして……。でもちょうどその時、私、足元の枝を踏んじゃって、静かな夜の公園に異様な高い音が響いて、浅野もそれで我に返ったみたいで、すぐにこっちに駆け出してきた。私は何とか物陰に息を潜めてやり過ごしたけど、その時は恐怖で麻衣のことなんか忘れてた。私は花壇に倒れ込んだままの麻衣に気づかず、一人家に帰った。帰ると少し落ち着いて、麻衣を置き去りにしてしまったことに気づいた。次の日の登校前に公園に寄ったけど、麻衣はいなかった。それから私は、麻衣と浅野を見てない。意識的に二人を目撃した道を避けてたから。枝を踏んだ時の、あんな怖い思いは二度としたくなかったから」
 途中から、南は麻衣にごめんなさいと謝るように沈痛な面持ちになっていた。修也自身、凄惨な目に遭いながら誰にも相談できないでいる麻衣の気持ちを想像すると、それだけで苦痛を覚えた。
「浅野は捕まってないの?」
 南は小さく頷いた。
「麻衣は警察には届けてないの?」
「そうだと思う」
 どうして届けないんだろう。このまま浅野を野放しにしていたら、麻衣はいつまでもストーカー被害を受けることになるし、いつか強姦されるかもしれない。あるいはすでに関係を強要されたかもしれない。
 復縁を迫っても取り合ってもらえないことで逆上し、殺人事件に発展するという最悪のシナリオも想定できる。
 そうなる前に手を打つべきだ。私なら大丈夫と高を括っていると、いずれ後悔することになる。麻衣はすでに痛い目に遭っているが、惨劇が起きてからでは遅いのだ。
 話はそこまでだった。出発の時刻になったのだ。
「怖い顔になってるぞ」と社員の男性から言われた。「リラックスリラックス。明るく元気よく頼むよ」
 修也は苦笑で応じたが、簡単に忘却できるものではなかった。トラックに乗り込み、窓の外に流れる閑静な住宅街を眺めていたが、浅野に対する怒りが収まることはなかった。
 こんなに平和な路地で、麻衣は怖い思いをしているのだ。
 気が付くと、修也は拳を固めていた。

12-2へと続く……

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