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連載長編小説『赤い糸』9

        9

 泉が倒れて六日が経つ。昨日、麻衣が龍一にチョコレートを渡しているのを見て、本当だったら自分達もああしていたはずなのに、と修也は羨んだ。泉はまだ目を覚まさない。
 だが意外なことに、アルバイトを終えてから綾香にチョコレートをもらった。僅かな喜びと後ろめたさが混ざり合い、ミルクチョコレートが苦く感じた。
 今日も修也は集中治療室の前にいる。下校時に直接病院に足を延ばしたため、制服姿だ。今日はアルバイトがない。
 あれから薫子は刑事である父親に事件のことを訊ねてくれている。しかし実の娘でも、さすがに捜査情報は教えてもらえないらしい。
「もう少し粘ってみる」と昨日も今日も薫子は言っていたが、望みは薄いのではないか。
 薫子頼りで信じて待つことしかできない自分の無力さに修也は失笑したい気分だった。一人では何もできない。それは前からよくわかっていたつもりだが、改めて突き付けられるのは辛酸を嘗める思いだった。
 その時、心拍数を示す機械的な音が乱れた。修也は慌てて立ち上がり、窓越しに泉を見た。青白いが穏やかな顔に、刹那不安が過る。微弱な心拍数が、時々大きく脈打っていた。それが生の足音か死の足音か、修也にはわからない。
 窓にへばりつくと、勢い余って額をぶつけた。
 鈍い音が聞こえたのか、寒い朝のアラームを聞いたみたいに泉の睫毛が不快そうに動いた。
 修也は目を見張った。微かな生の兆候。確かに感じられた命の鼓動。本当に睫毛がぴくりと反応したのか、すでにわからなくなっている。それでも修也は自分の見たものを信じて泉を見守った。
 絶対に動いた。心拍数の上昇は、泉の心臓が蘇生されている証に違いない。きっと目を開ける。
 そう信じ、修也は固唾を飲んでその瞬間を待った。
 十分が過ぎ、三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。時間は恐ろしいほど早く過ぎていった。泉は眠ったままだ。
 睫毛が動いてから一時間十分ほどが経った時、看護師が様子を見に来た。修也が目にしたことを話すと、看護師は集中治療室に入れてくれた。
 薬の匂いが充満していた。
 看護師は検診を終えると出て行った。修也はベッドの傍に丸椅子を置いて腰掛け、泉の手を握った。半月ぶりに触れる彼女の手は、記憶にあるよりずっと小さく感じた。いつも温かかった手が、今は氷のように冷たくなっている。目を閉じていたら、この手の持ち主は死んでいると思ったかもしれない。
 修也は小さな泉の手を両手で包んだ。自分の体温を少しでも分けてやれたら、そう願い続けた。
 数分が経った時、手の中で華奢な指が微かに動いた。綺麗に切られた丸い爪が、修也の掌を心地よくなぞる。
 そっと握り返すと、泉の手はまた反応した。
 修也は床に膝をつき、泉の手を両手で握ったままベッドに肘をついた。泉の青白い顔を見つめながら、目を開けてくれと祈った。
 睫毛が微かに動いた。鼓膜を打つ心拍数も少しずつ上昇していた。掌で感じる体温も上がっている。瞼が、開いた。
「泉……」
 薄目で見上げる泉に呼び掛けた。声が聞こえたのか、泉は弱々しい顔のまま頬を微かに痙攣させた。それと同時に、目尻から耳元に涙が流れ落ちた。
 修也はナースコールを押した。ボタンを押すと、修也はそのまま動けなくなった。涙を堪えるのに必死だった。
 その手に、泉の震える手が触れた。泉に促されて、彼女の小さな胸の上に手を載せた。どくん、どくん、と心臓が動いているのが直に伝わってくる。
「生きてる」修也はこめかみを抑えるようにして手で目元を覆った。鼻が熱かった。「ちゃんと生きてる」
「……みたい」
 喘ぐような泉の声と同時に、ドアが開けられた。医師に続いて看護師が入室し、修也は一度廊下に出た。
 言い表しようのない安堵に、修也はしばらく茫然とした。何も考えず、虚空を見つめていた。時々、泉が目を開けた瞬間が脳裏に再生された。
 二十分ほどで医師と看護師は退室した。
「命の危険からは脱しました。目を覚まされて、幸いにも植物状態にならなかった。ただ、後遺症については今後詳しく検査する必要があります。さすがに後遺症がないはずはありませんから」
 そう言うと、医師は廊下を歩いて行った。
「まだ絶対安静です。明日には病室に移ることになると思いますが、今はまだ集中治療室から連れ出さないでください。お手洗いの時、ナースコールを押してください」
「わかりました」
 看護師はお辞儀をすると医師と同じように廊下を歩いて行った。看護師の姿が見えなくなると、修也は集中治療室に入った。
 泉はまだ寝たきりだ。
「いきなり別れようなんて言って、ごめん。俺は味方でいないといけなかったのに……」
 泉は無表情のままかぶりを振った。
「仕方ないよ」かすれた声だった。「親が殺人犯なんだもん……」
「でも――」
「怒らないの?」
 声が重なって、修也は泉に話を譲った。
「死のうとしたあたしを、修也は怒らないの?」
「俺にそんな権利はないよ。泉が自殺しようとするほど追い詰めたのは俺だし、そんな俺が死ぬことも許さないなんて、何様なんだって話だろ」
「修也のせいじゃないよ。振られたことは、辛かったけど」
「俺のせいじゃない?」
 そんなはずはなかった。修也が裏切ったから、泉は絶望して大量の睡眠薬を飲んだ。死の淵を彷徨ったのだ。それなのにこの期に及んで気を遣う。
 いっそのこと、おまえのせいで死ぬところだったと罵られるほうがよかった。優しさは、時に何より人を傷つける。今まさに、修也は泉の優しさに胸を抉られている。
 泉の前で傷つく権利などないのに。
 だが泉は小さく頷いた。少し話しただけで息が上がっている。泉は酸素マスクを外し、少しだけ水を飲んだ。一度に水を飲む量も決められているのだ。一週間近く胃袋は活動していない。そこに大量の負荷が掛かると別の疾患が出る恐れがある。点滴で栄養を補っていたとはいえ、突然大量の栄養を摂取すれば人は死ぬ。
 少し休んでから、泉は口を開いた。
「お母さんが逮捕された理由、知ってる?」
 知らない。薫子が父親に訊ねてくれているが、一向に情報を開示してもらえないのだ。修也は首を横に振った。
「赤い糸だよ」
「赤い糸?」
 理解が追いつかず、修也は泉の声をオウム返ししただけだった。赤い糸とは、泉が栞にして保管しているあの赤い糸のことだろうか。
「あれが殺人の証拠になったの。あれは赤い糸じゃなかった。全体が血に染まった、元々は白い糸だったの」
「血染めの、白い糸……」
 繰り返しながら、頭では理解が追いつかなかった。しかし体は理解しているようで、掌から首筋に掛けてさわさわと鳥肌が立った。
 ようやく頭で理解した時、得体の知れぬ不快感が全身を駆け巡った。
 俺は赤い糸を手に取らなかったか? あれは人の血を浴びた白い糸なのだ。殺人の証拠……。いや、直接手には触れていないはずだ。
 遠い記憶を手繰り寄せ、あの時自分はハンカチに載った赤い糸を見ていただけだと思い出した。それで安心したが、気味悪さを拭い去ることはできず吐き気を催した。
「返り血ってこと?」
「たぶん、そう。あたしもこれ以上のことは知らないんだけど、あの糸が証拠となってお母さんが逮捕されたのは確か。糸も警察に持って行かれちゃったから……」
「赤い糸じゃなかった……」
 運命だなんだとはしゃいでいたあの頃は何だったのか。虚しさに打ちのめされそうだ。
 ただ、史緒里が逮捕された翌日に泉と破局したことにはなぜか納得できた。迷信臭いが、二人は運命の赤い糸で結ばれていなかった、だから簡単に別れることになった、それだけのことだ。
「でもあたしにとっては、赤い糸だよ。運命の赤い糸。だって結局、あの糸に運命を左右されてる。幸せの、運命の赤い糸だと思っていたものが殺人の証拠で、しかも捕まったのがお母さん、あたしは絶望した。生きてても、良いことないんだなって」
「そこに俺が別れを切り出した……」
 自分を責めるために、修也は言った。
 今度こそ泉は頷いた。
「ショックではあった。でも修也が責任を感じることはないよ。赤い糸が証拠って知った時点でかなり参ってたから」
「でも俺が別れを切り出さなかったら自殺してないだろう?」
 泉は虚ろな目で天井を見つめた。
「薬を飲む前に、相談はしたかも。でも死のうって、心のどこかで決めてた気がする。あたしの人生、親に壊されてる。だから唯一の贅沢だった睡眠薬で死んで、ちょっとした復讐をしてやろうって」
「今、死ぬつもりはある? また自殺する気?」
 泉はゆらゆらと首を横に振った。
「もう自殺はしない。目が覚めたら、傍に修也がいてくれた。それだけでも、救いはあるのかなって思った。振られちゃったし、元に戻るのは難しいかもしれないけど、蘇生して最初に修也と会えて嬉しかった」
 償わなければ。泉の言葉に、痛烈に打ちのめされた。
「でももう気に掛けてくれなくていいよ」
「そういうわけには……。泉が何と言おうと、やっぱり責任は感じる。何とか泉の力になりたいと思ってる。どんな些細なことでもいいから」
「その気持ちだけで十分だよ。病院にいてくれたことで、あたしを心配してくれたことは十分伝わったから。でもあたし達、もう恋人じゃない。だから修也、もう気に掛けてくれなくていい。死のうとしたのは修也のせいじゃない。あたしがそう言ってるんだから」
 修也は何も答えられないまま、そっと泉の手を握った。少しずつ体温が戻っているらしく、最初に触れた時よりもずっと温かかった。
「しゃべり過ぎかな。ちょっと疲れた……。寝かせてくれる?」
「わかった」と修也は立ち上がった。
 集中治療室を出る時、「ありがとう」と泉が囁いた。
 修也は小さく頷き、廊下に出た。

10へと続く……

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