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連載長編小説『赤い糸』15-1

        15

 鞄から筆箱を取り出し机に置いた時、薄っすらと文字が書かれているのに気づいた。
 登校したら中庭に来て――。
 シャーペンで書かれていたので消しゴムで擦ると難なく文字は消えた。修也は消し滓をごみ箱に捨てると中庭へと降りた。
 昨日浅野に蹴られた腹部が階段を下りる度に痛んだ。呼吸をすると何回かに一度脇腹が痛むから、肋骨に罅でも入っているのかもしれない。どれだけ痛くても病院には行かないが。
 教室に戻る階段のことを思うと、今から患部が痛んだ。
 中庭には天然芝が敷かれていて、それを囲むようにウッドデッキが設置されている。周辺には桜の木が数本植えられているが、まだ蕾にもなっていなかった。
 待っていたのは薫子だった。
 挨拶を交わすと薫子は言った。「結局真木さんのお見舞いには行ってないんだね」そろそろ退院するって教えてあげたのに、という続きがあるように感じられた。
 泉が近々退院するらしいことは先週薫子から聞かされた。
「俺が見舞いに行っても、気まずくなるだけだ」
「そうかも……」
 薫子は否定しなかった。心のどこかで、修也は自分の言葉を否定されることを望んでいた気がした。泉は待ってるよ、と言ってほしかったのかもしれない。
 修也は顔をしかめてウッドデッキに座った。落胆と脇腹の痛みで立っているのが辛くなったのだ。
「私のせいでごめんなさい」薫子は深々と頭を下げた。
 顔が上がった時、彼女の目は涙で薄く濡れていた。
「畑野さんのせいじゃないよ」と修也は苦笑した。期待した言葉は返ってこなかったが、顔をしかめたのも腰を落としたのも脇腹が痛んだからだ。
 修也は脇腹に手をやった。
「私のせいなの」
 まさか浅野を唆して麻衣を襲わせたとでも言うのだろうか。麻衣を庇って修也は怪我をしたのだ。
 だが薫子と浅野に接点があるとは思えないし、そもそも麻衣を襲わせる理由がない。
「何が畑野さんのせいなの?」
 薫子は逡巡した様子で、自分の手を握りしめた。呼び出しておいて話さないわけもないだろうと思い、修也は急かさず静かに待った。
「私が余計なことをしなければ真木さんのお母さんは捕まらなかったから」
「余計なこと?」
「あの日赤い糸を拾って持ち帰った。その時パパに見せたの、赤い糸を。丁寧に栞にされてるのを見たパパも感心して、こういう小さなものを大切にできる子なんだなって褒めてたの。それで私、この糸が真木さんの家で見つかったらしいことを話したの。真木さんがハンカチに糸を載せてる時の話、聞こえてたから……。そしたらパパ、真木さんの名前を知りたがって、真木泉だって答えた。真木さんのお母さんの名前も訊かれたけど、私は知らないから答えられなかった。でも真木さんの名前を言うと、パパは栞を分解して糸の一部を切り取ったの。几帳面に手袋まで嵌めて……。その後ちゃんと栞を元通りにしたけどね」
「その直後に泉のお母さんは逮捕された……。殺人の罪で」
 薫子は頷いた。
「その時切った糸。あれを鑑識に回して、十五年前の事件の被害者の血液データと照合してもらったみたい。数日で結果は出た。結果は知っての通り。あれは元々白い糸で、柿本愛斗君の血液で赤く染まってた。そんなものが真木さんの家にあったということは、真木さんのお母さんが当時事件に関与していた、もしかしたら犯人だったんじゃないかって」
 栞を見せられただけでよく血液ではないかと直感したものだ。刑事の勘か、あるいは執念と言うべきか。真木という十五年前に疑念を持った女性の名前をよく覚えていたものだ。赤い糸と真木史緒里、それらをすぐに結びつける機転には驚かされた。
 だが一方で、薫子の父が十五年前の捜査で史緒里犯人説を諦めずにいたら、もしかしたら十五年後の今日修也はこんな目に遭っていなかったかもしれない。
 薫子の父親を憎く思った。
「十五年越しに真犯人を逮捕できて、ご満悦だったんじゃないか」
 つい皮肉るような口調になってしまった。
 薫子はかぶりを振った。
「そんなことはなかった。犯人を捕まえるのに十五年も掛かってしまった。あの時自分を信じて処分覚悟で意見を通していればって後悔してた」
 本当にその通りだと思う。後悔では済まされないことだ。薫子の父親だけでなく、当時捜査本部にいた警察官全員が懺悔してほしい。
「でも解決した事件で、それも十五年前の事件なのに、よく今更逮捕状が出たね」
「パパが直接掛け合ったみたい。証拠も手に入ったわけだし……。でも今回のことって、私がパパに話さなければ明るみに出なかった。本当に不用意なことをしたと思ってる。私がぺらぺらしゃべったばっかりに、滝沢君と真木さんが別れる羽目になった。余計なことをして、ごめんなさい」
 薫子はまた頭を下げた。だが今度は数秒経っても顔を上げなかった。修也は薫子に顔を上げるよう促した。
 薫子は神妙な面持ちで足元に視線を落としていた。
「畑野さんが謝ることじゃない。化けの皮は剥がれるものだ。真実は必ず明るみに出る。悪は裁かれなければならない」
 薫子は修也の言葉を噛みしめるようにゆっくりと首を振った。
「そう言ってもらえて嬉しい」
 微笑を帯びた薫子にさっきまでの俯きがちな様子は見る影もなく、こちらをまっすぐ見つめてきた。
 冷たい風が足元を吹き抜けて、薫子のスカートが靡いた。彼女は咄嗟にスカートを手で押さえたが、ちらりと修也を窺った目には悔しそうな色が宿っていた。
「滝沢君、私と付き合ってください」
 唐突な告白に、修也は眉をしかめた。僅かに首を捻っただけで、ずきっと脇腹が痛んだ。
「滝沢君と真木さんを引き裂いてしまったのは偶然だけど、偶然って運命。あの赤い糸は、もしかしたら私と繋がってたのかも。私でよければ、真木さんに代わって滝沢君を幸せにするよ」
 人目を避けたのは、まさかこのためだったのだろうか。しかし以前、薫子は教室で修也に公開告白している。あの時薫子は修也と泉の交際の噂を確かめるためだと言った。だから薫子が修也に好意を持っているとは考えなかった。
 薫子ほどの度胸があれば今回も教室で告白したのではないか。あるいは、やはり史緒里の逮捕に至るまでの経緯に関わってしまった自分の話を他人に聞かれたくなかったのかもしれない。
 人目を避けた理由がどちらなのかはわからなかった。
 もしかしたらあの時も、「ワンチャンオーケーされたら儲けもん」くらいに思っていたかもしれない。
 修也は心の中でかぶりを振った。
 考えさせられている時点で薫子の手の中にいるような気がした。綾香が主動で会話をしている時とは違って、薫子に主導権を握られるとどこか心地悪さを感じる。
「ごめんなさい」修也はきっぱりと断った。「今は恋愛のことは考えられない」
 それが本音だった。今泉に告白されていたとしても、綾香に告白されていたとしても、同じことを言っただろう。
 整理する時間が欲しい。とにかく父に会うまでは、前には進めない。
 ただ薫子には二人と違う点がある。修也は薫子のことを恋愛対象として見たことがないし、これからもそうは見ないだろうということだ。
 父と会い、心の整理がついたとしても、薫子と恋人になることはない。
「そうだと思った」
 明るい声が不自然だった。しかし涙を流すわけでもなく、毅然としている。沈黙が苦しくなったのは修也のほうだった。
「赤い糸のことは泉には話した?」
 薫子は首肯した。
「滝沢君に伝えたことは概ね話したよ。警察が事件を掘り返すきっかけになったこと、栞の中から糸の一部を採取したことも」
「泉は怒らなかった?」
「うん。仕方ないよって。どうせ赤い糸は栞ごと警察に押収されたからって」
 怒らなかったのか……。
 今も修也と赤い糸で結ばれていると思っていたら、赤い糸を押収される時に抵抗したのではないか。これだけは奪わないでと。最後の希望なのだと。
 修也は呆れて、思わず自嘲した。
 泉は諦めたのだ。修也との恋愛だけではない。人生を諦めようとしたではないか。自ら命を断とうとし、人生に意地を見せるように睡眠薬を服用したではないか。
 そんな泉に修也への未練など残っているはずもなかった。

15-2へと続く……

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