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連載長編小説『赤い糸』15-2

「これから病院に行くんだけど、修也都合どう?」
 掃除当番で教室の床を掃いていると麻衣に声を掛けられた。すぐ後ろに薫子がいるから、二人は一緒に見舞いに行くのだろう。二人はいつも一緒に泉の見舞いに行っていた。
 思えば不思議な組み合わせだ。泉が自殺を図って以来、二人が一緒にいるところをよく見るようになった。麻衣は薫子を目の敵にしていたはずだが、泉を心配する薫子を少し見直したのかもしれない。
 昨日の薫子の告白を麻衣に伝えたらどうなるだろうか……。
「今日が退院なんだ。これから向かいに行くの」
 麻衣の背後から躍り出て薫子は言った。振られたばかりなのに、こちらをまっすぐ見つめて来る。麻衣に昨日のことを悟らせないためなのかもしれないが、それにしても心が折れない。
 こっちが動揺してしまいそうだ、と修也は渋面を浮かべた。
「ごめん。俺は行けない」
 そう言うと、修也は手を動かした。二人から距離を取るように、教室の隅に行って塵を掃き集める。
 修也がアルバイトで忙しいのは二人とも承知している。今日勤務の予定はなかったが、二人は特に詮索して来なかった。
 毎日掃除しているのに、どうしてこうも塵や埃がなくならないんだろう。
 一ヶ所に集められた、塵取りに収まる前の灰色の山を見下ろして修也は思った。ふと、掃き出しても掃き出しても募る、泉への想いに似ていると修也は思った。
 終わった恋に執着しても、出て来るのは思い出に引っ掛かっていた埃ばかりだ。それが募れば募るほど虚しさを覚える。
 埃を捨てきれないのは、俺も浅野と同じというわけか。
 自嘲すると、修也は塵取りにごみを回収した。ごみ箱に落ちていく塵芥を眺めながら、想いもこうして簡単に捨てられたらいいのに、と思った。
 それができればどれほど楽か。
 気が付くと、修也は河川敷に赴いていた。恋人になる前から度々泉と訪れた河川敷だ。
 シフトも入っておらず、暇を持て余していた。帰宅しても母がいるだけだ。居心地の悪い空間でじっとしているのも嫌だったし、今日は泉とデートでもできればと思い予定を空けておいたのだ。
 こんなことなら、勤務にしておけばよかった。
 西陽に煌めく川面の漣が、その波紋で修也の記憶を刺激する。
 ここへはアルバイトまで時間がある時、よく泉と立ち寄った。南中していた太陽が徐々に傾き、今のように川面を照らす時間であることが殆どだった。
 夕方の心地よい風を浴びながら、泉はススキと同じように髪を靡かせ、足元の蒲公英と一緒に微笑んでいた。その姿は、川辺に数本植樹された二月の梅のように美しかった。
 泉とはよく貧乏話で会話を弾ませたが、河川敷に来ると不思議とその話は出なかった。のんびりと景色を遊覧しながら、ぽつぽつと「綺麗」と呟くばかりだった。梅も桜も咲いていないのに。
 そんな思い出に耽っていると郷愁に近い寂寥の念に虚しさが込み上げてきたが、不思議とそれが不快ではなかった。むしろ西陽を受けて黄昏れ、日向ぼっこでもしているような温かさを感じた。
 修也は赤と白の咲き乱れる梅の木を眺めながら、泉がかつて話したことを思い出していた。
「雪に耐えて梅花麗し。あの言葉を信じてる」
 泉と親しくなったのは梅の花が落ちた後のことだ。だから一緒にここで梅を見たことはない。泉は花も蕾もない梅の木を見ながらそう言った。
 修也は、その言葉が憎い。
 いったいいつまで雪に耐えなければならないのか。
 泉はさらにこう続けた。
「今度はここの梅を一緒に見よう」
 修也は大きく頷いて、「約束だ」と言った。泉は「約束ね」と嬉しそうに笑った。その約束は果たせそうにない。
 雪に耐える必要などあるのだろうか。花咲くのは自然の摂理だ。雪に耐えなくても、麗しい花を咲かせている梅もあろう。修也や泉のように、忍耐強く雪を耐えても、蕾すらつかない梅もあるだろう。
 運が悪かった。それだけなのではないか。
 花が咲かないだけでなく、花咲く梅を一緒に見ることもできないなんて、いったい前世で何をしたというのだろう。
「枝は触れてたんだけどなあ」
 悲しみに押し出されるように、修也の口から声が漏れた。
 ちょうどその時、橋を渡る一行の姿が目の端に映った。人影は四つだった。前を歩く二人の女子高生が麻衣と薫子であることはすぐにわかった。その後ろにはジーンズにトレーナーを合わせた泉がいて、そのすぐ後ろには見知らぬ男が続いていた。
「かなり痩せたな……」
 不健康な泉の白い肌は陽光を受けて際立った。頬もずいぶんこけていて、最後に顔を見た時とは比べものにならないほどだった。髪も少し伸び、見慣れない長さに彼女が本当に泉なのかすら疑った。
 修也は梅の花に視線を戻し、あの男は例のアルバイト先の先輩だろう、と思った。麻衣や薫子とは違って私服だったからだ。前髪で目元が隠れていて顔は窺えないが、泉との身長差を見る限り、修也より五センチは背が高い。一八〇センチ近いだろう。
 男を見て、麻衣が修也に危機感を覚えさせようとした理由がわかった。高身長な上にかっこいいのだろう。
 いけ好かないと思いつつ、橋を渡る一向にちらっと目を向けた。
 その時、泉と目が合った。彼女はのんびりとした足取りで橋を進みながら、河川敷に下りる石階段に座る修也を見ていたのだ。
 気づかれたことに焦ったが、少し嬉しくもあった。
 いつから気づいていたんだろう、などと考えたが、自分が制服のままでいることを思い出し、目に留まるわなと失笑した。
 修也は一度視線を下げた後、泉の様子を窺った。一向は橋を渡り切って信号待ちをしていた。泉は東詰に立って振り返り、見目麗しく咲く梅に見入っていた。
 同じように梅の花に目をやった時、修也の目に熱いものが込み上げてきた。
 洟を啜りながら泉のほうを見ると、泉は信号が変わったにも関わらずその場に留まり、こっちを見つめていた。
 傍の男が泉の肩に触れた。
 確かに視線がぶつかったが、修也はそっぽを向いて立ち上がった。泉に背を向けると、川沿いを大股で歩き出した。
 修也は逃げるように立ち去ったのだった。

15-3へと続く……

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