見出し画像

連載長編小説『赤い糸』14-2

 少し感傷に浸る自分がいた。
 泉を赦すことはないだろう。それははっきりと自覚しているのに、昼休みの会話のせいで視界が曇ってしまう。
 二人だからこそ――。
 そうした気持ちは修也にもあった。泉が赤い糸を嬉しそうに持って来た時は幸せの絶頂にいた。
 それもこれも、赤い糸のせいですべてが狂ってしまった。憎悪とやるせなさの連打に、修也は何度も打ちのめされそうになった。
 それを掻き消してくれるのはやはり仕事だった。最近は特に、何かあれば忙殺してしまえばいいと思えるようになった。
 泉のいない帰り道、出勤の道のりでは心に靄が掛かったみたいに気分が落ち込んだが、コンビニに入って挨拶を口にすると徐々にそうした気持ちも解消された。
 今日は久しぶりの綾香との勤務だった。
 彼女と会うのはカフェで昼食を共にして以来だ。過去を知った衝撃のせいで気が動転していて、あの日のことはよく覚えていない。覚えていることと言えば綾香が代金を支払ったことくらいだ。
 綾香はここ数日忙しく、シフトにもあまり入っていなかった。
 午後五時台の慌ただしい時間を過ぎると、時空が歪んだみたいに店内は静かになる。午後七時を過ぎたところで納品が到着したので、修也は綾香とそれらを陳列した。
「あれからお母さんとはどうなの?」
 納品が到着するまでは、近頃の綾香の華やかなプライベートの話を聞いていた。テーマパークやカフェ巡り、映画鑑賞など、綾香は本当に楽しそうに話してくれた。整った顔立ちのせいで自然と話に引き込まれたのだが、特に目が星のように明るく輝いており、束の間修也の背負う苦しみを忘れさせてくれた。
 綾香の言葉で、修也は最後に会った日の記憶を取り戻した。
 あの日綾香に、「初めて母を憎みました」と告げたのだ。父が殺人犯として服役していたことは言わなかったが、死んだと聞かされていた父が実は生きていたことを告白した。
「あんまり話はしてないですね……」
 昨日も母と二人きりの時間に耐えられず、白崎家に避難したのだ。母との関係は、生を受けて以来最悪である。進路のことを口喧しく言われないのは助かるが。
 親子はこうして仲違いして、生涯憎み合うようになるのかもしれない。
「まだ怒ってる?」
「どうですかね」
 修也は苦笑して、屈伸運動を繰り返した。
 自分でも少し意地になっているのがわかる。嘘を吐かれていたことはやはり赦し難い。それでも母への感謝のほうが遥かに大きいはずだった。
 怒りはないのかもしれない。だが信頼が欠落してしまった。猜疑の芽生えた心では、母と向き合いたくないと思っているのかもしれない。
 そんなことを考えたが、自分でも自分がわからなかった。
 綾香はそれ以上話を続けなかった。最後に会った時の事情が深刻なために、話題に上げないほうが陰鬱な空気になると考えたのかもしれない。しかし干渉し過ぎると修也を傷つけてしまう。
 綾香はそういった気遣いを心得ている。修也が「どうですかね」と答えた後に見せたしかめっ面も、愛嬌を湛えた絶妙な表情だった。修也は思わず微笑んでいた。
 午後十時で業務を引き継ぐと、綾香と一緒に店を出た。途中まで帰路が同じなのだ。薄暗く閑散とした路地だが、綾香は名物客の話などで和ませてくれた。夜道に即した抑えた声だが、声には陽気さがある。
 まもなく綾香と別れるといったところで、彼女は言った。
「この前の埋め合わせ、いつにする?」
 埋め合わせとは何のことだろう、と修也は首を傾げた。ああ、と思案顔を浮かべてみたが、数秒経っても何の話かわからなかった。
「この前出掛けられなかったでしょ? その埋め合わせ」
 母を憎く思ったことを話した後、綾香にデートに誘われたのを思い出した。修也は二つ返事で了承するところだったが、綾香の指定した日はあいにく引っ越しのアルバイトの予定が入っていた。
 あの時は綾香とのデートが白紙になりひどく落ち込んだが、もし綾香とのデートを優先していたら麻衣がストーカー被害に遭っていることを知らないままだった。
 巡り合わせとは奇妙なものだ。
 修也はしみじみ感じ入っていた。
 修也は六本先の電灯の明かりが切れかかっているのを見つめていた。その横で、綾香は空いている日を口頭で並べていった。
「いつなら都合いい?」
 うーん、と何も考えずに修也は口にした。カフェで誘いがあった時はあれほど喜ばしく思ったのに、今は違った。
「申し訳ないんですけど、埋め合わせはすぐにはできません」
 綾香は目をぱちくりさせて修也を見上げた。別れたんだよね、と綾香の目は問うていたが、彼女はそれを口にしなかった。
 修也は続けた。
「最近、自分の中で色んなことがあり過ぎたんです。綾香さんとカフェで話をした後も。だから、少し整理する時間が欲しいんです」
 綾香と恋人になれたらどれほど嬉しいだろう。きっと毎日和やかで、朗らかな調子で鼻歌でも歌っているのではないだろうか。
 だが修也から非情な別れを告げられた後、泉が麻衣に語った二人のデートが修也の心を迷わせた。それは二人の価値観そのものだったからだ。
 苦しみを共有できる唯一の存在――。
 幾度となくそれを痛感している。龍一の言うように、修也次第なのかもしれない。だがやはり、泉は血に塗れて見える。殺人犯の娘という認識と、父を奪われた憎しみが拭い切れない。
 心を整理すれば、あるいは泉を赦せるのかもしれない。殺人犯の娘とは生きている世界が違うと思ったけれど、二つの世界は手で触れられるのかもしれない。修也が一方的に鎖国しているだけかもしれない。
 港を開くには、父に会わなければ。
 なぜ史緒里の身代わりとなって逮捕されたのか。その理由が修也の納得できるものならば、泉を、史緒里を赦せるかもしれない。
 結論が出るまでは、安易に綾香と交際したくはない。
 最悪なのは、自分が柿本弘之になってしまうことだった。綾香と恋人関係になった直後、泉を赦してそちらに気持ちが靡いてしまうことを恐れた。
 綾香には自分や泉のような苦しみを味わってほしくないのだ。
「わかった」
 拒絶したわけではないことが伝わったのか、綾香は不満を見せることもなく言った。修也が両親のことで苦悩していることを考慮したのかもしれない。
「整理がついたら、ちゃんと知らせてよ」
「わかりました」
「じゃあ、よろしく」
 お茶目に敬礼する綾香に修也は思わず微笑んだ。別れた綾香の背中が見えなくなるまで修也はその場を動かなかった。
 帰路を進むと、路地はさらに暗くなり、人通りも少なくなった。週に三、四日通る道だが、気味の悪さには慣れることがない。
 しばらく歩いていると、人影が見えた。遠目から見ると恋人が腕を組もうとしているようにも思えたが、女性の横顔が外灯に照らされた時、それが麻衣だとわかった。
 その瞬間、男の影は浅野ではないかと直感した。
 修也が駆け出すのと、影が麻衣の腕を掴んで路地を右折するのがほぼ同時だった。麻衣は僅かに抵抗したが、影に腕を掴まれ強引に連れ去られたのだ。
 右折すると、影が麻衣を石塀に押し付けているところだった。
「いい加減目を覚ましてくれ」と男の声が呻くように言っている。「元に戻ろう。俺は麻衣とじゃないと幸せになれないんだ」
「私はあんたとは幸せになれないから」
 麻衣が腕を振り払おうとした瞬間、影は拳を振り上げた。咄嗟に駆け寄った修也だが、間に合わないのは確実だった。
「浅野!」と怒気のこもった声を出した。
 男の動きが止まり、こちらを振り返った。ぎょっとした顔にどこか悲哀が漂っているように見えた。
 動きが止まったことで、修也は浅野の手首を掴み、その場に押し倒すことができた。麻衣の悲鳴が森閑とした路地に木霊した。
「誰だ?」名前を呼ばれたことに怯えているのか、浅野は声を震わせて言った。
「おまえには関係ない」修也は船に釣り上げられた魚のように暴れ回る浅野を懸命に押さえつけた。「ストーカーのことは知ってる。警察に行こうか」
 それを聞き浅野はますます抵抗した。
「ストーカーだと? 俺は麻衣の恋人だぞ」
「今は違うだろ。別れた後も執拗につけ回しているおまえをストーカーって言うんだ。麻衣はおまえを恋人とは思ってない。それに、麻衣に何度も手を上げただろう。ストーカー被害だけじゃない。おまえの罪は重いぞ」
「正義面するな!」
 息を切らしながら浅野は言った。なおももがき続けている。
 修也は浅野の肩を押さえつけ、足を絡めて身動きを止めようとしたが、暴れ続ける足をうまく絡ませることはできなかった。
 それでも細身の浅野を押さえつけるのはそれほど苦労しなかった。修也には南を驚かせた腕力がある。麻衣を苦しめる浅野を野放しにはできないという思いも強かった。
「正義面? そんなつもりはない。麻衣は被害者。おまえが加害者。あるのはその事実だけだ。ストーカーも今のこの状況も、全部おまえに非があるんだ。違うか」
 浅野は厳めしく瞳孔を光らせると修也の胸倉を掴んだ。
「全部俺が悪い? おまえがどこの誰で麻衣に何を求めてるのか知らないが、俺達のことを見てきたような言い方はやめろ。麻衣に振られたことを俺は納得してないんだ。別れを切り出された理由も釈然としない。なのにおまえは俺だけを悪者にするのか?」
「今はそんな話をしてるんじゃない。麻衣はストーカーされて参ってるんだ。その上暴力を受けて大きな痣を作ってる」
「それもこれも麻衣がちゃんと説明しないからだろ。俺がストーカーだと? 軽々しくそんなこと言うな。おまえのしてることは侮辱だ。これは俺と麻衣の問題なんだ」
「非力な女性に手を上げた時点で男と女の問題じゃない。対等に話がしたいなら暴力に頼るな。暴力に頼る男は女性を服従させようとするだけだ。一度でも暴力を振るったおまえにどうして誠意を見出せる?」
「ボディーガードは認めてやる。でもおまえは麻衣の肩を持つばかり。暴力が問題だと言うなら謝るよ。その代わり、麻衣ときちんと話をさせろ。俺が言いたいのは麻衣がきちんと話をしないから、おまえ達の言うストーカーに俺はなってしまったってことだ。それでも俺だけが悪いって言うのか。俺だけの問題か。まるでおまえは聖人だな。何も知らないくせに人をストーカー呼ばわりしやがって。おまえの人生には一点の罪もないのか? 正義だけを貫ける人間などいるのか」
「話をすり替えるな」
 だが浅野の言葉に、修也は泉のことを考えてしまった。
 俺は聖人じゃない。罪なき泉を自殺未遂まで追い詰めてしまった。彼女は修也に責任はないというが、その一端を担ったことは確かなのだ。
 泉が命を落としていたら、俺は殺人犯も同然だった。泉は死ななかったが、俺は殺人未遂事件を起こしてしまった。
 それは浅野がしていることと近いのではないか。果たして自分に、浅野を裁く権利はあるのだろうか。
 ふと浅野を押さえつける手から力が抜けた。それを見逃さなかった浅野は修也を突き飛ばし、続けて鳩尾に蹴りを入れた。
 まともに蹴りを食らった修也は息ができなくなり、腹を抱えたまましばらくその場に蹲った。
 浅野は何やら悪態を吐きながら逃げ出した。
「大丈夫?」麻衣が修也の前でしゃがみ込み、顔を覗いた。「助けてくれてありがとう。それにごめん。私のせいで」
 修也はゆっくりと息を吸い込んで吐き、体を起こした。
「大丈夫だよ。見事に鳩尾を蹴られたけど」苦笑すると、脇腹が痛んだ。「麻衣を助けるのは当然だろう? ストーカーされてるのは知ってたし、何とか力になりたいと思ってた。私のせいなんて言わないでほしい。私のためにって思ってもらえたら、俺も嬉しい」
 被害者が麻衣でなくとも、ストーカー被害を目撃したら助けに走っただろう。母の苦労を見て来たせいか、女性を侮る男を赦せないところが修也にはあった。
「今日は殴られてない?」
 麻衣は小さく頷いたが、二の腕に手を当てていた。浅野に掴まれたところが痛むのかもしれない。
「路地に連れ込まれる時、強く握られた?」
「でも大したことない。このくらい平気」
 何度も暴力を振るわれて、感覚が麻痺しているのだ。突然腕を強く掴まれたら、それも暴力と感じるのが普通だろう。
「警察に行こう」
 修也も麻衣を庇って傷を受けている。修也が証言すれば浅野は逮捕されるだろう。
 だが麻衣はかぶりを振った。
「どうして?」修也は驚いて聞いた。「龍一にも伝えたほうがいいし、警察にも届けるべきだ」
 浅野は修也より小柄だったが、夜の闇のせいか対峙している時は底知れぬ恐怖心が湧いて来た。こんなに怖い思いをしているのに誰にも相談しない理由がわからない。
「いいの。警察に被害届は出さないし龍一にも伝えない」
「理由は?」
 麻衣は少し間を空けてから言った。
「一応元彼だし、犯罪者にはなってほしくない」
 それでも警察に届けるべきだと修也は思った。
「このままだと麻衣が苦しむ。苦しみ続けることになる」
 修也は真剣に訴え掛けたが、麻衣は含みのある笑みを浮かべ、明るい口調になった。
「じゃあ手が空いてる時、私をストーカーから守ってくれる? 修也と泉で」
「俺と泉?」
 何を言い出すのか。泉が近く退院できることは薫子から聞いている。しかし病み上がりの泉をストーカーの警護に当てるなどできるはずもない。
 やはり麻衣はストーカーに慣れてしまっている。あるいは現実を見られた修也に明るく振舞い、今日の光景を取り繕おうとしているのか。
 外灯の乏しい暗い路地では、麻衣の表情から動揺を窺うこともできなかった。
「私ね、ストーカーされるようになって恋愛観が変わったんだ」
 麻衣は一段と声音を落として言った。深刻な声に自分が聞いてもいいのだろうかと修也は考えたが、麻衣の話を中断するわけにもいかなかった。
 麻衣はストーカーのことを修也にしか相談できないのだ。
「彼が未だに私を追いかけて来るのは、私にも責任があるかもしれない」
「別れた理由をちゃんと説明してないから?」
 麻衣はかぶりを振った。
「それもあるかもしれない。でも私にはこれ以上何もできない。だって冷めたとしか言えないんだもん。他に理由なんてない」
「じゃあ浅野のストーキングのわけって?」
 麻衣は自分を励ますように首を縦に振った。
「私、彼と付き合う前に二回告白断ってるの。生徒会の役員をするような活動的なタイプで、クラスでも明るくて人気があった。線は細いけど、塩顔なのが女子受けもした。私はそんなにタイプじゃなかったけど、二回目の告白を断った時に周りからもったいないって羨ましがられて。それに、何回も告白してくるってガチだよって言われてたから、もしもう一回告白されたら前向きに考えてみようかなって」
「それで三度目があったのか」
「うん。だからその時はその場でオーケーした。元々嫌いではなかったし、女子人気が高いから私も彼を好きになれるだろうって思った。でも彼と一緒にいて楽しいと思ったことがなかった。周囲からは持て囃されたし、愛されてるとは思ったけど、何か物足りなかった。物足りないっていうか、私に熱が入らなかった……。それで半年くらいでお別れしたの」
「理由は冷めたから?」
「うん。元々熱くもなってないけど、このままずるずる付き合っててもいいことないなって感じてたし、だったら恋人でいる意味ないなって」
「ストーカー被害はいつから?」
「中学の卒業式が終わった直後。中学の間は学校で顔を合わせてたし、私からは関わらなかったけど、向こうからは声掛けて来て。でも学校で会えなくなると、彼は私の行動範囲によく出没するようになった。私の家も知られてるし、その頃から気味悪さはあった。初めて殴られたのは、高校一年の秋口かな。何度か首を絞められて死ぬって思ったこともある。入学前からストーカーされてる自覚はあったし、だから追われる恋愛はもう懲り懲りって感じ。ははっ……」
 麻衣が顔に痣を作って登校した朝、麻衣に想いを寄せる満田が近寄ったことがある。その時満田は麻衣を心配して声を掛けたのだが、麻衣は「近寄らないで!」と激しく怒鳴りつけた。
 あれは追われる恋愛へのトラウマから来た態度だったのだ。やはり麻衣は深刻な傷を負っている。満田には気の毒だが、麻衣が激昂するのも無理はなかった。
「龍一は最適だったわけか」
「最適って、そんなふうに思ったことはないけど……。でも確かに、龍一は私の望んだ人だったのかも。龍一は私を追いかけてはこないから」
 麻衣が龍一の二股のことを知るわけもないが、修也は麻衣の言い回しに一瞬ぎくりとした。
「龍一は確かに私のことを好いてくれてる。でも何にも代え難い野球の夢を追いかけてる。今は甲子園を目指して毎日練習に励んで、先のことを言えばプロになることを目標に練習に打ち込んでる。もし私達が別れることがあっても、浅野君のようにはならないでしょ。それにストーカーの件、夢を追いかける龍一の邪魔をしたくないから伝えたくないの。私のせいで気を散らせたくない。足を引っ張りたくないの」
 足を引っ張られるなどと龍一は思わないだろうが、麻衣が懸念していることはよくわかった。
 修也は麻衣の想いを汲むことにした。
 素晴らしい恋人じゃないか。
 龍一にそう言ってやりたかった。二股なんて今すぐやめて、麻衣とだけ向き合えばいいじゃないか、と。
 このままでは、龍一まで麻衣を傷つけてしまう。

15へと続く……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?