「学歴」の「肩書き」とお別れする時

前回の記事で博士進学とはおさらばしたので、これからは「東大生」の肩書きはもう使うことができなくなる。一応三月いっぱいまではまだ「東大生」ではあるが、4月から名乗れる肩書きは現状ない。自分の名前が一番最初にやってくる。肩書きが名乗れなくなるのは高校卒業後の浪人生以来だ。学部+大学院での合計7年間肩書きを背負って生きてきた。「学歴」の肩書きについて、その重みについて再考してみたい。

自分が卒業した高校は都立の石神井高校という学校である。この学校は偏差値で言えば50ちょっと。地域では知られており、何故か昔から運動神経が良い生徒が集まる傾向にあって「スポーツの石神井」なんて言われ方をすることがある。ただ特別進学実績が高いわけでもないので(昔は違ったらしいが)その知名度は全国区ではない。大学に入ってから知っている人に出会うことはほとんどなかった。あくまでも練馬区近隣住民に限った知名度でしかなかったということである。

そんな自分が1年間血の滲むような努力の末に慶應義塾大学に入学することになる。その時から「慶大生」の肩書きを名乗れるようになった。慶大生は世間一般に言えば「優秀」とか「お金持ち」とか「いけてる」とかいったディスコース性をはらんでいて、それは両親から親族は鼻高々で、中学高校からの友達の尊敬の眼差しも入学したての頃はとても気持ちが良かった。ただしそんな時期も早々と過ぎていって、学歴の肩書きが、「慶大生」の肩書きを背負う事が必ずしも良い意味合いを付与されるわけではないことに気がついていく。「慶大生」であることによって期待されることがあっても、その期待に応えられなければ慶大生「なのに」とか言われてしまう。自分はあまりそういう経験はなかったが、学歴が良いことによる逆差別というか、むしろ妬まれたりするような経験はゼロではない。肩書きによって態度が変わって手のひらを返す人にも何人も出会ったから、学歴を自分から述べることはやめて聞かれたら答えるようになっていった。

大学を卒業して大学院に入ると同時に「東大生」になった。この国において「東大生」のもつ意味合いはおそらく他のどの大学よりも強い。この国でもっとも賢く、日本の中枢を担うような人たちがたくさん排出されてその期待に応えるだけの能力をもっている。そしてすこし変わっていて「変人」が多い、みたいなイメージであろうか。実際に通っている自分からすればテレビ番組などを見ていると婉曲されて伝えられている、だいぶ都合よく戯画されていると感じることが多い。一点変わっている人が多いというのはあながち間違いではないとも思うが、それに関しては慶應でもそうだったし、もしかしたら自分が接する人は自分と比べたらだいたいみんな「変わって」いるように感じるだけじゃないか?きっと誰だってそう。最近はそう思う。

自分が東大の大学院に入ろうと思った理由は、まず自分がやりたいと思う研究ができそうな、著書を読んで共感できる教授がいたことが大きい。そして現実的な面でまず通えること(SFCは遠すぎた)そして学費が安い国立(SFCは高すぎた)の大学を絞っていくと東大が一番条件に当てはまっていたと思う。また自分の中で慶應を出るからには同程度もしくはそれ以上の大学にいきたいという「下心」があったことはいうまでもない。今思えばその尺度が結局偏差値に依拠していたと思っているが、やはり「東大生」の肩書きに憧れたのは嘘ではないだろう。

晴れて「東大生」になった自分であったが、「慶大生」の時の反省から自分からは名乗らないようにした。「東大生」エピソードとしては、一時期学校寮で働いていたことがあり、勤務初日に寮に暮らしている寮生と対面した時に、他の寮監督が気を利かせてくれたのかわからないが、すでに自分のことを「東大生」ということを知っていたようである。多くの寮生は自分のことを名前でなく「東大の人」として接していたように感じた。距離を取られているようでむしろ肩書きがマイナスに感じた瞬間である。この肩書きを無くして一人の人間として、自分の「名前」で接してもらうようになるまでにはそれほど時間がかからなかったが、この「東大生」の肩書きに自分の存在に打ち勝ったのは、自分がどういう人間なのかを知ってもらうことによって、「東大生」が自分を構成するただの一部分として包含されて認識されたのだと思う。自分が勤務を終える頃には「そういえば東大生だったね。」って言ってくれる子が何人かいた。それほどに自分は受け入れられたのだとも思えた。

4月からは何者でもない「私」になる。

「元慶大生」、「元東大生」の肩書きは「現役」の肩書きには敵わない。「元」の肩書きを前面に出すような人間には絶対になりたくない。この肩書きがあったことによってよくないことがあったことも事実ではあるけど、「慶大生」と「東大生」の肩書きが自分を引き上げてくれたようにも今となっては思う。それに見合うだけの人間になろうと努力をしていたとも思う。当然だがその学歴を持っていれば必ずしも素晴らしい人間であることの証明にはならないが、少なからずそういう効果があるのであれば、少なくとも努力ができる人間である確率は上がるだろう。

この肩書きを捨ててからその先の人生が始まって「何者」かになっていくのだと思う。博士に進学しないことを選んだ自分は同時にこの肩書きを捨てられる、もういらないと思った。ようやくスタート地点に立った。そして「何者」かになる時がきた。

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