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答えのないことのつらさ

Aもあれば、Bもあり、またCもある。

ものごとがうまくいかなかったとき。われわれはその原因を何かのせいにしたり、何かに失望したり、忘れようとしたりする。もしもそのうまくいかなかった出来事を消化しきれなかった場合やうまくいかったそれに、多くの時間を費やしていた場合、それは失望ではなく絶望となる。そして気がつけば、「何のためにーー」というようなゴールのない無限ループの問いに苦しむことになる。僕の場合もうまくいかったとき、最初は「これは何でうまくいかなかったんだ」から始まり、最終的には「俺は何のためにーー」という迷宮にたどり着く。決して、その問い自体が悪いわけではないのだが、苦しい。

その苦しみの正体は、「答えのないことのつらさ」だ。

あれやこれやと考えてもその答えには辿り着けない。答えが見つからないがあまり、その問いを放棄し、人生をも放棄したくなる。しかし、その問いは必ずまた向こうからやってくる。考えに、考えを巡らせていると、直感的に「私はこんなことをしたい」とか「こんな生き方がしたい」というような求めていた答えではないが、そういったものがわいてくる。でも、求めた答えでないがゆえに、見過ごしてしまう。

しかし、このわいてくるものこそがわりと大事なポイントで、「何のためにーー」とかそう言った問いには答えという答えが存在しない。だからこそ、内なる声に耳を傾けることで、その問いの向こうにいける気がする。

われわれは幼少期から答えが用意されている問いに対して答えを出すということを繰り返し、その解答スピードや難易度の高い問いに答えられるかで優秀か否かを判断されてきた。またスポーツでもやはりその場の最適解を出せる選手が優秀であるとされる。それはそうだ。当たり前の話である。だが、それだけだろうか。ーーは。

ここ最近はずっと、これからのキャリア形成について考えている。

日本代表になるために今はサッカーをする。そこにブレはないが、そこまでの過程でどのようなキャリア選択をしていくかの答えがでない。また何年後になるかはわからないが何年後かにはサッカーを辞めることになる、それも事実である。この問いに答えがあれば、答えを出すことは容易なものになるが、そこに人生の面白みは全くない。

これでもかと答えのない問いに悩み、葛藤する。その問いに答えはないが、その自問する姿勢は正しいと思う。その人生を自分の足で歩こうとする姿勢にこそ答えのような何かがあるような気がする。

そうだよな。Aもあれば、Bもあっていい。またCもあっていいよな。


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