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39回織田作之助青春賞 

まえがき
忙殺されていたので読書のほうへ時間を割いていたから執筆にあまり多くの時間をかけられなかった。
これはちょうど去年のクリスマスに起きた椿事を書いた私小説である。
小説を書くということは一つの信念を築きあげることである。紆余曲折しながら作品を仕上げる達成感は芸術者の立場でしか実感できない。ここ三年ほど執筆作品を公募へ投稿していたが、文学に浸っている居心地の悪さが日に日に増してきたので、これを機に文学そのものから離れようと思う所存である。
この賞に落選したということは何を意味するか。恋愛において成就しなかった想いは文学においても潰えて世間一般から落伍者の烙印を押されたわけである。落伍者の道の果ては落伍者自身にしか決定できない。


 落伍者の道の果て

 啓太は今、マッチングアプリでデートの約束していたシングルマザーを待っていた。
「こんにちは。啓太さんですか、始めまして奈美です。ほら、挨拶しなさい碧斗」
 母親の指示に従って、隣にいた小さな男の子は会釈するかと思いきや、唐突に走り出した。それに彼女は脇目も振らずに駆け出した。啓太はその現象に狼狽しながら小走りで追いかけるしかなかった。そして男の子は唐突に立ち止まって建物を差しながら呟いた。
「これ食べたい」
 興味が尽きないのが子供の一長一短さである。
 また子供が大人の恋愛の主軸になるのは当たり前である。周囲の家族連れを見れば、大人たちの意志が空間を支配するということはあまりなく、概ねの家族は子供の動向によって形成されているといっても過言ではない。この出来事に啓太はしばらく柔軟に謙虚に対応していた。しかしそれが彼らしい言動かといえば、そんなことはなかった。なぜなら野心的で好奇心旺盛な彼は、青年特有の生きづらさを抱えながら子供状態を抜け出すことに四苦八苦していたため、子供と意思疎通を図ることにより、新しい自分が発見できるのではないかという、新たな課題を掲げながらデートに臨もうとしていたのであるが、それもいずれ瓦解するし、何より彼は突拍子もない子供の言動に肝を冷やしていた。
「啓太さんは、ここでいいかな。私は問題ないけど」
「うん。いいよ、入ろう」
 眼前にあるのはお洒落な中華料理店だった。碧斗くんはなかなかセンスがあるのかもしれないと感心しながらも、入店する。
 彼らは席に着くや否や好きなものを頼んだ。一汁一菜は堪えられないので、食には贅沢しようという価値観はここでは共通観念のようである。
それから何気ない会話を交わしながら食を共にして、店を出た後に、公園を散策しながら疑似家族体験を経た。傍目から見れば、彼らは家族そのものであった。しかし、子供を最初から連れ添ったせいで、男女の関係は築けたかというと、難しいところである。共通の話題は子供であり、若い男女がお互いを知ろうとする推量というものは一切なかった。啓太はこのことに些か不安を抱いていたが、これから関係が深まっていくにつれて互いに知り合うことができるだろう、という時間に任せることにして別れを告げた。

 彼らの関係はそれからも続いた。月一回のデートは恋愛経験が少ない彼には足りなかった。もっと三人の時間を共にしたかったのであった。彼の日常には、彼女の観念が浸透していたので何をするにも、奈美の像が取り憑いていったのであったのだが、彼女の中身をあまり知らないがゆえに愚かな審美眼はその像を一方的に美化していった。例えば神曲に出てくるベアトリーチェやルカによる福音書に出てくる聖母マリアのように揺るぎない理念へと彼は独りで書斎での思索を重ねた。彼が過ごしたこの時間と空間は、とても純粋な感性と知性を以て理念へと近づいったのであった。

「お久しぶり。今日は迎えに来てくれてありがとうね」
「いやいや大丈夫だよ。バーベキューするなら車くらい出すよ」
 虚勢を張ったのも啓太が乗っていた車は、親から借りてきたものであった。そして、わざわざベビーシートと子供用のDVDや玩具まで借りてきたのである。
 彼はなかなかの気合で挑んでいた。恋を成就させるのと新たな自分を発見したいという熱情は水をかけたくらいでは消えないくらい彼の魂とともにゆっくりと火花を散らしていたのだった。
 三人の空間は家族同然だった。啓太が見つめた先には容姿端麗で立派な母親である奈美の姿と活発で純真無垢な子供である碧斗の姿があった。
しかし、この二人から啓太への一瞥以外なにもなかった。彼女らは彼女らの日常生活を過ごしていたのだ。そこに啓太が入り込む隙はなかったのだが、啓太は人に期待することをとうの昔に置き忘れていたので、このことは別に気にもしなかった。彼女らも啓太同様に裏切られたのだろうと知悉していたし、この空間が妙に居心地がよかったのは、彼が小学校の頃に両親が離婚してから女手一つで育ててくれた母親の偉大な存在を省みるいいきっかけにもなっていた。
バーベキューの現地へ着くや否や啓太は係員の指示を聞きながら炭を並べて火を点けて、段取りを進める一方で、奈美と碧斗は、食事の準備を始めていた。
それから一時間も掛からずに料理はテーブルに並んで団欒を囲んだ。
「今日もありがとうね、車まで出してもらって」
「大丈夫だよ、気にしないで食べようよ」
 奈美は後ろめたい気持ちがあるようで俯きながらつぶやいたが、啓太はそれを制止するように何気ない返答で食事へ意識を向けた。
『いただきます!』
 みんなで笑顔で食卓を囲んで楽しんだ。
そこでは、四季折々の食材と動植物が共存していたので彼女らは戦々恐々としながら食事していたが、とりわけ無頓着な啓太は、虫たちと遊ぶかのようにして肩に乗っけていたりして過ごしていた。
「この世界の7割は虫だから気にしてもしようがないじゃないか、自然の一部となって死んでいくのが俺の本望だ」
 共存は彼の信念である。蜂や蚊に刺されても、ハエやゴキブリという俗にいう害虫が家に入ってきても度外視という虚心坦懐が習慣であった。それらが功を奏したのか碧斗が好奇心で近づいてきた。普段は虫を触らないであろう都内という環境にいるのに、好奇心を全面的に押し出してきた雄姿に彼は些かの感動を抱いた一方で奈美はというと、萎縮してかなりの距離をとっていた。
「どうしたの、こわいか」
「昔から虫が苦手で見るのもこわいから私から離れて。動物は大好きだけれどね」
「そうなんだ、そんなの同じ生き物だから同じだと思うけどな」
 啓太は気にすることもなく自然の空間に入ったがやはりそこには邪魔するものは何もなかった。一人の青年は自然界が包摂していたので不思議と孤独を感じない。動物でさえ自然的循環のために存在しているのに、人間たちは一体なんの役に立っているのだろうか。
奈美は物憂げに思索に耽っている青年を横目に我が子を見守っていた。
「ママー」
「どうしたの。あっ、すごいねー。どこで見つけたの」
「草むらにあった」
 この少年は虫を捕まえてきたようだった。啓太の教育は成就したのかもしれない。しかし肝心の彼は肩に虫を乗せて物思いに耽っている。まるで魂は精神界の旅行へ旅立ってしまっているようであった。
 
黄昏は彼らに身支度を促す。どんな楽しいことでも終わりは必ずくる。人の出会いも然り。彼らは早速、食べ終えた食器や鉄板を洗って帰路へついた。子供は遊び疲れて眠ってしまったので車内では大人の時間と空間が純粋に流れていたのだった。
「今日、楽しかったね。奈美ちゃんは、久々にバーベキューやったんだっけ」
「そうだねぇ。子供が生まれてから初めてだよ。また来ようね!約束だよ」
「なんだかんだ楽しかったね。クリスマスが近づいてるから今度は奈美ちゃんの家でパーティーしよう、俺がケーキを用意するからね」
「うん。そうだね」
 ルームミラーをのぞいてみると、彼女はあまり乗り気ではない顔つきだった。何かあるのだろうか。その刹那的に表出した感情だけだと全貌は掴めなかった。
「そういえば、この子の父親と今も連絡とったりしてるの」
「妊娠した途端に連絡取れなくなっちゃったの。だから一人で産んでここまで育てた」
「それは大変だったね。しかし色んな奴がいるね。なぜなら男は背負うものが矜持くらいしかないからね。苦労するのは女のほうだよ。昔にいた武士たちは確固たる矜持を持っていたけど、現代の男にこんな思想求めたって失笑されるだけだよ。でも俺は、武士道ってものを人道として歩んでいるからね。不変的思想だと思ってる」
 熱中して自らの思想を披瀝するように喋ってる啓太を一瞥して彼女はこの話のカーテンを開けるように道案内を始めた。啓太は今回の材料費くらいは出すのかと彼女の仕草を見ていたが、一向にそんな素振りはなく、目的地へ着いたら一言礼を言って子供を抱きかかえて暗い路地裏へ消えていった。これには彼も狼狽して、一人残された車内で、失敗した、振られた、と後悔の念を抱きながら無理やり自己完結的に慰めるしか手はなかった。

 翌日、啓太は無為無策に仕事をしていると、ポケットで震えるスマホが気になったので取り出してみると奈美からメールが届いていた。
「昨日はありがとうね。材料費渡すの忘れちゃったね、ごめん。今度は、有名なオムライス屋さんへ食べに行きたいな」
彼は間髪入れずに日程調整を兼ねた返事をした。そしてさっきまで無為無策に行っていた仕事に邂逅の日までの拍車をかけるように打ち込んで、胸を焦がしていたのだった。
一方奈美と言えば、日常の生活に追われていたが、三人で出かける日は、非日常的な空間だった。むろんこの恋愛を媒介するのは子供である。彼とは子供がいなかったら出会えなかったであろう。いざ会うと子供が煩わしく感じているんじゃないか、というシングルマザーとしての複雑な感情があった。彼はいつも物憂げな顔をしていて、何を考えているのかわからないが、言葉では優しく投げかけてくれるため、本音を掴めずストレスを感じていた。もっと二人の時間が必要なんだけど、子供が第一優先のためそんな割くことはできないと逡巡してた。そして、もっと子供と私とうまく接してくれる人がいるのではないかという気の迷いが日に日に増していった。
 
デート当日の集合場所は横浜駅だった。往来の中で啓太はデカルトの方法序説を読みながら彼女たちを待っていたが、一時間経っても来る様子はなく、書物の中ではデカルトの遍歴を終えて方法の規則化を提起していた。なにやら懐では落ち着きがない携帯を見てみると奈美からメールがきていた「電車に乗り遅れちゃってあと30分は掛かる」とのことで、気長に待つことにした。彼女の時間に対するいい加減さには多少辟易していたことがあったがそれも気を許した好意なのだろうと安堵していた。
それから、無事待ち合わせることができて、赤レンガ倉庫を歩いていたところ、クリスマスのイベントを開催しているのに気づいたので、そちらへ歩みを進めた。
啓太はクリスマスパーティーを計画していた。前回の別れ際に約束した内容をちゃんと形にしたかったのである。彼女の家で聖夜を共にすれば、恋は確かめられるのではないか、と即断していた。
「奈美ちゃんはこういうところはよく来るの」
「子供が産まれる前はよく行ったよ。そういえば、このオムライス食べたかったんだよね、どうしようかな」
 彼女はどこにでもあるオムライス屋を指差しながら、黄色い絨毯が赤い身体を包み込む情景に現を抜かしていた。これが今回の目的だということを悟ったが、こんなものに啓太はとりわけ感動しなかったため、逡巡していた彼女らを置いて淡泊に列に並び始めた。
「えっ買ってくれるの」
「ここまで来て食べないのか。けっこう混んでるから席探してきて」
 奈美は、息子の手を取って黄色い物体に取り憑かれたように空いてる席を探し始めた。 
啓太は、オムライスを載せたトレーを持って周囲を見渡してる二人の元へ近寄った。
「どうしたの。席が見つからないなら待つしかないよね。それとも立ち食いするか」
「せっかくのご馳走なんだからゆっくり食べたいじゃん」
「じゃあ気長に待つしかないよな。どこも座ってるし、これじゃあオムライスは、冷めちまうよ」
「そんな言うなら自分も探しなさいよ」
 しばらくうろついていると、女性二人組が気を利かせて席を譲ってくれたので、軽く会釈をする。三人で座って一つの皿で分け合って食べ始める。感想はあまりにも普通だった。しかし彼女を見てみると、とても美味しそうに頬張っていて、啓太にはその微笑みがご馳走だ、と直感した。
「クリスマスの予定とかどうしてるの」
「ま、まぁ空いてるよ」
「せっかくだからクリスマスパーティーしようか」
「どこでするのよそんなの」
 奈美のほうは乗り気ではなかった。何か事情があるのだろうか。浮かない表情で返答する。
「パーティー会場は、奈美ちゃんの家でさ。俺がケーキ買っていくよ」
「わかった」
 一つ返事で結ばれた約束を前に啓太は虚心坦懐な本性を顕わにして甚だしい喜びを瞳で表現していた。彼の恋愛遍歴は散々なものであったので、ここで省みていこう。

彼を一言で表現すると、少年時代の葛藤を引きずったまま青年期に突入した暗鬱な青年だった。
彼は日和見な青春を歩む同年代をひどく毛嫌いしていた。周囲にうまく馴染めずに、みんながやってることはつまらないという常識を備えていて、それを矯正する大人たちは挫けていったのだ。畢竟、武士は食わねど高楊枝のようなに本当の愉しさというものを意固地や虚栄心が邪魔をして確と手に取れないでいた。だから、彼が専ら育むのは自己愛だけでそこに異性が媒介する間隙もない直接的礎を準拠として思想を築いていった。
ある時、自己分析を経た故に上述のような汚点を発見したので、どうにかして自分を変えてやろうという気骨を持つようにした。
その端緒とは巷に溢れていたカップルが突然にも羨ましくなったのである。それも衝動的な出来事だったので、突発的現象かと思いきや、その理念は段々膨れ上がっていくだけで、羨望は羨望を呼び、彼の理性では抑えることはとても困難だった。大衆批判をしてきた彼には今更迎合するなんてことは許されがたいことだったが、相思相愛という相関性がとにかく体験したかったのは認めざるを得なかった。
それはもう意地であった。
その時、みんながやっていていたことが真理だったことを奇しくも認めていた。
彼はまず異性と出会う機会を作るため、あらゆる手段をとった結果、純真な青年の心は蹂躙された。その残忍な現実を目の当たりにしてから暫く治まっていた少年時期の粗野な一面がぶり返してきたので、彼があの卑屈な魂を培った蟄居へ戻ろうとしていた時に、マッチングアプリでやり取りしていた奈美と出会ったのであった。啓太は、奈美が自分の人生を変えてくれるかもしれないという過剰な期待を抱いていた。
上述の通り彼の恋愛経験はほぼ皆無に等しかった。一方彼女と言えば、育児が一段落したので、恋愛へ意識を向けることができたのだった。喜々としている啓太を前に複数の男性とやり取りしていたのだった。それも息子のために新しい夫となる男性を探していたのだ。

啓太は、クリスマスまでの間にやることは決まっていた。それはプレゼントの段取りである。彼女との断片的な記憶を頼りに巷のカップル間の定番ではあるがネックレスを買った。そして子供にも何やらねば雰囲気が悪くなると思い、おもちゃを手に入れて当日を待った。
啓太の本来の目的は達成されるのだろうか。色恋に現を抜かして純情な感情を馳せていた。奈美の存在は啓太の感性では捉えられないほどの美貌を呈していたから直視できなかった。だからそこで好きという感情が生まれていたのか精査せねばならない。三人で過ごす時間が増えれば増えるほど啓太自身はどちらを愛せばいいのかわからなくなっていた。それは血縁関係がない子供という謎の立場があるのは前提なのだが、彼はそれよりも重大な事実に気づいた「俺は今まで人を好きになったことがない」ということを。
 子供の存在が彼の意識において希薄化していった。それは啓太自身が子供状態を脱却できずにいたからだったなのだが、その子供の根底には、社会の不純に堕落した一人の男の姿を見たのだった。
奈美は、複雑な感情の中に置かれていた。継続的な関係だけを根拠に下手な約束を結んでしまったという罪悪感と息子を巻き込んではならないという責任感に苛まれた。メールで一言だけ適当な理由をつけて断ればいいものの、そこまで気が回らないほどに自身の問題に対峙していた。
日常のストレスのはけ口がないため、発散させる意図もあるが、自傷行為の契機は興味本位であった。苦痛は快楽の一種であることを著しい自責によって発見した。それは自らの肉体を裂傷することによって生きがいが溢れ出てくるマゾヒズムの典型的な特徴であり、それ以外の時間は無気力とも言えるほど無為だった。行為に耽っている際は、快楽に浸ることができるため、絶頂というエクスタシー状態に到達できるため時を忘れて貪っていたのだ。しかし、それは自傷なため、その事後には、絶え間ない苦痛を伴うことになり、生々しい傷跡は、心身ともに蝕むが、捌け口がない自身には、最良な選択だと思えたのだった。むろんありのままの姿は誰にも見せられない弱い姿であった。
柔弱な本性というのは、時には汚点となる。自然界でそれを見せたら最期、鑑賞対象としての弱さというものは、逆説的な強かさを誇るが、それは強かで盤石な構造内を緻密に弱点を克服しなければ成立しない。
人間の精神力とはとても神秘的なものである。不安が刹那的な勇気で雲散霧消できることもあり、神の実在を垣間見ることもできる。しかしそれは潜在的な能力であるため、神秘体験なるものは意外と誰しも経験しているものである。それらを点検するには哲学が役立つが、信仰心を持った敬虔な人や一般通念を妄信している人たちが活動する場でいざ哲学を持ち込まれると、かなり嫌悪されるのが実情である。それは哲学が総合的判断を分析していく憎まれ役を買って出ているから当然なことである。

彼女の複雑な心情は、一朝一夕で解決できるほどの問題ではなかった。そして彼女自身もそのことに気づいていたし、諸問題と真剣に向き合うより、できるだけ目を背けて先延ばしにしたほうがただただ慰めてたり緊張を緩和してくれる猫のような存在が純粋に欲しかったのである。その点では、啓太よりも恋愛経験豊富な男性と寛容が溢れる時間を割けたほうが妥当であった。しかし時というのは待つことを知らず逡巡している彼女の元に肌を刺すような師走の風が吹いてきた。

啓太は軽やかな足取りで奈美の家へ向かっていた。彼が持っている手提げ袋の中には、プレゼントが入っている。
期待を胸に膨らまして懐も温かく、宙に浮く思いで歩を進めていたのだ。この日を一日千秋と待ちわびてきたし、彼は奈美と碧斗の存在を思い出して空想で世界を駆け巡っていたのだ。この現実世界だと、真面目に生きていくより空想を見ていたほうがよっぽど救いがあったのだった。
あの笑顔こそ、愛の権化だった。啓太にはそれを確認しただけで十分だった。人への愛というものを理解したいため、彼女たちとの関係性を深めていったほうが無難だと思う。
やはり子供は純粋そのものである。いったい誰が汚したのだ。それは大人にほかならない。子供であるときは純粋を持っているのに、自身がその大切さを気づいていないせいで大人になると忘れ去ってしまう。時間と経験とともに純粋性は忘却や消滅してしまうが、記憶として残っているのも不思議な現象である。
大人にも子供の時の記憶があるのに、子供の純粋さがわからない。社会が変貌することで純粋を瓦解させてしまうのが何よりも気に入らなかった。不純に堕落していく大人への成長過程が何よりも身の毛もよだつ感情を抱かせる。誰もが純粋でいたいのに、それを阻害するかのように悪を持ち込もうとする当惑は人間の本性そのものであった。大人になって今さら純粋ってものは何かを考察すると、雲散霧消してしまうのが常であり、そういう思案こそ不純であり悪の表出であるのではないかという帰結を辿って、省察は堂々巡りに陥るのであった。
大人は悪そのものなのだ、彼は心の中でつぶやいた。そして言葉こそ、不純な観念なのだと気づいて、言葉を媒介させない原理を精神世界で探し出すのであり、それは長い旅路への一歩なのである。

奈美の家の前に到着して、インターホンを押す。少し緊張感を抱きながら待っていると、寝ぼけ眼を擦りながら奈美は出てきたので、啓太は心配そうに挨拶した。
「ちょっと早かったかな。また出直したほうがいいかな」
「そうだね。いきなりで申し訳ないんだけど、帰ってくれないかな」
「そうだね、具合でも悪いなら前日に連絡くれればいいのに」
「いや、気乗りしなくて」
「そりゃ君の勝手だな。俺はお邪魔させてもらうよ。ケーキだって買ってきてしまったからね。君はチキンでも買ってきたのかい。飯を食いながら君の言い分とやらを聞こうじゃないか」
「何も買ってきてないわよ」
 奈美は怒りを募らして段々と語気を強めていった。が、啓太は素知らぬ振りをして、ケーキが入った袋を片手に靴を脱ぎだした。もうここで行かないと後がないと思ったのである。
「勝手なことしないでよ。礼儀さえもわからないの?あなたには失望したわ」
「そんな期待いらないから早くバーベキュー代払えよ。パーティーが嫌なら最初から言えばいいじゃないか、こんな俺に無駄足させてバカにしてんのか。いいからお邪魔させてもらうよ。俺たちカップルじゃないか」
「私はあなたを彼氏と思ったことはないわよ。いいから早く出て行って、これから次の男とのデートがあるからあなたとクリスマスパーティーはできない。これが答えよ」
「それは聞き捨てならないな。俺に隠れて男探ししてたのか女狐め。俺だって他の女とお前を同時並行で付き合ってやってるんだよ。お前なんざ抱いて捨てる価値しかない娼婦だ。女衒の試金石を以て抱いてやるから早く脱げ」
 啓太は彼女の発言を前に狼狽を必死に隠すため虚構で彼女を虐げようと思った。しかし彼にとってはそれが関の山であった。罵詈讒謗を吐き捨てている最中に三人で過ごした追憶が唐突に表れたのだった。
「ふーん。じゃあ、私はこれから用事があるからあなたはその女のところに行けばいいじゃない。さようなら」
 彼女は啓太に反論の余地も与えずに脇目も振らず玄関のドアをピシャリと閉めたので、彼はこれには行き場のない怒りをどこにぶつけてやろうかと周囲を見渡すと、朝に出されたゴミ袋へ碧斗と遊ぶために買ってきたオモチャを全力で投げつけて「ふざけんじゃねえぞ、人を嘗めやがって」と吐き捨てると、その剣幕と怒号に驚いた近隣住民たちが出てきて彼のことをジロジロと見ていた。「なに見てんだお前ら。全員殺すぞ」と投げつけたオモチャの中に紛れてあった小細工がしてあるプラスチックのナイフを握りしめて彼らのほうへ駆け出してそのまま全速力で最寄り駅の方向へ颯爽と戻った。

 啓太の恋愛はまたしても成就しなかった。懐には奈美にプレゼントする予定だったネックレスが入っていることに気づいた。これを売って飲み代に換えれること思いついたので、さっそく質屋へ行き、五千円を手にして夜の街へ赴いた。腹いせに人妻でも抱いてやろうかと聖夜の期待が詰め込んであった懐から数万出して女を買った。相手は自分の素性を知らないため、俺が童貞だってことも気づかれない。
会話は蔑ろにして肌は交じり合う。肉欲に支配された男はどんな恥辱でさえ受け入れてしまう。明日になれば全て解決だ、ろくでもない独り言を吐いた。これには売女も首を傾げるしかなく、啓太はヤケ酒を呷り泥酔のまま行燈で陰になった女の山腹へ顔を埋めて
「なんだこの野郎、俺の努力が水泡に帰した。俺は元から努力なんて怠っていたのかもしれない」
彼は心中で反省しながらも呟いた。悲哀を抱きながら堅持してきた思想の空虚さを必死に忘れようとするためにまた肉欲へ現を抜かしたのであった。
無造作に棚に置かれた袋には彼女たちと食べる予定だったケーキが形が崩れて横たわっていた。

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