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思い出の場所2~八王子市下柚木のアパート③~

前回までの記事では、下柚木のアパートに入居から大学の入学式、同伴してくれた父のことを書いてきました。
今回は、入居して学生生活がスタートしてからの記憶に残っていることを、時系列的に書いてみたいと思います。


水のこと

入居して2日目くらいに初めて洗濯機を使いました。そのときに少し気になったのが「水」でした。
二層式の洗濯機に水をためていた最中に「なんか水が少し茶色っぽい感じがするなぁ」と・・・。
でも、やや薄暗いときだったので気のせいかなとも思いました。

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その後、2回目の洗濯をしたときに「やっぱり水の色が少し茶色だ!水道管がおかしくなってるのかな?」と思い、すぐに1階に住む先輩にそのことを聞いてみました。

すると先輩は「このアパートはね。地下水をくみ上げてるから砂が混じっているんだよ。あんまり飲まない方がいいよ」と教えてくれました。

私は「えええっっ!地下水!!!東京なのに!!八王子、おそるべし!!」と驚きつつも・・・確かにこの農村のような環境からすると地下水を利用しているのも・・・理解しました(苦笑)。

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幸いにも、入居して以来、アパートの「水道水」は、そのまま直接コップで飲むことはしていませんでした。


体内に入ったのは、インスタントみそ汁を作るために使用した程度。
しかも、沸騰させていたので良しとしました(笑)。
ちなみに、食事はコンビニの弁当か大学の食堂で済ませてました。

先輩から「地下水」の話を聞かされた後、台所の水道の蛇口に水を濾過する器具(数百円程度のもの)を買って取り付けてみました。
すると、一週間もすると真っ白だった濾過する部分は見事な黄土色になりました・・・。

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飲用や調理用としては、ペットボトルに入ったミネラルウォーターの「六甲の水」をたくさん購入し、常に冷蔵庫などにストックして使用する生活となりました。

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シャワー(風呂はお湯をためるのが面倒でしたのでシャワーのみ)と洗濯はどうしようもないので、そのままアパートの地下水を使用していました。

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秋田の実家でも経験したことはなかった「地下水生活」。まさか東京で経験するとは思いませんでした。


電話のこと

大学に入学した昭和61年(1986年)は、現在のようにスマホ・携帯電話は普及しておらず・・・というか世の中に存在していないと言ってもよい環境でした(業務用としては巨大な携帯電話はあったようです)。

各家庭には固定電話があり、屋外にはテレホンカードが使える、黄緑色の公衆電話(電話ボックス)が今よりもたくさん点在している環境でした。

当時、固定電話を新しく設置するには「電話加入権」を取得する必要があり、この加入権を取得するには5~8万円も必要となるものでした。

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私が入居した「協力アパート」には電話が設置されていませんでした。ですので、電話をするときは近くの公衆電話ボックスに行かなければなりませんでした。
家族からの緊急時の電話は大家さんのご自宅に、そして大家さんが徒歩でアパートの部屋に伝えに来て、公衆電話から折り返しかけさせるという「システム」でした。

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ただ、日本はバブルの頂点に向かっていた好景気だったこともあり、学生の一人暮らしでも自分の専用の固定電話をもつのが当たり前のような状況にはなっていました。

かねてから先輩たちが、大家さんに対して電話の設置のお願いをしていたこともあり、私が入居して約2か月後の6月頃に、大家さんが電話を設置してくれました。

とは言っても、各部屋それぞれに専用外線が用意されているのではなく、アパートとしての外線は1つだけ。それを各部屋に設置した「子機」で使用するというものでした。誰かが外線を使用している間は、電話機の外線ランプが赤く点灯する仕組みとなっていました。

これにより、「自分の部屋で電話をすることができる」という環境に「激変」しました。とりあえずは・・・ですが。

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外線が1つしかないので、誰かが「長電話」になっていると大変です。
使いたい人が「早く終わってくれ!!俺が使いたいんだ!」とアピールするため、外線ランプ付近に並んでいる約10個の空きボタンを「乱れ押し」します。
すると電話機は、オレンジ色のランプが激しく不規則に光りまくる状態になります。

長電話中に、その状態になると、やはりプレッシャーが大きくなるので、たいていの場合はすぐに外線を使用できるよう状態になります(長電話が終わります)。

しかし、長電話がどうしても終わらず、待っている時間的余裕がない場合は、結局、アパートの外の公衆電話から電話をかけてました。

なお、夜中にふと目が覚め、電話機のランプが激しく不規則に光りまくっている様子を目にすると、とても不気味に感じました(笑)。


牛の鳴き声

大学に入学した昭和61年の夏は、当時としては「暑い夏」でした(近年の夏の異常な暑さに比べれば可愛いものですが)。

大学の前期が終わりとなる7月に入ると、私の部屋の温度は午前9時頃には30度に達する日も出てきました。

ある日たまたま明け方に目が覚めてしまいました。

布団の中でボーっとしていると、なんだか妙な音が聞こえてきました。

その音は大きくありません。どこか遠くから聞こえてくるもので、「かすか」ではないもののちゃんと耳に入ってきます。

どこかで聞いたことがあるような音・・・何か動物の鳴き声・・・。

それは牛の鳴き声でした。

テレビでは見聞きしたことはあったものの、本物の牛の鳴き声を生で聞いたのは人生初でした。しかも、地元の秋田ではなく東京で・・・。

後日、アパートの先輩に話したら、「アパートからちょっと離れた所に牛を飼っている所があるんだよ」とあっさり教えてくれました。


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原チャリ

大学一年生の夏休みに実家に帰省したときに原付免許と普通自動車運転免許を取りました(自動車学校に通うために、先に原付免許を取得)。

アパートから大学へ通うには、バスは1時間に2本程度しかないし、自転車だと距離があり過ぎるという環境でしたので、先輩のほとんどは原チャリを持っていました(なかにはマイカーを持っている先輩もいました)。

このエリアでは原チャリが無ければ通学するにも、生活するにも本当に不便でした。

このような環境については、引っ越しと入学式に同伴した父自身も「現場」を見ていたので、すぐに理解してくれて、東京に戻ったら原チャリを買っていいことになりました(父さん、母さん、本当に感謝!)。

で、後期の授業が始まる前の9月上旬にアパートに戻ってきて、すぐにアパート近くのバイク店で原チャリを購入しました。

初めて買った・・・というより人生で最初で最後の購入となった原チャリは、ヤマハのEXCEL(エクセル)。

バイク店で見て、すぐに気に入ったのが黒が主体のボディカラーのものでした。ちょうどこの年(1986年)に新発売された原チャリでした。

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このエクセルを購入してからは、学生生活が一気に花開いた感じになりました。

バス時間を気にせずに大学に行くこと、大学から帰ってくることができるようになったし、日常生活の必要な物の購入にも簡単に行くことができるようになりました。

また、軟式野球サークルの練習で中河原の河川敷グラウンドに行くのにも。

大学の同級生は八王子の野猿街道沿いのアパートに住んでいる人が多かったので、彼らのアパートに遊びに行くことも時間を気にせずにできるようになりました。

このエクセルは大学3年生になるタイミングで引っ越した府中市のアパートにも持っていきましたが、大学への通学は京王線になったので、近くの友人のアパートに遊びに行くときくらいしか乗らなくなってしまいました。
そして、卒業に伴って引っ越すときには、バイク好きの同級生のY本君にタダでプレゼントしました。
Y本君は就職で地元の高知に戻ったので、エクセルは高知にいってしまいました。

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