世の中だから (続)
前回は言葉の凶器的な面について話した。
それは、傷つける対象との距離がSNSなどの匿名などで保てるようになった
そのようなことが要因の一つなのかもしれないと持論を展開した。
そんなに長くならないが、私が言いたいことを簡潔にまとめたい。
人間の言語能力は、同類を殺めるために進化してきたのではない。
ここで私は今までの疑問に一つの答えがでた。
小学校の時から「なんで世界には無数の言語があるのだろう。」
一つの世界共通語があれば便利で、みんな意思疎通ができて良いんじゃないか。
理由は違えど、同じように考えた学者もいたようで
エスペラント
という世界共通語を1887年に世に出していた。
だがしかし、実現はあまりしていない
これで良かったのだと思う。
全世界の人間が、同じ言葉を使えるということは全世界を
言葉の対象にできることが出来てしまう。
無数の言語が現れたのは、文化的な背景と歴史の連続で成り立っている。
誹謗中傷する人は、母国語だからうまく操れる気になって流暢に呟く。
ではその人が英語だったり、スペイン語、中国語、韓国語で貶してたりするか。
もしその言語を習得していても、母国語よりは断然言い難いだろう。
こんな事を考えて、言語は世界に一つだけじゃ無くて良かったなと思う。
悪口だって理解できなければ、傷つくこともない。
馬の耳に念仏ってやつだ。
だからこそ、もっと自分の生まれた国に、
自分の国の言葉に、自分の国の仲間に誇りを持ちたい。
愛国精神っぽく感じるが、グローバルな時代に自分のアイデンティティを
見失うよりは幾分かマシだろう。
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