Y.Nakamura

徳島大学 考古学 ぜひご批判ください、いいねは心の中でどうぞ

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最近の記事

「石棒」・「石剣」と「磨製石剣」

 縄文時代に特有の石器である石棒が、弥生時代の遺跡から出土することは早くから注目されていた。1943年の『大和唐古弥生式遺跡の研究』において、小林行雄氏が、石剣・石棒類の比較的扁平な小型品と、やや大型のものが、弥生前期の竪穴から出土することに注意している。  1975年に佐原真氏は、山内清男氏提唱の、著名な「弥生文化の三要素」のうち、縄文文化からの伝統として伝わらなかったものとして、「青竜刀石器・多頭石斧・独鈷石・石冠・御物石器などの呪術とかかわる特殊石器の大多数」をあげ、 

    • 鳥居龍蔵を知っていますか

      最近鳥居龍蔵を読み直している。 もちろん、ある原稿の依頼を受けたということもあるのですが、鳥居龍蔵の顕彰にかかわるようになって、単に「郷土の偉人」というのではしっくりこない。実は、現代日本考古学において、鳥居龍蔵の評価はすこぶる悪いんですよね。この評価の食い違いはどこから来ているのか。顕彰を中高生の歴史・考古・民族学・民俗学・人類学入門と位置づけてる以上、この現状に一石を投じておく必要があるのではないだろうか?  一方で、今日の日本考古学につながる「何か」があるという手応

      • 同時に卒論も見つけました! もちろん学術的なレベルは修論の方がはるかに上なんですが、「卒論」としては「修論」としての出来栄えより上だと思う。書き上げた時の達成感が忘れられない。修論は苦々しい思いがいまだに残ります。

        • 修士論文

        • 「石棒」・「石剣」と「磨製石剣」

        • 鳥居龍蔵を知っていますか

        • 同時に卒論も見つけました! もちろん学術的なレベルは修論の方がはるかに上なんですが、「卒論」としては「修論」としての出来栄えより上だと思う。書き上げた時の達成感が忘れられない。修論は苦々しい思いがいまだに残ります。

        • 修士論文

          ⑯中村 豊2014中四国地域における縄文時代精神文化について —大型石棒・刀剣形石製品を中心に−『山陰地方の縄文社会』島根県古代文化センター研究論集第13集 P23~42

          はじめに  本州島西部および四国島(以下中四国地域)は、元々縄文時代の資料自体あまり多くない。近年の資料蓄積によって、ようやく精神文化関連資料についても、ある程度の様相をうかがうことが可能となりつつある。これは、中四国地域の中では縄文時代資料の豊富である山陰地域においても認めることができる。これらを駆使した諸研究がおこなわれる背景が存在する上、すでに、2011年に中四国縄文研究会において、精神文化関連資料は中心テーマとして取り上げられたこともあって、山陰地域をフィールドとする

          ⑯中村 豊2014中四国地域における縄文時代精神文化について —大型石棒・刀剣形石製品を中心に−『山陰地方の縄文社会』島根県古代文化センター研究論集第13集 P23~42

          研究倫理

           学部生のころ。史学概論や日本史研究入門で学んだことがある。戦前、実証主義は愛国主義や軍国主義に抗することができなかった事実が厳然としてある。また戦後、歴史的多様性と歴史的選択肢を排除した政治的「教程」、すなわちマルクス主義の仮面を纏った「理論」に盲目的に従うことによって、全体主義の悲劇に間接的に加担してきた。これらの反省に立つ以上、資料を実証的な方法に則って事実を明らかにし、叙述の過程で「理論」を「参照」することは前提であって本論ではない。結局歴史研究は自分自身の思想や歴史

          研究倫理

          縄文弥生移行期の呪術具分布図

          縄文弥生移行期の呪術具分布図

          列島西部における石棒の終末−縄文晩期後半における東西交流の一断面− 2005.5『縄文時代』第16号 P95~110 BY中村 豊

          はじめに  石棒が、縄文時代を代表する呪術具のひとつであることは周知の事実である。したがって、その研究が列島東部中心に展開されてきたことは、きわめて必然的ななりゆきであると考えられる。近年、列島西部でも類例は蓄積されつつあるが、資料数では列島東部の足もとにもおよばないであろう。また、出土状況から石棒の機能を推測し、儀礼を復元することも、なお難しいといわざるをえない。こうした現状ではあるが、近畿・東部瀬戸内地域すなわち列島西部東半で、突帯文土器の後半である縄文晩期後半から、古相

          列島西部における石棒の終末−縄文晩期後半における東西交流の一断面− 2005.5『縄文時代』第16号 P95~110 BY中村 豊

          中村 豊2006「四国地域の亀ヶ岡式土器」『考古学ジャーナル』第549号 P17~20

          はじめに  1980年代頃まで、四国地域において、亀ヶ岡式土器は、縄文時代晩期土器の広域編年の基準として、大洞諸形式を視野に置く場合を除いて、ほぼ無縁であったといっても過言ではない。しかし、最近約15年間の、決して多くはない類例の蓄積によって、四国地域における亀ヶ岡式土器像は大きく転回しつつある。また、これらが四国地域の弥生時代像に与える影響も決して小さくはない。この点を踏まえつつ、論じてゆきたいと思う。 論じるにあたって  四国地域は四方を紀伊水道、瀬戸内海、豊後水道、

          中村 豊2006「四国地域の亀ヶ岡式土器」『考古学ジャーナル』第549号 P17~20

          結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣 2004.2 季刊考古学 第86号 中村 豊

          はじめに  「祭祀」を考古資料から復元することは容易ではない。本稿では、縄文から弥生という時代背景のもと「祭祀」にもちいられたとかんがえうる遺物のなかで、実態がある程度あきらかな結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣をとりあげ、西日本での展開を概観し、縄文「祭祀」から弥生「祭祀」への変化をたどるべく最善をつくしたい。 西日本東部における結晶片岩製石棒の隆盛  (略)近年縄文晩期末から弥生前期初頭の近畿地方から東部瀬戸内地域にかけて、ふたたび粗製大型の結晶片岩製石棒が隆盛したことがあ

          結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣 2004.2 季刊考古学 第86号 中村 豊

          四国地域の石棒・石刀 2003.5『立命館大学考古学論集Ⅲ』同刊行会  中村 豊

          1はじめに (略)   2郷土史家による石棒研究の再評価 (略) 3研究上の問題点  石棒・石刀を研究するに当たって、まずは四国地域をフィールドとする意義を述べておかねばなるまい。  石棒・石刀が、四国地域において著しく偏った分布をみせることは、すでに幾度か述べておいた通りである。すなわち、徳島・香川・愛媛・高知の四国4県で、縄文時代遺跡の発見例が必ずしも多いとはいえない徳島において、石棒の出土数が、7割程度を占めているのである。この偏在を、単に西日本の後晩期縄文社会の地域

          四国地域の石棒・石刀 2003.5『立命館大学考古学論集Ⅲ』同刊行会  中村 豊

          近畿・瀬戸内地域における石棒の終焉 −縄文から弥生−  中村 豊編2001『縄文・弥生移行期の石製呪術具3』文部省科学研究費報告書 P49~86

          はじめに (略)  Ⅰ 「縄文から弥生」と石棒研究 -近畿・瀬戸内地域の場合-  以上のような動向のなかで、今回私がとりあげる文物は石棒である。なぜなら、石棒は土偶とともに縄文時代を代表する呪術具のひとつであって、弥生時代になるとまもなく消滅し、時代の変化をとらえるのに適しているからである。すなわち、縄文時代特有の儀礼が、どのようにして終焉していったのかという側面を明らかにできる可能性を持っているといえよう。  最近この石棒が、縄文から弥生にかけての近畿地方から瀬戸内地方に

          近畿・瀬戸内地域における石棒の終焉 −縄文から弥生−  中村 豊編2001『縄文・弥生移行期の石製呪術具3』文部省科学研究費報告書 P49~86

          近畿・東部瀬戸内地域における結晶片岩製石棒の生産と流通 2000.3小林青樹編『縄文・弥生移行期の石製呪術具1』科研費報告書 中村 豊

          Ⅰ はじめに -日本人の起源・縄文から弥生と石棒研究- 1 日本人の起源と縄文から弥生  日本人の起源は、日本列島に展開した歴史上最大の画期である縄文時代から弥生時代への変革をぬきには語れない。従来、縄文時代から弥生時代への変革は発展的に進歩する歴史の必然的な通過点であると考えられてきた。すなわち、狩猟採集にたよった縄文時代では平等で自給自足的な生活を営んでいた。しかし弥生時代になり農耕を導入すると余剰生産物が生まれ、社会的分業や階級が形成される。そしてこれらが拡大するととも

          近畿・東部瀬戸内地域における結晶片岩製石棒の生産と流通 2000.3小林青樹編『縄文・弥生移行期の石製呪術具1』科研費報告書 中村 豊

          東四国における弥生文化の成立      2000年2月『弥生文化の成立−各地域における弥生文化成立期の具体像−』埋蔵文化財研究会   中村 豊

           Ⅰ はじめに  東四国における弥生文化の成立は、ここ10数年の間に相次いだ3遺跡の注目すべき発掘成果によって、ようやくその様相を検討しうる段階に達したといえるだろう。ひとつは徳島市名東遺跡であり、次は同市三谷遺跡、もうひとつは同市庄遺跡である。この3遺跡はわずか数100mの距離に位置しながらもそれぞれ個性的な内容をもっている。名東遺跡は典型的な突帯文土器単純の遺跡である。三谷遺跡は突帯文土器と遠賀川式土器とが共存して出土し、石鏃・打製石斧・石棒といった縄文時代特有の石器を製

          東四国における弥生文化の成立      2000年2月『弥生文化の成立−各地域における弥生文化成立期の具体像−』埋蔵文化財研究会   中村 豊

          『川と人間−吉野川流域史−』溪水社 1998  三 稲作のはじまり ―吉野川下流域を中心に― 中村 豊

           私は大手新聞記者よりもむしろ、日頃私の研究を評価(もちろん批判的評価も含みます)してくださっている方々に読んでもらえるような論考を、今後もめざしていきたいと思っています。 縄文から弥生 農耕のはじまりは、人類の歴史における最大の変革のひとつであった。そして、日本列島においては縄文時代から弥生時代への変化がこれに相当するのである。  戦後から最近まで、この画期をわれわれは次のように評価してきた。すなわち、縄文時代の社会は自給自足・狩猟採集を基本とする不安定な生産性から成り立

          『川と人間−吉野川流域史−』溪水社 1998  三 稲作のはじまり ―吉野川下流域を中心に― 中村 豊

          お久しぶりです

          皆様、お久しぶりです。今回は、これまでに中村が公表してきた論考のなかで、縄文/弥生移行期の石棒や東西交流に焦点をあてた主要なものを年代順に並べてみました。今後、オープンアクセスを進めていこうと思っていますが、必要な方にはコピーをお送りさせて頂きます。  次回以降、①から順に紹介していこうと思います。当時の見解は現在と異なるところもありますが、趣旨の骨格部分は変わらないと思いますので、基本原文を抜粋し、若干解説を加える所存です。 ①中村 豊1998「稲作のはじまり-吉野川下流

          お久しぶりです