四国地域の石棒・石刀 2003.5『立命館大学考古学論集Ⅲ』同刊行会  中村 豊

1はじめに
(略)
 
2郷土史家による石棒研究の再評価
(略)

3研究上の問題点
 石棒・石刀を研究するに当たって、まずは四国地域をフィールドとする意義を述べておかねばなるまい。
 石棒・石刀が、四国地域において著しく偏った分布をみせることは、すでに幾度か述べておいた通りである。すなわち、徳島・香川・愛媛・高知の四国4県で、縄文時代遺跡の発見例が必ずしも多いとはいえない徳島において、石棒の出土数が、7割程度を占めているのである。この偏在を、単に西日本の後晩期縄文社会の地域的細分とみるだけでは不十分である。石棒・石刀は、縄文時代後期前葉から、縄文時代晩期後半の突帯文土器、さらには初期の遠賀川式土器にいたるまで機能しており、その型式や分布状況がどのように変化し、終焉をむかえるのかを丁寧に吟味しなければなるまい。そうすることによって、後に述べるように、弥生時代における儀礼の地域色の成立過程を解明する重要な手がかりを得る可能性も出でくるのである。そういう意味でも、東に偏った分布をみせる四国地域は、西日本東・中部の縄文後期から弥生初頭の歴史的展開を、儀礼という側面から復元する好フィールドということができよう。

4資料再集成
(略)四国の石棒・石刀は31遺跡60例以上となる。このうち15遺跡41例が徳島からの出土であり、地域的な偏りは前回とほぼ同じ傾向にあるといえよう。

5資料の分析
 1)分類
(略)
 2)石棒・石刀の変遷
(略)

6四国における石棒分布の変遷
 四国における石棒が東部、とくに徳島に偏った分布をみせることはすでに幾度か述べてきた。今回4県ごとの分布の時期的変遷を表5に示したので、これを参照しつつ背景を考察する。前(全の間違い)60例中41例(68%)を徳島出土品が占める。時期不明の13例中8点が徳島出土、後期前葉は2点が徳島で1点が香川である。後期中葉は意外にも徳島以外の3県、香川・愛媛から1点づ(ず)つ、高知から2点の計4点、後期後葉は徳島のみ1点、晩期前半は徳島と高知から1点づ(ず)つ出土している。ここまでの小計は全23点で、徳島から12点(52%)、香川から2点、愛媛から4点、高知から5点である。すでにここまでで徳島出土の石棒が他地域を凌駕しているが、晩期後半から弥生初頭にいたって、この傾向はより顕著となる。この時期の石棒37点中実に29点(78%)を徳島のものが占めている。
晩期後半から弥生初頭にかけて石棒が徳島を中心に隆盛するのは、四国に石棒が導入される後期前葉以降の伝統を受け継いだ結果である。すなわち、徳島が、ある意味において「東日本縄文文化の東(「西」の間違い)端」に位置していたと考えることも可能であろう。

7大型石棒の再隆盛と弥生文化への展開
 すでに述べてきたように、石棒が従来考えられていた、小型化・精製化、石刀の分化という型式変遷に逆らうかのように、晩期後半から弥生初頭に再度大型石棒が隆盛する。私はこの意味を、晩期後半から弥生初頭に陸続と流入する大陸系文物の受容をめぐって、反動的な対応を示した結果であるとのべてきた。要するに、徳島が「東日本縄文文化の東(「西」の間違い)端」に位置し、大陸文化の受容、さらには既存の集団間のつながりを解消することに容易には踏み切れなかったからではあるまいか。既存の集団、集団間のつながりを維持する装置として、再度石棒を必用とするような局面が生じるという歴史的背景のなかで、徳島から大阪湾沿岸を中心に西は愛媛・高知・岡山から東は滋賀・京都・奈良・和歌山といった諸地域に徳島産結晶片岩製石棒という「ブランド」を用いた儀礼が展開するのである。この混迷の時代を象徴的に表しているのが、近畿地方最古の典型的な弥生環濠集落であるはずの神戸市大開遺跡において、なお石棒の儀礼がおこなわれている事実である。
 

8まとめ
(略)
 四国の石棒は、縄文時代後期前葉に東日本より超大型の石棒が導入されて以降、一度は小型化・精製化をたどり、晩期前半には石刀が発達するにいたる。この過程において、常に分布の中心は徳島にあり「東日本縄文文化の東(「西」の間違い)端」として窓口の役割を果たしてきた。そうして、縄文時代晩期後半から弥生時代初頭、次々に西方より流入する文物を容易には導入せずに、逆に大型石棒による儀礼を発達させて、既存の社会の存続をはかろうとしたのである。徳島をはじめ近畿・東部瀬戸内諸地域では、弥生時代成立当初においてもなお、遠賀川式土器や大陸系石器、環濠集落を導入しつつも、石棒儀礼による集団間のつながりは容易に捨て去られることはなかった。すなわち、徳島は縄文時代の最後まで「東日本縄文文化の東(「西」の間違い)端」としての役割を機能し続けたのである。四国地方における石棒が、終始徳島に著しく偏った分布を展開する背景は、ここに求めることができ、収斂されるといえよう。
 以上の論点は、弥生時代における祭器の地域色の起源を、大陸文化そのものや導入後の地域的展開のみに求めることに対する警鐘でもある。

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