結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣 2004.2 季刊考古学 第86号 中村 豊

はじめに
 「祭祀」を考古資料から復元することは容易ではない。本稿では、縄文から弥生という時代背景のもと「祭祀」にもちいられたとかんがえうる遺物のなかで、実態がある程度あきらかな結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣をとりあげ、西日本での展開を概観し、縄文「祭祀」から弥生「祭祀」への変化をたどるべく最善をつくしたい。

西日本東部における結晶片岩製石棒の隆盛
 (略)近年縄文晩期末から弥生前期初頭の近畿地方から東部瀬戸内地域にかけて、ふたたび粗製大型の結晶片岩製石棒が隆盛したことがあきらかになりつつある。流通範囲は、西は鳥取・岡山・愛媛・高知から東は滋賀・京都・奈良・和歌山におよんでいるが、分布の中心は、東部瀬戸内から大阪湾・紀伊水道沿岸や淀川水系にあるとみてよかろう。この結晶片岩製石棒は、三波川帯という地質、未製品や製品の出土点数・重量からみて、現時点で生産・流通拠点としてあきらかなのは徳島地域である。とくに、突帯文土器と遠賀川式土器とが共伴して出土した徳島市三谷遺跡では未製品をふくむ20点以上の石棒が出土している。
 そこで、問題点を明確にしてみよう。第一はなぜ石棒がふたたび大型化したのかという点である。第二はなぜ縄文晩期前半では多様な石材をもちいていたのに、この時期あえて結晶片岩にこだわらねばならなかったのかという点である。以上二つの疑問点を縄文晩期末から弥生前期初頭という時代背景を考慮にいれつつ検討する。
 上記の三谷遺跡は、たんなる石材採集地でもなく、また石棒製作遺跡でもない。集落内で石棒生産と「祭祀」を同時におこなっていたのである。すなわち、縄文から弥生へという時代に、徳島など片岩産出地では陸続と流入するあらたな文物にたいして反動的な対応をとろうとした。その結果が粗製大型の結晶片岩製石棒の再隆盛となってあらわれたのであろう。そうして、片岩産出地と同様な事態に直面した近畿から東部瀬戸内諸地域が、道具をふくめた「祭祀」そのものを導入した結果が結晶片岩製石棒へのこだわりという形でのこされたというのが実態ではなかろうか。
 三谷遺跡は、ほどなく石棒「祭祀」・生産をやめ埋没してしまう。ちょうどこのころ、三谷遺跡の西方800mほどにある徳島市庄遺跡では、急激に規模を拡大し、環濠・灌漑施設をそなえた、従来とはことなる形の集落を形成する。時代は弥生前期中葉であった。石棒「祭祀」の終焉は既存の集落の解体そのものでもあったのである。こうして片岩産出地で石棒が必要でなくなったとき、かつての流通網によって石棒の供給をうけていた地域でもつぎつぎに同様の事態がおきたとみてよいだろう。ただしこれは、片岩産出地に他地域がならったというのではなく、あくまでも既存の交流全体としてとらえるべき問題であることに注意をはらっておきたい。
(略)
 結晶片岩産出地の徳島では、弥生前期中葉以降石棒の生産を確認することはできない。これは、近畿・東部瀬戸内地域で石棒が盛行する時期とほぼ一致する。いまかりに生産・流通の実態がわからない「石棒」をみとめたとしても、けっして盛行していたとはいえないのであって「石棒」本来の役割ははたしていなかったというのが妥当なところではなかろうか。すなわち、弥生前期中葉以降、近畿から東部瀬戸内の諸地域では、すでに石棒へのこだわりからぬけだして、あらたな「祭祀」を模索しつつ交流を展開する時代へとかけだしつつあったものと私はみている。

 西日本西部における有柄式磨製石剣の展開
 近畿から東部瀬戸内地域にかけて、結晶片岩製石棒が盛行していたほぼおなじころ、西部瀬戸内から北部九州にかけて発達した「祭祀」具の候補として、大陸系磨製石器のひとつである有柄式磨製石剣をあげることができよう。有柄式磨製石剣は、(略)縄文晩期末には出現し、(略)南国市田村遺跡では、結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣がともに出土している。以上から、大局的には両者の盛行した時期は併行するものとみてよかろう。
 有柄式磨製石剣の分布は、おもに対馬から北部九州、松山平野にある。中部九州や、西日本各地にもみとめられるが、あくまでも点的な分布にとどまる。また、西日本のもののなかには、石材・形態ともやや変容し、あきらかに時期的にさがるものもある。
 有柄式磨製石剣は、朝鮮半島起源の遺物である。この時期、かつてない形態の集落、灌漑施設をそなえた水田や大陸系磨製石器などさまざまな文物を、有柄式磨製石剣の主たる分布域でもある北部九州から西部瀬戸内地域で受容するが、精神文化にいたるまで受容・展開したことになろう。

 結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣
 縄文晩期後半から弥生前期初頭にかけて、西日本東部では結晶片岩製石棒、西日本西部では有柄式磨製石剣という対照的な文物が「祭祀」具として分布する。この事実は、精神文化までもふくめたあらたな諸文物を積極的に導入した地域と、既存の精神文化による交流を墨守しようとした地域を大局的にわけているとみてよいだろう。もちろん両地域が竹をわったように二分されるのではなく、中部瀬戸内地域や、有柄式磨製石剣が濃密に分布する松山平野でも両者が共存していることがみてとれる。この「中間地域」での様相は、あらたな精神文化導入にたいする試行錯誤をしめしているものととらえたい。
 結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣が西日本の東西に展開したのは、斉一的といわれる突帯文土器や遠賀川式土器が普及する時代である。しかし「祭祀」という側面からは、すでに地域色があったといえるのである。これ以降、両者が「祭祀」具として重要な役割をになうことはない。両者が衰退してほどなく、地域色が顕著になるといわれる弥生前期末・中期初頭という時代をむかえるのである。
 
 青銅製「祭祀」具へのつながりはあるか
 西日本の弥生時代を代表する「祭祀」具が青銅器であることはいうまでもない。また、青銅器の分布に地域色がみとめられることも多数の研究者が注目してきた。その地域色は弥生前期末・中期初頭以降、すなわち土器に地域色があらわれた時代以降の展開であるというのが暗黙の共通理解であったと私はみている。しかし、列島に本格的に青銅器が流入するまえ、すでに西日本では「祭祀」具の地域色が大局的には存在していたのである。すなわち、青銅製「祭祀」具の地域色がうまれた背景については、縄文と弥生とのあいだにたちはだかる壁を一旦崩した上で、展開を検討しなおしてみる必要があるのではなかろうか。
 両時代をつなぐには、青銅製「祭祀」具の生産がいつ開始されたのか、また「埋納」という行為がいつ、いかにして成立・展開したのかなど、なお多様な問題がのこされている。たとえば、あくまでも仮定の話ではあるが、銅鐸の生産開始を弥生前期末としたとしても、結晶片岩製石棒の衰退する時期は弥生前期前葉であり、弥生前期中葉という時間的空白ができてしまう。また、遺物そのものとして比較した場合、有柄式磨製石剣から青銅製「武器形」祭祀具への移行は、それほど違和感なく受け止めることができる一方で、結晶片岩製石棒と銅鐸とのあいだに飛躍があることは認めざるをえない。こうしたなかで、難波洋三 が、古式の銅鐸がすでに広範囲に分布することから、銅鐸祭祀成立以前の共通の祭祀圏の存在を想定していることは興味深い。
 以上をふまえると、結晶片岩製石棒と有柄式磨製石剣との分布が、銅鐸と青銅製武器形「祭祀」具との分布に大局的には一致する事実を看過することは、私にはできないのである。
 このたびの予察によって、縄文から弥生への「祭祀」について、ようやくかすかなてごたえをうることができた。今後、より多様な文物、ひろい視野からの検証をうけつつ、研鑽をつみたい。

難波洋三「同氾銅鐸の展開」シルクロード学研究叢書,3,2000

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