列島西部における石棒の終末−縄文晩期後半における東西交流の一断面− 2005.5『縄文時代』第16号 P95~110 BY中村 豊

はじめに
 石棒が、縄文時代を代表する呪術具のひとつであることは周知の事実である。したがって、その研究が列島東部中心に展開されてきたことは、きわめて必然的ななりゆきであると考えられる。近年、列島西部でも類例は蓄積されつつあるが、資料数では列島東部の足もとにもおよばないであろう。また、出土状況から石棒の機能を推測し、儀礼を復元することも、なお難しいといわざるをえない。こうした現状ではあるが、近畿・東部瀬戸内地域すなわち列島西部東半で、突帯文土器の後半である縄文晩期後半から、古相の遠賀川式土器である弥生前期初頭にかけて、結晶片岩製の粗製大型石棒をもちいた儀礼が、特徴的に盛行することが判明しつつある。これが、同時代の列島内における石棒儀礼では屈指の隆盛を誇るという事実は、当該地域でさえ案外知られていないというのが実状ではなかろうか。本稿では、近年列島西部で関心が高まりつつある、晩期後半から弥生前期初頭に盛行した結晶片岩製石棒に焦点をあて、その展開を概観する。
(略)本誌を通して、汎列島的視野での検証を仰ぎたいと思う。

1.列島西部における石棒研究の現状
(1)問題点の整理
 石棒を含む呪術具の研究が、しばしば、遺物の個別実証的以上の意味を持ちえない傾向のあることはいなめない。しかし、こと本稿で取り上げるテーマが、縄文時代の終末という、列島に展開した歴史における、屈指の転換期に相当することは、まぎれもない事実である。すでに、大陸系の文物やその情報が続々と流入しつつあったことは多言を要しまい。それではなぜ、この時期に、列島東部を中心に多用されてきた縄文時代の典型的な呪術具のひとつである石棒が、縄文時代史において、必ずしも、精神文化の先端を担ってきたとはいえない列島西部東半において、盛行したのであろうか。その背景をさぐることは、必然的に、縄文時代の終末という問題を解明するのに寄与しうると考えられるのである。そこで、まずこの地域の石棒と、これと深い関連性を持つ刀剣形石製品の展開を略述したい。(略)
(2)列島西部における石棒・刀剣形石製品の展開
 列島西部に石棒が出現するのは、縄文中期末から後期初頭にかけてである。(略)後期中葉には刀剣形石製品が流入する(略)。晩期後半の突帯文土器成立にさいして、一度、石棒・刀剣形石製品ともにほとんどみられなくなる。
(略)ここ20年ほどの資料蓄積によって、晩期後半頃、列島西部東半において石棒が三たび、多くみられるようになることが判明してきた。これは、おもに大阪市長原遺跡と兵庫県伊丹市口酒井遺跡の資料などによって、泉拓良や大下明らによって指摘されたものである。
 その後、神戸市大開遺跡と徳島市三谷遺跡での石棒発掘はあらたな展開をもたらせた。それは、大開遺跡が遠賀川式土器を主体とする環濠集落で、弥生前期初頭まで石棒の残存することが確認されたことである。さらに、この時期の石棒の素材はほぼすべて結晶片岩でしめられるため、産出地である三谷遺跡の発掘は大きな意味をもつ。これによって、石棒研究が縄文時代の終末を考える上であらたに視点を提供しえる可能性が(略)みいだされたのである。この流れが、近年の活況につながっていると考えられよう。

 2.晩期後半における列島西部石棒盛行期の検討
 本稿の研究が、単なる個別研究ではなく、縄文時代の終末との関わりを視野にいれる以上、時期決定は非常に重要な前提作業である。(略)
 石棒を生産していた三谷遺跡に後続すると考えられる弥生前期中葉の遺跡において、石棒が製作されている事実は確認できない。また、石棒の搬出先と考えられる遺跡でも、弥生前期中葉からはじまる遺跡で出土することは、ほとんどない。以上から、現時点では、列島西部東半で最期に石棒が盛行するのは、長原式を前後とする時期に絞って大過あるまい。そうしてこれは、突帯文土器が消滅していくという土器の動向と密接に関わり合うと考えてよいだろう。(略)
 列島西部の晩期における列島東部系土器の搬入状況をみると、晩期前半の土器との共伴例は、おおむね大洞B式から大洞C1式までに限られる。それ以後、突帯文土器前半の類例はあまり多くはなく、大洞C2式の流入は非常に少ない傾向にある。かつてはこれをもって列島西部が弥生文化をむかえると考える向きもあった。しかし現状を鑑みると、突帯文土器後半期に氷Ⅰ式や大洞A式が流入し、再び東西交流が活発化した様子を想定しておくのが穏当であると思う。ここから、前節でみた、刀剣形石製品が衰退し、結晶片岩製の石棒が盛行する動向との共通性をうかがうことができる。

3.三波川帯と結晶片岩の重要性
(略)

4.晩期後半における列島東西交流の一断面
 晩期後半に盛行する結晶片岩製石棒の分布状況を確認すると、三谷遺跡をはじめ、三波川帯のいくつかの遺跡が核となって、大阪湾沿岸から淀川水系、紀伊水道沿岸などを中心に分布していることを確認できる。(略)列島西部でも列島東部を中心に展開していることや、晩期後半に列島東部系の土器が流入していることをあわせると、やはり列島東部との関連を視野におくべきであろう。その場合、まず確認をしておかねばならないのは、すぐ東に隣接する東海地域の事例である。
 東海地域における、同時代のおもな石棒出土遺跡をみると、三重県度会町森添遺跡、同勢和村池ノ谷遺跡、愛知県一宮市馬見塚遺跡、同豊川市麻生田大橋遺跡などをあげることができる。森添遺跡や池ノ谷遺跡では未製品が出土しており、馬見塚遺跡や麻生田大橋遺跡では墓域の近辺から出土している。とくに、出土状況・時期が明確な資料は、麻生田大橋遺跡豊川市調査区土器棺墓SZ22出土例である。時期は馬見塚式である。断面形態からは石剣というべきであるが、やや粗いつくりの結晶片岩製という点では列島西部東半のものと共通している。相対的に列島西部東半のものに比べて、頭部を有する型式が多いことや、断面径がいく分細いことなど、細部には相違点が認められる。しかし、大局的には結晶片岩製の粗製品が主体をなすという点において共通しており、むしろ相違点は、地域性と評価しておくのが穏当であろう。すなわち、列島西部の石棒再隆盛の背景には、東海地域との密接なかかわりを認めることができるのである。(略)そこから天竜川をさかのぼった、長野県辰野町樋口五反田遺跡配石址や、さらには山梨県北杜市金生遺跡第2号配石遺構など、中部地域の遺跡を見据えることができるのではあるまいか。
 樋口五反田遺跡や配石址や金生遺跡第2号配石遺構は、氷Ⅰ式の所産とみてよいであろう。つまり、長原遺跡、口酒井遺跡、大開遺跡や三谷遺跡などの本稿で検討した遺跡とのあいだはおおむね併行関係にあるとみられるのである。上記東海地域の諸遺跡もまた、同時期に比定できよう。
 その三谷遺跡では、自然凹地から多量の貝・獣骨類などとともに7体にもおよぶイヌの埋葬がみつかっている。そして、結晶片岩製の石棒はここから集中的に出土しているのである。三谷遺跡は一見、金生遺跡や樋口五反田遺跡の配石遺構とはなんら関わりを持たないかのようにみえる。また、金生遺跡第2号配石遺構の石棒は、結晶片岩製ではない。しかし、石棒や動物骨が出土する点に重きを置いた場合、双方の共通性を想起することができる。(略)晩期後半の列島西部東半における石棒儀礼再隆盛の背景には、中央構造線(三波川帯)を幹とし、列島西部東半、東海地域から中部地域にいたる、東西双方向の交流網を想定することが可能であるといえよう。
 

5.終末期の石棒をどうとらえるか
 石棒が縄文時代の典型的な呪術具であるということは、日本史の教科書や概説書にも掲載されるほど普及している。また、環濠集落が弥生時代の典型的な集落形態であるという認識も、揺るぎのないものである。ところが、本稿ですでにのべたように、神戸市大開遺跡は、環濠集落でありながら、12点の石棒が出土しているのである。大開遺跡は、石棒を製作する三谷遺跡と併行関係にあると考えられる。また、地理的にも石棒分布域の中に位置しており、これを混入と考えることはできない。すなわち、弥生時代の典型である環濠集落で、縄文時代の典型的な呪術具である石棒がもちいられていたと考えざるをえないのである。(略)そうすると大開遺跡も、その三谷遺跡をひとつの核とする、結晶片岩製石棒によって結びついた地域圏を構成していたことになる。大開遺跡を単独で評価する限り、それはどうみても環濠を持つ弥生集落である。しかし、大開遺跡を長原遺跡、口酒井遺跡など、晩期後半の典型と評価しえる諸集落と有機的に結びついていると考えた場合、それを、単に特殊なもの、伝統的要素としてかたづけることはできないのではあるまいか。しかし、逆に大開遺跡の持つ大陸系の要素を軽視してもまた、正しい結論に導くことはできないだろう。ここでいえることは、列島西部東半の縄文時代の終末は、従来考えられていたよりも、非常に複雑に入り組んだ文物の交流を視野において説明しなくてはならない、ということである。そのためには、はじめから縄文系、弥生系ないしは大陸系という限界を設けずに、また、列島東部や列島西部西半いずれにも偏らずに、同時代の列島を俯瞰すべきであると思う。

6.列島西部西半との関わりを探る
(略)

まとめ
 縄文晩期後半の列島西部は、同時代の列島でもっとも石棒儀礼が盛行した地域のひとつである。こうした状況は、縄文時代の終末という特殊性を示していると理解しがちである。本稿では、なかば行き詰まりにあったこの見方を、列島東部を視野に置くことによって打開しようとしたものである。その結果、中央構造線をひとつの核とした東西双方向の文化交流があったことを推察した。列島西部に氷Ⅰ式式や大洞A式が流入する背景も、決して特殊なものではなく、この交流によって説明できるのではあるまいか。これはその他の文物にも派生する問題であって、石棒のみで語り尽くせるものではない。それでも、単なる個別研究にとどまらず、縄文時代の終末という問題に、少しは寄与できたと考えている。
 神戸市大開遺跡など、初期の環濠集落においても石棒が出土していることは、残存という表現がとられることが多い。しかし、同時代の列島でもっとも盛行している地域の資料に対して、残存というのでは、事態を正しく伝えることにはならないと思う。土器の併行関係を詳細に検討する限り、これは残存というよりも、むしろ東西双方向の文化交流網の渦中に、大開遺跡なども、とどまっていたことを示していると考えられる。そして、縄文時代の典型的な文物である、石棒によって結びついた交流網のなかで機能している以上、たとえ大陸系の文物を積極的に取り入れていった集落であったとしても、それをにわかに弥生集落の典型例と断ずることには、やはり躊躇をおぼえるのである。ようするに、縄文時代の終末を、遠賀川式土器の出現と水稲耕作の開始といった少数の要素によって単純化してしまうことは、かならずしも歴史像を正確にとらえるとはいいきれないことを、いいたいのである。そういう意味で、従来の列島西部における縄文時代の終末についての研究は、やや弥生時代前史としての立場に傾いていたことはいなめないと思う。一方で、これに説得力のある検証を加えることのできる資料の蓄積をみたのが、ここ20年ほどのことであることもまた、事実である。
 本稿は、石棒を研究素材としたため、列島東部と列島西部東半との係(関)わりを重視することとなった。しかし、大開遺跡に大陸系の文物が認められることは明白であるし、より縄文的要素の強い三谷遺跡でさえ、大陸系の文物が認められる。すなわち、列島西部西半の動向に、つねに目を向けておく姿勢もまた、継続すべきであろう。なぜなら、視点が列島の東西どちらかに偏ってしまえば、その研究が水掛け論に陥ってしまうことは、まぬがれないからである。本稿で、あえて有柄式磨製石剣をあわせた分布図を作成したのもそのためである。
 列島西部東半の縄文時代の終末は、われわれが考えているよりも、よほど複雑に諸文物が入り組んで混沌としたものであったと考えられる。これを解きほぐしていくことは決して容易ではないが、縄文系文物と大陸系ないし弥生系文物とのあいだに壁をもうけないで、柔軟かつ偏りのない視点を持って列島全体を鳥瞰する姿勢を持ちつつ、縄文時代の終末という難題にとりくみたい。

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