『川と人間−吉野川流域史−』溪水社 1998  三 稲作のはじまり ―吉野川下流域を中心に― 中村 豊


 私は大手新聞記者よりもむしろ、日頃私の研究を評価(もちろん批判的評価も含みます)してくださっている方々に読んでもらえるような論考を、今後もめざしていきたいと思っています。

縄文から弥生
農耕のはじまりは、人類の歴史における最大の変革のひとつであった。そして、日本列島においては縄文時代から弥生時代への変化がこれに相当するのである。
 戦後から最近まで、この画期をわれわれは次のように評価してきた。すなわち、縄文時代の社会は自給自足・狩猟採集を基本とする不安定な生産性から成り立っており、一万年近くにわたって長らく停滞し続けた。そして、弥生時代に水稲耕作をおこなうようになってはじめてくらしむきが豊かになり、余剰生産物は社会の発展を促した。その結果、階級社会、さらには古代国家が形成されることとなった。
 ところが、諸先学による研究の蓄積と、ここ数年の相次ぐ新発見によってこうした見方は大きく揺らいでいる。青森市三内丸山遺跡や小山市寺野東遺跡などの発見は、すでに縄文時代に数千年間の定住を可能にするだけの原始的な農耕を含む安定した生産性、遠距離間の交易、特定の資源を利用したある程度の社会的分業、大規模な土木工事をおこなうだけの労働力の結集、それらを統括するリーダーの存在などを明らかにしたのである。とても自給自足・不安定・停滞的な社会であったなどという評価をくだすことはできなくなった。また、従来縄文時代と考えられていた時期の水田が次々に発掘され、時代区分をめぐっての論争がたえない。(略)

縄文時代晩期の文化
 文化・時間の違いを最も顕著に表す文物は土器である。ここでは土器からみた文化圏の変遷を手がかりに、縄文時代晩期の文化的様相をまとめてみよう。
縄文時代晩期前半、東北地方に複雑な文様、多様な器種構成を特徴とする「亀ヶ岡式土器」が成立し、その影響は広く東日本一帯に広まり、時には近畿地方にまでおよぶこともあった。とくに、関東・中部・北陸といった地域では積極的にその要素を取り入れていったのである。また、これらの地域では土偶・土版・石棒・石剣・石刀などの儀礼に使われたと思われる「第二の道具」をさかんに用いた。一方西日本では文様をあまり施さない深鉢・浅鉢を基本とする単純な器種構成の土器を使用し、「第二の道具」をあまり用いなかった。このように、晩期前半は東日本と西日本の文化的様相が大きく異なるという特徴を持っていたが、後期末以来の10前後からなる地域色は基本的に変わることはなかった。
 ところが晩期後半、こうした状況に変化がみられる。関東・中部などが地域色を失い、東北南部も含めて器面を削ることによって生じた隆起部分を文様とする「浮線文土器」を用いるようになる。また、西日本でも口縁部付近に突帯を貼り付けた「突帯文土器」が普遍化し、斉一性を高めていく。晩期後半は後期以来の多様な地域色が失われ、それぞれ広大な文化圏を有する東北北部の「亀ヶ岡式土器」、東北南部から関東・中部にかけての「浮線文土器」、西日本の「突帯文土器」があたかも鼎立するかのように分布する。そして、この時期になると西日本には確実に稲作が伝えられているのである。その後、この「突帯文土器」文化圏とほぼ重なるように弥生文化の諸要素をともなって「遠賀川式土器」が波及する。
 縄文時代晩期後半に形成された三つの文化圏は、弥生時代から古代にかけて、多少の変動はあるものの基本的には受け継がれてゆく。すなわち、古代国家形成へとむかう歴史的展開の舞台をある程度方向付けるような人的交流は、すでに縄文時代晩期後半にはおおむね成立していたとみられるのである。

吉野川下流域の縄文時代後晩期
遺跡の動向
 吉野川下流域では縄文時代後期の初め頃(約4000年前)から沖積平野部においても生活を始めたらしい。徳島市西部の吉野川支流鮎喰川の西岸に位置する矢野遺跡ではこの時期継続的に営まれた集落の跡がみつかっている。そこからは土製仮面や石棒が出土しており、これらを用いる東日本を源流とする儀礼がこの地域にまで伝わっていたことがうかがえる。現時点で矢野遺跡はそのもっとも西端に位置する遺跡のうちのひとつである。(略)
 矢野遺跡からは鮎喰川の対岸に位置する名東遺跡では、晩期後半の突帯文土器がみつかっている。なかには稲籾の圧痕をもつものがある。栽培をおこなっていたのか、交易によるのかはわからないが、すでに米を入手していたことはまちがいない。しかしながら、石棒の出土からもわかるように、縄文時代特有の伝統的な儀礼をもおこなっていたことがうかがえるのである。
 眉山北麓の佐古浄水場内にある三谷遺跡からは自然窪地中に形成された貝塚から、自然遺物とともに多くの資料が出土した。注目すべきは、大半を占める突帯文土器に少数の遠賀川式土器が伴うことである。炭化米も出土しており、弥生文化と接触をもっていたことは確実である。ところが、多量の石棒や七体にもおよぶイヌの埋葬から、この集団が依然縄文時代以来の伝統的な儀礼や生活習慣を堅持していたことが理解できるのである。また、東日本系の土器も多数出土した。
なお、後に弥生時代前期の拠点集落となる庄・蔵本遺跡からも、突帯文土器が若干出土している。


石棒の流通と結晶片岩
 三谷遺跡で出土した石棒は、大きいもので長さ65センチ以上、断面径約七センチをはかり、結晶片岩を素材とする。結晶片岩は三波川変成帯で産出する石材である。なかでも、吉野川流域は、紀ノ川流域や埼玉県の秩父地方などとともに著名な産地の一つとして知られている。産地が限定されているため、流通を考える際に有効な資料といえるだろう。
 石棒はおもに東日本で盛んに用いられた文物である。後藤信祐によると、縄文時代後晩期に属する石棒のほとんどが近畿地方以東に分布するという(後1986)。中・四国、九州でもしばしばみつかるが、それを多用する地域としては吉野川下流域が西端に位置するとみてよいだろう。また、そうすると、産出地近くの遺跡で製作されたものが近畿一円に供給されたことになる。注目すべきは、三谷遺跡で敲打痕を残す未製品と、この成形に使用した可能性のある敲石が出土していることである。石材はすぐ裏山の眉山で容易に入手できるので、付近で石棒を製作していたことはほぼ間違いないとみてよいだろう。問題はこれらが集団内でのみ消費される目的で作られたのかどうかである。大下明によると、近畿地方では突帯文土器にともなう石棒の多くが結晶片岩製であるという(大下1988)。そして、これらが製作工程を満たすことなくほとんど破損していることからみて、儀礼に使用する目的で製作地から供給を受けていた可能性が高いのではないか。結晶片岩は紀ノ川流域でもとれるが、地理的にみて摂津や播磨のそれが、吉野川下流域からの搬入品である可能性は十分に考えられる。また、当時稀少品であった東日本系の土器も、こうした交易によってもたらされたものであろう。このように、縄文時代晩期後半の吉野川下流域は、物質・儀礼の両側面において、近畿地方とのつながりを持っていたことがわかる。

弥生時代がはじまったころ
いつから弥生時代か
弥生時代前期の西日本
水田
大陸系磨製石器
環濠集落
墓制
(略)

吉野川下流域の弥生時代前期
弥生時代前期の土器編年
庄・蔵本遺跡の概要
(略)

弥生文化伝播の時期と前期社会の特色
縄文人と弥生人の「共生」
 弥生時代前期の文化は北部九州で形成され、多少の時間差を持ちながら西日本一帯へと伝わったが、吉野川下流域へはいつごろ伝わったのであろうか。
 縄文時代晩期最終末の名東遺跡の土器は、近畿地方の最終末である長原式に並行すると考えられる。次の三谷遺跡と第一段階の遠賀川式土器を比較すると、若干三谷に古い要素が認められるものの多くの特徴が一致し、ほぼ同時期に作られたことがわかる。これらは近畿地方最古の弥生土器である神戸市大開遺跡や東大阪市若江北遺跡、八尾市田井中遺跡の古い時期の土器と同じころのものであろう。これを手がかりに西方の土器との並行関係を探ると、第一段階の土器は吉備や讃岐、伊予、土佐以西の第二番目の土器に並行することがわかる。すなわち、吉野川下流域は、同じ四国の讃岐・伊予・土佐や吉備などより一段階遅れて、摂津や河内と同じころに弥生時代を迎えたことになる。
 このように、三谷遺跡と庄・蔵本遺跡の第一段階はほぼ同時期の所産である。しかし、両者の文化内容は好対照を示している。三谷遺跡では多量の突帯文土器と少量の遠賀川式土器が共存し、石器はすべて縄文時代のものである。また多量の石棒の出土やイヌの埋葬が示すように、縄文時代特有の儀礼をおこなっていたこともわかる。一方、庄・蔵本遺跡の第一段階はほとんどの土器が遠賀川式土器であり、突帯文土器の出土はまれである。すでに環濠が掘削されていたし、箱式石棺墓・配石墓なども造られていた。以上のことは、異なる文化を持つ集団同志が「共生」(一般的には「棲み分け」と呼ばれているが、行動範囲を共有し、互いに交渉を持つ以上は「共生」とすべきである。)していた可能性を示している。突帯文土器を作る伝統の中から遠賀川式土器が生まれたとは考えられないから、三谷の集団は庄・蔵本遺跡から遠賀川式土器の供給を受けていたのかもしれない。また、両遺跡はわずか八〇〇メートルの距離にあるから、生活圏を共有していたことは確実である。なお、今のところ突帯文土器と第二段階の土器との共存は確認されていない。「共生」は短期間の特殊な現象だったのだろう。これと同様な現象は河内などでも確認されている(中西1984)。
 もし、前期の集落が当初の規模を維持し続けたのなら、両者はもう少し長く「共生」していただろう。しかし、先述のように前期の集落はとどまることなく生活圏を拡大し続ける。生活の場を奪われた縄文人にとって、伝統的な社会・文化を維持することはもはや不可能であった。
(略)

石器生産遺跡、そして拠点集落としての庄・蔵本遺跡
(略)

吉野川下流域と近畿地方のつながり
 吉野川下流域は、縄文時代晩期にすでに結晶片岩製の石棒を通して近畿地方と深いつながりを持っていたことはすでにのべた。また、前項で説明したように、弥生時代前期においても大陸系磨製石器を近畿方面に供給していた可能性が高いことから、鉄器が普及するまでは石材の流通範囲は、遺物の性格や交易の形態を問わなければ、吉野川下流域では縄文時代以降あまり変化しなかったということができよう。これは、交易にたずさわった人々、つまり弥生文化の担い手の多くが基本的に在来の人々であったことを示している。弥生時代のはじまりが、讃岐や吉備、土佐より一段階おくれて摂津や河内と近い時期にあるというのも、単なる地理的・気候的な問題ではなくおそらく縄文時代晩期後半の人的交流や交易網を反映したものであろう。さらに近畿地方と吉野川下流域とのつながりは、方形周溝墓の造営や銅鐸の埋納をさかんにおこなうことからみてその後も継続していったことがわかる。
 先に述べたように弥生時代開始当初は大陸色・北部九州色が強かった。そこから、つい弥生文化の形成と伝播にかかわった移住者に目を奪われてしまう。しかし、弥生時代の歴史的位置を考える前提として、縄文時代晩期後半にあった交易や儀礼を通しての人的交流にも十分配慮しておく必要があると思うのである。

イヌとのつきあい
(略)

戦いのはじまり
(略)
 以上のような事実は以外にも深刻な問題をわれわれに投げかけているのである。縄文時代を理想郷視する気は毛頭ないけれども、果たして戦いや差別が根づいた弥生時代は本当に縄文時代より進歩したといえるのだろうか。そうしてこれは同時に、われわれの生きる現代社会に対する問いかけでもある。

参考文献
大下 明 1988「第4章 第8節 2石器・石製品について」『伊丹市口酒井遺跡 ―第11次発掘調査報告書―』(財団法人 古代学協会)
後藤信祐 1986「縄文後晩期の刀剣形石製品の研究 上・下」『考古学研究』第33巻第3号・同第4号
中西靖人 1984「前期弥生ムラの二つのタイプ」『縄文から弥生へ』(帝塚山考古学研究所)

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