「石棒」・「石剣」と「磨製石剣」

 縄文時代に特有の石器である石棒が、弥生時代の遺跡から出土することは早くから注目されていた。1943年の『大和唐古弥生式遺跡の研究』において、小林行雄氏が、石剣・石棒類の比較的扁平な小型品と、やや大型のものが、弥生前期の竪穴から出土することに注意している。
 1975年に佐原真氏は、山内清男氏提唱の、著名な「弥生文化の三要素」のうち、縄文文化からの伝統として伝わらなかったものとして、「青竜刀石器・多頭石斧・独鈷石・石冠・御物石器などの呪術とかかわる特殊石器の大多数」をあげ、 「石剣・石棒は畿内に前期に」実例があるとしている。
 ここで注意すべきは、佐原氏が縄文時代の呪術とかかわる特殊遺物の大多数を「縄文文化の伝統として伝わらなかったもの」としている点である。すなわち、弥生前期の「石剣・石棒類の実例」を、「縄文文化の伝統として伝わったもの」に分類していない。換言すれば、混入や再利用の危険性を払拭しきれないとみていたのである。これは小林行雄氏も同様と考えられ、石棒の後世における再利用を指摘するとともに、縄文時代のものを「石剣」、弥生時代のものを「磨製石剣」と区分することを提唱しているのである。
 以上の見方は今日でも大きく変える必要はあるまい。縄文後期後葉から晩期中葉頃の代表的な遺跡で石刀がまんべんなく出土し、未製品がまとまって出土する遺跡が各地で散見できるのに対して、圧倒的に遺跡数・遺物量の多い弥生時代の遺跡での出土例は局所的かつ散在し、数も限られているからである。まして未製品がまとまって出土する遺跡もほとんど管見に入らない。あるとすれば、それは大陸系の磨製石剣が変容して独自の発展を遂げたものであろう。すなわち、甘い鎬を作出し、刃部も明確ではなく、身のやや厚手のものなどは、小林行雄氏の分類にしたがって、「石剣」ではなく「磨製石剣」に区分すべきものである。
 1986年に縄文後晩期の刀剣形石製品を集成した後藤信祐氏の研究成果からみて明確なように、縄文後晩期の西日本に石刀や小型石棒はふつうにみられるが、石剣はほとんどみられないので、西日本の弥生時代遺跡に「石剣」がみつかった場合、第1には「磨製石剣」の可能性を疑ってみるのが穏当といえるのである。
大型石棒についても、縄文遺跡からの混入や再利用をのぞいたものは、綾羅木郷遺跡の例にちなんで、国分直一氏や金関恕氏命名の男茎形石根や男根形石製品などと区分すべきものであると考えられるのである。
 それでもなお、弥生時代の遺跡から「石棒」や「石剣」とよびうるものが出土する「実例」はあって、以下の3つのケースが考えられる。
 ひとつは縄文時代の遺跡とは比較にならない大規模開発をおこなう弥生時代の遺跡の特性によるものである。縄文中期末以後晩期末にいたる遺跡の多くは沖積平野に位置する。弥生時代の遺跡と立地が重なることがよくみられ、用水路や環濠を掘削し、灌漑水田を造成する過程で縄文時代の遺跡を「破壊」し、遺物の混入が頻繁におこるからである。呪術とかかわる遺物と出会った際は、その珍しさから集められるとともに、縄文時代本来の呪術からは離れた再利用もおこなわれたことであろう。
 第2は、中部・東海・関東・東北など、他地域からの搬入が考えられるケースである。縄文時代の呪術系遺物の豊富な地域では、段丘上など安定した地形環境において、長期間オープンな状態で祭祀遺構が露出していた可能性も想定できる。そのような遺跡において採集された珍しい遺物が、遠距離間を移動する可能性も考えられよう。
 第3は、凸帯文土器と遠賀川式土器との併存期に、両者の共伴する遺跡や、凸帯文土器主体の遺跡から遠賀川式土器主体の遺跡へ、接触交易によって移動する場合である。1980年代前半に長原遺跡で結晶片岩製の粗製大型石棒が多数出土した。これを受けて、1985年泉拓良氏は、縄文中期末からの石棒類の変遷を述べるなかで、縄文晩期前半に盛行した「近畿型石剣」が消滅したのち、晩期末に結晶片岩製の粗製大型石棒が展開することを指摘した。その後1988年大下明が、近畿地域各所で凸帯文土器にともなって結晶片岩製の粗製大型石棒が特徴的に展開することをあきらかにし、小林青樹と中村豊の集成の成果として、これが近畿から東部瀬戸内海一帯に広く展開することがあきらかになったのである。

 当該期のこれ以外の石棒類は、上記第1、第2のケースと「磨製石剣」をのぞけば、この結晶片岩製石棒がこの時代・地域を代表する呪術系遺物となるのであって、この時代背景から縄文時代の終末を叙述するうえでの鍵となるのも、この結晶片岩製の粗製大型石棒であって、実態の曖昧な他の文物でないことは明らかだ。

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