東四国における弥生文化の成立      2000年2月『弥生文化の成立−各地域における弥生文化成立期の具体像−』埋蔵文化財研究会   中村 豊

 Ⅰ はじめに
 東四国における弥生文化の成立は、ここ10数年の間に相次いだ3遺跡の注目すべき発掘成果によって、ようやくその様相を検討しうる段階に達したといえるだろう。ひとつは徳島市名東遺跡であり、次は同市三谷遺跡、もうひとつは同市庄遺跡である。この3遺跡はわずか数100mの距離に位置しながらもそれぞれ個性的な内容をもっている。名東遺跡は典型的な突帯文土器単純の遺跡である。三谷遺跡は突帯文土器と遠賀川式土器とが共存して出土し、石鏃・打製石斧・石棒といった縄文時代特有の石器を製作・使用している。また7体にもおよぶ犬の埋葬は圧巻であった。庄遺跡は、遠賀川式土器が単純に出土する遺跡で、遠賀川式土器前半期の様相は、環濠・灌漑用水路・水田・列状に配置された墓域それぞれをそなえた典型的な弥生集落であった。今回の発表では、吉野川下流域の3遺跡に焦点を絞って、どのような変遷をたどって弥生文化の成立へといたったのか考察しよう。(略)

 Ⅱ 土器の変遷
 1縄文時代晩期後半の土器の変遷
(略)
 三谷式の際だった特徴は、遠賀川式土器の出土もさることながら、東日本縄文晩期の精製土器を模倣した土器がともなうことである。名東遺跡ではどちらも存在しないわけだから、この事実は偶然の所産とは思えない。遠賀川式土器の成立と展開は、西日本だけの変動ではなく、列島規模の人・文物の移動をともなったものだったのではないだろうか。(略)

 2弥生時代前期前半の土器
(略)

 3三谷式新段階とⅠ-1様式の比較
 ここでは、三谷式新段階とⅠ-1様式との関係を整理する。焦点はこの両者を前後関係とみるのか、あるいは併行と考えるのかである。
 三谷式新段階とⅠ-1様式は、前者が突帯文土器と遠賀川式土器とが共存して出土するのに対し、後者は遠賀川式土器単純であるという相違点をもっている。ところが、両者の遠賀川式土器を比較すると、多くの共通点を指摘できるのである。すなわち、段・削り出し突帯・少条沈線を施す壺、段・少条沈線を施す甕とその内容は基本的に同一と判断できるものである。したがって、三谷式新段階とⅠ-1様式は、異なる土器相であるが、併行すると考えるべきであろう。
 今までのところ、三谷式古段階にともなう遠賀川式土器に対応する単純の資料はみつかっていない。また、三谷式新段階に後続する突帯文土器や、これとⅠ-2様式との共存も確認しておらず、縄文土器と弥生土器の併存は、1型式内におさまると考えるのが妥当であろう。

Ⅲ 石器
 ここでは、東四国における縄文から弥生への石器の変遷を、石材の問題を加えて検討する。また、名東・三谷両遺跡では、未製品を含んだ結晶片岩製の石棒が異常なほど多量に出土している。東四国は三波川帯という結晶片岩の産出地にもあたり、地域色を活かした課題として、石棒の生産と流通についてとりくみたい。

 1縄文時代晩期後半の石器
(略)
 三谷遺跡では、総計143点中石鏃が82点、打製石斧が23点、石棒が20点とこの3器種で全体の87%を占める。打製石斧と石棒の多さが目立ち、石棒の多さは異常でさえある。打製石斧・石棒は中流域の三好町大柿遺跡(図7-1〜5)でも顕著で、東四国全域で一般的なありかたであった。
 2弥生時代前期の石器
(略)

 3結晶片岩製石棒の生産と流通
 西日本の石棒は、縄文時代中期末に大型のものが伝来し、その後小型化・精製化をとげ、晩期のはじめごろ石刀へと変化し、終焉を迎えたと考えられてきた。ところが最近、大阪湾沿岸地方を中心とする地域で、突帯文土器にともなって結晶片岩製(泥質片岩・紅簾片岩が多い)の大型粗製石棒が相次いで発見されている。すなわち、縄文時代の最後に再び大型粗製石棒を用いた儀礼がさかんにおこなわれるようになったのである。ここでは、これらがどこで生産され、流通したのか、またどのような歴史的意味をもつのかについて考えてみたいと思う。
 突帯文土器の直前である篠原式のころまでは石刀や精製の石棒が主流であり、これらは粘板岩やホルンフェルスを素材としていた。滋賀里Ⅳ式や船橋式といった突帯文土器の古い段階の遺跡からは結晶片岩製の粗製石棒が出土するが、あまり多くない。結晶片岩製の粗製大型石棒が盛行するのは長原遺跡・口酒井遺跡・大開遺跡など(図8)長原式から弥生前期でも初期のころであり、ちょうど名東・三谷両遺跡の時期に相当する。
 先に記したように、名東・三谷両遺跡ではそれぞれ4点・20点と異常ともいえるほど多量の結晶片岩製石棒が出土している。中には未製品(図8-1〜3)もみられること、完形品が多いことから素材の産出地でもあるこれらの遺跡で集中的に生産されたとみて間違いないだろう。他地域ではほとんどが破損しているし、未製品も存在しないからである。もちろん一部が和歌山・奈良南部といった三波川帯に属する未発見の遺跡で作られた可能性は残るが、現状の分布からみて、相当数が吉野川下流の眉山周辺で作られたものとみてよいだろう。現時点での私の集成(図8)では、四国の他県や岡山でも数点ずつみつかっているが、より多くのものが出土する地域は兵庫南部地域から大阪湾沿岸地域であり、これらの地域がおもな供給先であったとみて間違いないだろう。
 問題はなぜ、晩期の終末から前期初頭という時期に石棒を用いた儀礼が盛行したのかというところである。遠賀川式土器が伝わるとともに、突如として東日本系の精製土器が出土することはすでに述べた。これと同様に新しい儀礼・社会のしくみが伝わったことに敏感に反応して、縄文社会を維持しようとする意識がはたらいた結果、伝統的な儀礼をさかんにおこなうにいたったのではないだろうか。
(略)

Ⅳ 遺構について
1縄文時代晩期後半の遺構
(略)

2庄遺跡の弥生時代前期の遺構(図11)
(略)

Ⅴ まとめ
1「共生」はあったのか
 すでに検討したように、最も新しい縄文土器である三谷式新段階と最古の弥生土器であるⅠ-1様式を比較した結果、両者は併行するという結論にいたった。これは、積極的に遠賀川式土器とそれにともなう文化を受容していった人々と、これらに一定の距離を置き、石棒を用いた儀礼をさかんにおこなって縄文に固執した人々が「共生」していたことを示しているのではないか。遺構・石器のところで検討したように、三谷遺跡と庄遺跡の違いは大きいと考えねばならない。この変化を突如として起こったものと考えるよりは、この両者が一定の関係を保ちつつ試行錯誤した結果、拠点集落とも呼びうるような典型的な弥生のムラが成立したという流れを想定する方が理解しやすいと思う。

2結晶片岩製石棒分布の示すもの
 縄文時代晩期の終末から弥生時代前期の初頭にかけて、東四国産の結晶片岩製石棒が大阪湾沿岸地域を中心にさかんに流通する。この結晶片岩製石棒の分布という形であらわれた、西方の諸地域ではみられなかったほど強い縄文社会に固執する動きは両地域の密接な関わりを示している。さらに、最近注目されている、近畿地方の弥生時代前期初頭の遺跡から金山産のサヌカイトが出土するという事実も、この延長上に捉えることはできないだろうか。なぜなら、東四国において、石材の利用は、縄文から弥生にかけてスムースに移行するからである。すなわち、近畿地方の西方に位置する東四国が、近畿地方へ弥生文化が伝播するにあたって果たした役割は非常に大きかったと評価すべきであろう。
(略)

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