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自分を起業に向かわせた、唯一無二の才能の話。

以前、起業したときの話をnoteに書いたところ、割と反響があったので、今回は、自分を起業に向かわせた大きな要因について、書いてみようと思う。

起業したのは、自分のやりたいことをやり切るためだった。

起業すれば、自分のやりたいことができる。
それを目の前で示してくれたのが、当時私が在籍していた株式会社Xavel(ゼイヴェル)の社長、大浜さんだ。

大浜さんは魅力のある人だった。
一言で言えば、独創的で鋭く面白い。

それも、そんじょそこらの「面白い」ではない。

想像を絶するような発想力をもっていたし、そこにあるストーリーが素晴らしかった。常に先を見越していて、絶対に成功するなと確信させるものを持っていた。

私はいつも、有無を言わせない詰将棋を見せられているような気持で、大浜さんの話を聞いていた。
圧倒的な一手が繰り出され続けた。

私は出会ってすぐから、大浜さんという人間に魅了され、この人の考えていることを実現させたい、自分の力でこの人を有名にしたい、と思うようになった。

こんなに影響を受け、ついていこうと思えた人は後にも先にもいない。
いまでも私にとって特別な人だ。

大浜さんがどんな人かと聞かれると、いつも話すエピソードがある。

ゼイヴェル時代、社員は皆、社外の方との会食を禁止されていた。
食事に誘われてもいってはいけない。
飲みに行くのももちろんダメだった。

理由は、情報が洩れる。真似される。

当時注目を集めていた企業だったこともあり、他社から情報を取りに来られる可能性を考えて、大浜さんはそういうルールを作っていた。

絶対的な秘密主義。
競合になりうる他社との交流は、一切取らない、取らせない。

もちろん関係する取引先との打ち合わせなどはあったが、それもこちらがどうしても商品を取り扱わせてほしい時などを除き、極力来てもらっていた。

それだけ当時のガールズウォーカーというメディアが強かったということもある。社外に出て行かなくてはいけないシーンがとても少なかった。

大浜さんのこのやり方は、自分にもすっかり浸透していた。

ゼロイチで始めた会社が、目指した「イチ」に到達するまでは、誘われようと会食になど行ってはいけない。
いつしか自分もそう思うようになった。

大浜さんの秘密主義は徹底していた。
ある夜、「気分転換に外に出て打ち合わせをしましょう。」ということになったので、カフェか、時間的にはどこか話のできるようなレストランにでも入るのだろうと思って付いていった。

ところが着いたのは近所の公園。
缶コーヒー片手にベンチで打ち合わせが始まった。

西麻布にオフィスを構える会社に勤めていて、打ち合わせに連れていかれるのが公園だなんて、よもや思いもよらない出来事。
最初は冗談かと思った。

だが大浜さんは至って本気。
業界人や経営者も多く集う街だからこそ、カフェやレストランで話をしていて、誰かに聞かれたらアイディアを盗まれる、というのだ。

同様に、メディア情報なども、誰がどこまで関わるのか、徹底的に管理がされていた。

そこまで気を張って、徹底的に自分のアイディアを守っていたのは、それだけ自分のアイディアに自信があったからだと思う。

実際に大浜さんのアイディアは素晴らしかった。社会を動かす特別なアイディアが次々とでてきた。
その才能に、社員はみんな引っ張られていた。

夜遅くまで働くことも、厭わない。

WEBメディアという24時間稼働しているものを相手にしていたということもある。ユーザー目線で考えると、就業時間の中で収めるのは難しい。

影響力のある何かを生み出したい、大浜さんのアイディアを実現させたい。
そういう熱のあるメンバーが集まっていたし、エネルギーにあふれていた。

みんなが「もっとやれる」と満足することなく、立ち止まらずに稼働していた。

今だったら労働時間の観点などから問題になってしまうのかもしれない。

でも当時はみんな、そういうことよりも結果を出したくて必死だった。
一日一日が勝負で、どこまで伸ばせるのか、どこまで駆け上がれるのかと、大浜さんのイメージする「イチ」を作り出すことに注力していた。

そこに強制的な何かはなかった。
みんな好きでやっていた。

自分自身のことを言えば、PVなどの数字がとにかく気になっていたし、ずっと見ていた。どうすればもっとよくなるか、どうすればもっと面白いか、ずっと、考えてもいた。
大浜さん云々もあるが、それ以上にやっていること自体も好きだったし、仕事が楽しかったのだ。

大浜さんは秘密主義で、気の配り方もとがっていたが、信じられないぐらい大胆なところもあった。

これと決めたコンテンツに関しては普通ではしないような投資の仕方をし、リスクがあっても平気で突き進んだ。

やるやらないを決定するのもとても早く、検証したり相談したりと、まだ時間がかかるようなところをすべてとばし、大浜さんの一存で即決していく。

周りの社員は決断されたことに実態を合わせていくのに必死だった。

次から次へと大浜さんの決めたことが降ってくる。
毎日がお祭り騒ぎで、落ち着くことは決してない日々だった。
忙しかったし、大変だったけれど、刺激的で楽しかった。

今から思えば社長であると同時に、クリエイターであり、アーティストだった。

まるで指揮者のように、社員を自分のタクト1つで操り、奏でさせた。
会社は大浜さんの感性にゆだねられた状態。
周りは次の一手を予想しながら常に大浜さんが止まってしまわないように、努力していた。

大浜さんが止まってしまったら、会社にとって大きな損失だと全員が認識していたし、大浜さんからでるアイディアをみんなが待っていた。

大浜さんにはそれができるカリスマ性と引っ張っていく力、統率力があった。
そばにいて私はそれを誰よりも感じていたと思う。
同じことを別の誰かがしても、同じ結果は得られない。

私は大浜さんという圧倒的且つ唯一無二の才能を前に、たくさんの事を学びつつ、自分でもやりたいことを膨らませていった。

ただ、大浜さんのもとにいては、大浜さんを越えて自分のやりたいことは通らない。

大浜さんのように、自分のしたいことをやり通すためには、自分自身が責任をもって自分の意見を通せるような立場に立たなくてはならない。

逆に言うと、起業すれば、自分のやりたいことをやりきれる。
私は大浜さんの背中からそれを学んだ。

私は大浜さんと同じタイプではない。だが自信はあった。
自分なりのやり方で、自分のしたいことをやり通す会社を創ろうと決めた。
そして、大浜さんのもとで雇われている状態から、卒業することを決めたのだ。

私にとって、大浜さんとの出会いは人生を左右した大切な出会いだった。
たくさんの学びをくれ、私を起業に導いてくれた。

22年たった。次また会えたら、何を話そうか。
その時までには、起業家として活躍できたと言えるようにやり切りたい。


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