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母の夢、歯医者、痛み

少し遠くの歯医者に通っている。高校の後輩が最近開業したばかりで、最初の頃は“昔のよしみ”で行っていたが、今ではその腕のよさと施術の丁寧さを理由に通院するようになった。

施術中、ゴム手袋から飛び出た数本の毛が無影灯に金色に染められるのをぼんやりと見ながら、私は数日前の夢を思い出していた。


幼少期を過ごした八王子の家にいて、私は洗濯機を回そうとしている。

誰かが家に帰ってきた音が聞こえる。

母だった。母らしからぬ派手な化粧をしていた。両頬のところに3センチほどの幅で真横に、まるで天の川みたいにご飯粒やらグリンピースやらひじきやらが浮き上がっている。私はそれを見て、母の命があと数日、あるいは翌日までであることを知る。

「ファンデは◯◯で、チークは△△、アイシャドウは…」

母はブランド名をまくしたてる。

「もう会えないと思った!」

私は大声で泣きながら母に歩み寄る。そして

「一緒に写真撮ろう」

といってセルフィーを何枚か撮る。

気づくと母はすでにいなくなっている。母が入ってきた玄関の扉は開け放されたままだ。


あと2週間ほどで母が亡くなってちょうど1年となる。昨年の今頃は痛み止めの影響でかなりボケていたはずだ。あの「猫ちゃんのフラワー」が飛び出したのもこの頃のはず(下の記事を参照)。

夢の中の変な化粧は、その当時の母の痴呆を象徴していたように思う。それまでほとんど化粧もなかったし、ブランド物なんて全く持っていなかった彼女が、わけもわからずに長ったらしい名前のブランドの化粧品をやたらめったら使うというのが普段の彼女のありようと対極に思われたのだろう。また、頬に浮き上がった食べ物は食事を受け付けなくなった彼女の身体を表していたはずだ。そして、気丈に振る舞う姿は、彼女が最期に見せた、生きることへの執着、生の煌めきだったのだろう。


では写真はなんだったのか?


歯医者は嫌いだ。気持ちよくなることはなく、そこには痛みしかない。私たちは、より痛みが少ないところを選ぶ。なんとも消極的だ。

私は痛みが嫌いだ。母もそうだった。だから母が末期癌の治療を放棄して緩和ケアを望んだ気持ちが私には痛いほど理解できた。

歯医者で麻酔をされながら私は、骨転移した癌の痛みを想像していた。介護中にあれだけ痛み止めを投与しているのにそれでも母の顔を歪めさせたその痛みを、私はどうやっても知覚することができない。


麻酔を打つときの一瞬のチクリ以外はその日は特に痛みを感じることもなく終わった。ただ私は、高校の後輩がどれほど腕のいい歯医者であるかをきちんと理解していながらも、いつ何時何かしらが麻酔をかいくぐった神経に触れ、私にあの忌々しい痛みをもたらすかにビクビクしながら横たわっていたので、知らず知らずのうちに力が入っていたのだろう。帰る頃にはぐったりと疲れてしまっていた。

帰りの電車の中でふと、夢の中の写真のことについて思い当たることがあった。もっと思い出を残しておけばよかった、という後悔だったのではないか、と。一緒に旅行に行ったり、食事に連れて行ったり、それこそ写真を撮ったり…私は一般的に「親孝行」といわれるあれこれをきちんとしてこなかったように感じているのかもしれない。

そもそも旅行や外食をあまりしない家庭であったこと、就職した会社をすぐに辞めてフランスで貧乏学生を長くしていたこと、母の体調がずっと優れなかったことなど、それに関する言い訳は山ほどある一方で、きっとちょっと本気になりさえすればいつでもできたはずだ。それを今更になって後悔しているなんて、まさに「親孝行したいときに親はなし」という言葉通りになってしまった。情けないにも程がある。


彼女の旅立ちからあと少しで1年になるという事実を、私はどのように受け止めるべきだろう。長かったような気もするし、あっという間だったと感じなくもない。

夢の中で開け放たれた扉を、私はまだ閉めることができなかった。そういう意味ではまだ完全には私の中の整理は完了していないのだろう。その証拠に、私の中の後悔はいまだにしっかりと残っているのだ。

いつか全てに方がつき、私の手で扉を閉める日がくるのだろうか。そうあってほしいような、でももし閉めてしまったらもう夢の中ですら母に会えなくなってしまうような、揺れ動く気持ちを私は、歯医者で痛みに怯えながら、これからも抱き続けるのだろう。


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