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ダリを待ち侘びて

アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』から100年。展覧会や出版物など、今年はなにかと関連企画があってありがたい。100年の区切りなので、その100年間を振り返ったものや100年前にしぼったものなど、アプローチは幾つもある。

しかし、100年の区切りにちょうど半分の50年前を切り取って振り返ることはあまりないように思う。100年前の記憶を残す人はかなり高齢で人数も非常に限られているし、そこまで行くとその記憶だっておぼつかない。いっぽう50年前はわりと記憶に残っている人が多いから、イメージしやすい。そう考えるとテーマを50年前に設定するのはあながち悪くない。

100周年には、100歳近いお年寄りよりも50歳以降の人生経験を積んだ年代をターゲットに。この月曜日がたまたま敬老の日だったこともあって、そんなことを考えてしまった。その敬老の日に観に出かけた映画こそ、100周年のシュルレアリスムにまつわりながらも50年前を舞台にした映画だった。

美食家ダリのレストラン。

これが映画の邦題で、原題はEsperando a Dalí。ダリを待ち続けて、といった意味で、よくあることだけれど邦題とは結構ニュアンスが違う。ふとベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』を連想してしまう。とすると、もしやダリは登場すらしないのか?

この“待ち続ける”とはどういうことなのか。公式サイトの説明を読めば理解が早いので引用する。

1974年、フランコ政権末期のスペイン。バルセロナを追われた料理人フェルナンドとアルベルトの兄弟は、友人フランソワの伝手でサルバドール・ダリの住んている海辺の街カダケスに辿り着く。彼らを迎えたのは魅力的な海洋生物学者のロラ、そしてその父―ダリを崇拝する、レストラン「シュルレアル」のオーナーてあるジュールズだった。「いつかダリに当店でディナーを」をスローガンに、ありとあらゆる無謀な試みに奔走しながら、情熱を謳い続けるジュールズ。やがてそのカオスはフェルナンドの料理に新たな風をもたらし、世界規模の革命的シェフの誕生を呼ぶことになる。

公式サイトStoryより(原文ママ)

ということなので、ダリ専属のシェフの話ではなく、なんとダリに客として来て欲しいレストランのオーナーの話。待ち続けて﹅﹅﹅﹅﹅いるのはそれが理由だ。

その名もシュルレアル(Surreal)というレストランの内装は、卵、マネキン、柔らかい時計、ロブスターの電話機といった具合に有名どころのダリ作品がこれでもかと並べられている。しかしながら、実際のダリの作品も彼の人生もシュルレアリスムの歴史もまったく出てこない。まっっっったく出てこない。

いや、ダリに心酔し崇拝しているジュールズ氏の口からダリの素晴らしさは何度も語られている。

一度、ダリ来店が期待はずれに終わって、ダリらしい内装を取り去って再出発したレストラン。そこにやって来た批評家が料理を高評価するついでにダリを貶した。ケチョンケチョンに貶した。そのあとのジュールズの反論がケッサクだった。べらんめえ調(そのシーンはフランス語だったけど)のスピード感と猪突猛進ぶりは、まるで手塚マンガのヒゲオヤジだ。

ジュールズヒゲオヤジに語らせたダリ愛は監督のものなのだろう。なお、当時のダリに対する批判を作中に取り入れるなど、映画のなかではバランス感覚も見せている。時代の寵児となったダリは自己陶酔した金の亡者だと一部のシュルレアリストたちからも非難され、シュルレアリストのグループから除名までされていた。

監督のダビッド・プジョル氏はダリのドキュメンタリー映画も撮っている人物である。ダリのこと、シュルレアリスムのことについてはそっちでしっかりやったから今回は省いたということだろうか。

では料理の方は?

作中の主人公フェルナンドはもともとバルセロナの一流レストランの料理長だった。ワケあって海沿いの田舎町カダケスのレストラン、シュルレアルに流れ着く。気まぐれなオーナーに一度は追い出されるも、ブイヤベースの出来栄えが評価されて引き戻される。

わたしはブイヤベースが好きだ。ブイヤベースで米を炊いたようなスペイン料理パエリャをよく作る(下記リンクのnote参照)。ブイヤベースのレシピ、どこかでちらっと出てこないかな……と期待したけど、その期待むなしく料理自体に深入りする演出ではなかった。

プジョル監督はカタルーニャの伝説的な三つ星レストラン、エル・ブジ(elBulli)のドキュメンタリー映画も作っている。だからダリ同様、料理の詳細はそっちを観てねということなのかもしれない。

本作中、そのエル・ブジのメニューも登場する。ダリとエル・ブジ両方のドキュメンタリーを手がけた監督の遊び心か。否、両方のドキュメンタリーを手掛けたからこそできる創作なのだろう。この作品には並々ならない意気込みがあったにちがいない。公開が今年なのは偶然ではなさそうな気がする。彼なりの超現実シュルレアルとして、シュルレアリスム100周年にふさわしい作品を作ったのだと思いたい。

うっかりネタバレに言及してしまいそうなので、少々自制しつつ、やっぱり書けるとこまで書いておく(今更ながら、一応ネタバレのタグ付けはしているので、気にする読者さんはご容赦を)。

今回わたしは珍しく予告動画トレーラーを観ることなく映画館に赴いた。なぜなら公開前にタイトルを知ってから絶対に観ると決めていたから。かならず本編を観るのだからわざわざトレーラーを観る必要はない。

しかし、どうやらわたしは多分に「美食家ダリのレストラン」という邦題から受ける印象に影響されていたようだ。シュルレアリスム宣言100周年のタイミングでダリ。しかも美食家としてのダリである。地中海料理が好きなわたしは、自ずとダリの世界観と芳醇な地中海料理がどうリンクされて描かれるのだろうと期待していた。

サルバドール・ダリ《生きている静物(静物‐速い動き)》(生誕100年記念ダリ回顧展図録より)

しかし、その点では上述のとおり期待はずれだった。期待はずれではあったけれど、先述のとおりダビッド・プジョル監督がダリとエル・ブジの映画も別で制作(しかもそれぞれ複数)していたことを知り、彼なりに集大成となる映画に挑戦したのではないか、と思えるようになった。ダリと料理、それぞれには深入りしないままだったが、これらを材料にして描かれたのは何だろう。

冒頭から、フランコ政権の強権的で抑圧的な時代背景が映し出される。劇中のスペイン国旗には黒い鷲が描かれている。

苅安望『歴史がわかる!世界の国旗図鑑』(2018年、山川出版社)よりスペインの国旗変遷

ジュールズがダリとともにレストランの顧客にと夢想する憧れの人物は、英国のロックスター、ローリングストーンズとデヴィッド・ボウイだ。英米の文化が届いていても、彼らの来訪は憧れでしかない。そんなところも当時のスペインらしさだろう。

史実では翌年にフランコ総統が没し、王政復古。スペインはほどなくして民主化する。フランコ政権末期の腐敗、遅れて来たヒッピーカルチャーの活気と猥雑さ、平和を愛するいっぽうで凶暴性を帯びる彼らの矛盾が、混沌とした時代を記録するかのように描かれている。その混沌(カオス)を包み込むように、絶対的に美しく風光明媚なポルト・リガート、新鮮な海産物や野菜の数々、そこに息づくカタルーニャの人々の暮らし。

使用される言語はスペイン語とフランス語。主要な登場人物は言語を切り替えながら話す。わずかだけれど地元のカタルーニャ語、そしてダリ夫人のガラがロシア出身ということでロシア語も出てくる。この言語の混在ぶりも、映画の舞台のカオスっぷりを象徴しているようだ。

このカオスが物語後半のキーワードになっている。現代のバルセロナなど芸術都市がそうであるように、さまざまな人や物の混じり合う混沌とした状況は魅力的な文化を生む。人類と世界を長い歴史と地球規模で眺めれば、その多様性は混沌として見える。メタな視点から独自の世界を生み出したダリ。クリエイティブな料理を生み出したエル・ブジ。おそらくはそのエル・ブジをヒントにレストラン“シュルレアル”とシェフのフェルナンドが描かれている。やはりこの映画は、カオスである現実の向こう側にある超現実のひとつとして、このレストランを描いたにちがいない――そもそも店名がシュルレアル﹅﹅﹅﹅﹅﹅ではないか。

作中、サルバドール・ダリは神格化されたような登場をする。後ろ姿しか見えない。ダリのミューズとなったガラは、ダリの友人ポール・エリュアールの妻だったが、ダリに逢って意気投合し、そのままダリと生活を共にするようになった。この映画のシェフ、フェルナンドは友人フランソワを訪ねて、そのフィアンセのロラに逢う。……おっと、書き過ぎてしまった。ストーリーは終盤クライマックスを迎えて、レストラン“シュルレアル”は文字通りのカオスに陥る。そのカオスな状態そのままで、待ち続けた客がやってくる……。

やはりシュルレアリスム100周年に相応しい構成になっているなぁと、こうしてnoteに綴っていると実感する。

話は逸れるが、ダリのファーストネームであるサルバドールは救世主の意味だ。ベケットのゴドー(Godot)に神(God)が仄めかされているように、これもまた何かの仄めかしに思えなくはない。

映画の邦題には、その映画そのものの意図するところだけでなく興行的な理由で選ばれる。ビジネスである以上はやむを得ないところもあろう。しかし期待した観客の失望を必要悪としてわずかな収益を求めるのは、映画ファンへの裏切りであり、映画作品そのものと映画制作者に対する冒涜ではないか。

……ちょっと書きすぎた。わたしは少なくともその邦題に惹かれてこの映画を観に行ったのだった。関係者の方々もいろいろと葛藤があるはずだ。そんななかでもこうして観に行くきっかけを作ってくれているのだから、その点には感謝しなくては。

わたしなら原題に忠実に「ダリを待ち続けて」とか「ダリを待つ」にするだろうか。ゴドーを待ちながらを意識して「ダリを待ちながら」にするのもありか。いやそれではパロディみたいだ。ダリを崇拝するジュールズの気持ちを思えば「ダリを待ち侘びて」あたりが落としどころかな…。

シュルレアリスム100周年と言い続けている割に、わたしはまだ大したことができていない。わたしこそが自分にインスピレーションが降りてくるのを待ち侘びているのかもしれない。

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