見出し画像

京のお宿で二兎を追う

半月前に告知したとおり、京都は二条にある京宿うさぎさんの「うさぎフェスタ」に参加させていただいた。

ほかの地方のかたにはあまり想像がつかないようだけど、わたしの出身地の大津市と京都市は隣接していて生活圏が重複している。だから今回の京都でのイベント参加は里帰りするかのような感覚だ。

ところが京都駅よりも西寄りだと大阪とのつながりが強く、大阪の人びとにとっては滋賀は遠いという感覚らしい。そういえばおなじ京都市内でも、滋賀の者には京都駅で電車を乗り換えて行く二条は心理的にちょっと遠い。不思議なものだ。関東で言えば渋谷から見た千葉みたいな感覚だろうか。

催しそのものはワークショップ付きのグループ展示に類するものだったけれど、その内容は工芸品など多岐にわたる。わたしと同室だったのはハンドメイドジュエリーの展示。絵画作品としての出展はほかには隣室の木版画のみだった。部屋が広いので、事実上、小規模な個展といったところだ。

わたしが出品したのは過去に発表した10点(内訳は後述)にくわえ、一日一画からオイルパステル画1点、そして今回のために描いたオイルパステル画3点の合計14点だった。

会場は京町家だから、もちろんホワイトキューブではない。京町家の客室にわたしの油絵とオイルパステル画。まわりには工芸品やグッズなども展示される予定だ。素敵な調和がうまれるか、違和感を伴ったデペイズマンがうまれるか、それら両方か。

作品のなかのメタ的要素にくわえて、展示空間としての意外性と調和。じつはまだすべての作品が出来てはいないのだけど、自分でも楽しみにしている。

5月13日付け拙note「【告知】京都のお宿がギャラリーに」より

先月の告知でこう書いていたように、京町家の展示空間が調和を生むか違和感を生むかがわたしの関心事だった。個々の作品だけでなく展示空間もあわせて見れば、今後の方向性のヒントが得られるかもしれない。調和か違和感かの興味にはそんな目論見もあった。

うさぎフェスタはわたしの拠点から離れた関西での開催なので、西日本のみなさんに観ていただくのもまた別の目的だった。実際、嬉しいことに高校時代の旧友、母親とご近所さん、関西に住んでいる元同僚も来てくれた。元同僚のひとりは2日とも来てくれた。まことにありがたい。

そして展示即売なので買っていただければありがたいのはもちろんなのだけど、今回は初めての会場ということもあり、そこは重視しなかった。むしろお客様や主催者、ほかの出展者さんたちとのネットワークづくりのほうを優先した。

さて、その京宿うさぎさんでのわたしの展示はどうだったか。百聞は一見に如かず。写真を載せておこう。

このnoteの見出し画像にしたのは、京宿うさぎの入口。引き戸をガラガラと開けるとレセプションがあり、右手に1階と2階、同じく左手にも1階と2階にスイートルームがある。これら4部屋が展示会場。普段は宿泊しなければ見られない室内が公開されているので、そう考えると貴重な機会だ。わたしが使わせてもらえたのは右手1階の「お庭」の一室。

上:掲示されていた出展者案内。 下:「お庭」前の案内。

カフェコーナーで飲めるスペイン産サングリアはスッキリして美味だった。湿度はあきらかに違うはずだけど意外と夏の京都と相性が良いと思ったスペインの味。

ありがたいことに床の間を使用させていただいた。

部屋の中央の長いテーブルは掘り炬燵になっている。ちょっとした歓談や休憩にもちょうど良い。

床の間にF20号の《早春の石山寺》を飾った。ちょうど良い大きさだ。こうした空間に展示するにはこのサイズが限界だろう。持ち運ぶのもこれが限界。なお、この絵はアブダビとローザンヌのアートフェアに出品して審査員特別賞を受けた作品。

床の間に額装した油絵というのも悪くない。

右側の地袋と違棚には小品をならべた。

地袋にはシリアで買ったペイズリー柄のスカーフを敷いたのだけど、これが測ったかのようなピッタリサイズ!その上に2021年の個展「マザー・オブ・パール」でも展示した小品8点を並べた。違棚には一日一画で描いた茶碗の絵を控えめに(ほぼ背景に同化)、そしてオイルパステル画の新作2点を並べた。同室で中庭に面したスペースには、ハンドメイドジュエリーのSINRAさんが出展されていたのだけど、共通するモチーフの作品があったので出張してきてもらった。

こうして見ると色合いがまとまっているので、この空間にとても馴染んでいる。

左上の木箱に入った出張ジュエリーたちの写真を撮っていなかった!ので簡単に説明すると、地袋のアコヤガイと真珠のモチーフにちなんだ白蝶真珠のイヤリングなどと、ぬめっとした質感のナマズやカエルのシルバー小物が置かれていた。ウォーターメロン・トルマリンのスライスを使ったジュエリーもあり、それは言わずもがなウォーターつながりだ。

その右隣の新作2点はアマガエルとヤモリの絵。タイトルは《入梅》と《家衛》。それぞれガラスのこちら側と向こう側に張り付いている姿をオイルパステルで描いた。

新作2点と遊びに来てくれたシルバーアクセサリーたち。

ヤモリの絵は壁にかけると、あたかも窓の外にへばりついてその名のとおり家をまもってくれているよう。いっぽうガラスの内側にいるカエルは、「うちに帰るカエル」。日本語ならではの発想で遊んでみたというわけ。

手前のシルバー小物もヤモリやカエル。SINRAさんが以前つくられたもので、搬入時にわたしの絵を見て、初日に持ってきてくださった。こんなコラボレーションが実現するのだからおもしろい。この会場ならではのセレンディピティだ。ちなみに台はフズリナ化石入りの石灰岩で、グリーンの塊は孔雀石マラカイト。なんだかわたしの絵からグリーンのカエルが出てきたみたいでちょっと可笑しい。

アコヤガイの小品たちは、2021年の個展前のnote(現在の固定エントリ)でチラ見せしていたけど、これらすべては載せていなかった。この機会に載せておこう。

正方形のものと横長のものが4枚ずつ。

これらのアコヤガイと真珠をここに並べたのは正解だった。それはまず最初に来場者の目に留まる導線になっていたから。言われるまでこれらが絵だと気づかないお客様がけっこうあった。なかには写真でもなく実物の貝殻が置いてあると思ったかたもいた。

関心をもってくださったお客様に「オイルパステルという画材で描いています」と告げると「えっ、これ絵だったの?」などという返事があり、そこから画材の説明からこのモチーフに込めた思い、わたしの絵画以外の仕事のことなど、話を展開させることができた。これは作品自体に意外性を見てもらえたとも言えるし、わたしにとってはその会話の展開にも意外性があっておもしろかった。

反対側の隅にも2点ほど展示していた。ひとつは、これまた古い油絵の《湖上》。名古屋に住んでいたときに島本画材さんの「小さな絵の展覧会」のために描いたもので、2016年の個展でも展示した。そしてもうひとつが新作のオイルパステル画《きみはこくりこ》。

壁にかかっているのが《湖上》で、台の上のが《きみはこくりこ》。

《湖上》の湖は、わたしが描くと琵琶湖のように思えるかもしれないけれど、これはアフリカのビクトリア湖。ケニア西部での野外調査でよく目にした光景だ。この歴史映画に出てきそうな帆船は、いまも現役で活躍している。だからこれは古のシーンのようだけど現代のシーンだ。ありそうでなさそうで、やっぱりあるという、そんなモチーフ。それはわたしが目指していた“露悪的ではない違和感”でもある。さらに、風を受ける帆の姿には動力となる自然の力にくわえて人びとの知恵と技術が宿っている。

わたしの選ぶ画題に多かれ少なかれある、造形の背後を表現しようとしたモチーフ。これは今回のテーマに最適だと思って、《早春の石山寺》とともに真っ先に用意した。

そして《きみはこくりこ》。こくりこは「雛罌粟」と書く。そう、ヒナゲシである。「こくりこ」はcoquelicot。フランス語だ。

この絵とタイトルは与謝野晶子の短歌から着想した。

ああ皐月さつき仏蘭西フランスの野は火の色す
君も雛罌粟コクリコわれも雛罌粟コクリコ

夫の待つパリまで陸路を旅した晶子が見たのは、一面に咲き乱れるヒナゲシの花。あちらのヒナゲシは燃えるような赤色だ。虞美人草とも呼ばれるヒナゲシだが、その姿にパリの女性を投影している。最後に「われも雛罌粟」と言うように、晶子自身もパリジェンヌを意識している。

ちょっと前、5月はじめに近所に咲いていたヒナゲシ(ナガミヒナゲシ)が綺麗だったので、通るたびに写真を撮っていた。それらを参考にして描いたのがこの作品。

《きみはこくりこ》

左上から右下への対角線で陽かげと陽なたが分かれている。陽かげと陽なたにまたがって点々と咲くヒナギク。人生には陰も陽もつきもの。明るかろうと暗かろうと、そこにあるヒナギクの花はいつも美しくはかない。素敵なメッセージが込められるモチーフだと考えていた。

実はこの額縁にあわせて、金色の色紙を使って別の絵を描いていた。しかし思うように描けなかったのでそれはボツにしてしまった。そういうわけで、大急ぎでこのコクリコの絵を描くことにした次第。あたためていたアイディアではもっと大きな横長の画面のつもりだったのだけど、この正方形の小品も悪くない。絵に対して存在感のある金縁が、虞美人たちを引き立てている。

与謝野晶子の短歌に因んだタイトルが「きみはこくりこ」だけなのは、そのほうがメッセージになると考えてのことだ。リズム的には「われもこくりこ」まで続けても良かったかもしれないけれど、わたしは男性なのでちょっとややこしくなる。

以上がうさぎフェスタでの展示。冒頭付近に書いたわたしの関心事、“違和感をうむ”か“調和をうむ”か。京町家での展示には違和感と調和のどちらがまさっていただろうか。

アンケートでもとれば少しは客観的な判断ができるのだろうけれど、独断的に言うと、かなり調和していたのではないかと思っている。額装の油絵も、両生類・爬虫類も、真珠光沢の貝殻たちも、床の間と違棚に違和感なく収まっていた。とくにアコヤガイの絵は数があったからか、先に書いたように最初に視界に入るアイキャッチとして機能していた。

かと言って違和感というか不思議さはまったくなかったのか。わからない。

告知時にあんな書き方をしていたせいか、宿のかたはもっとデペイズマン寄りの不思議な作品を予想されていたのだとか。だとすれば期待外れだったかもしれない。

伊藤若冲や曾我蕭白など奇想の絵師を受け入れ育んできた京都である。懐の深い京都。わたしはもっともっと挑戦してもよかったのかもしれない。宿のかたの期待は若冲レベルだったかもしれないではないか。

調和か違和感か、なんて言いながらも、じつは二者択一ではなくて。どちらかに振り切るのではなく、それぞれの絶妙なバランスを、わたしは探していたのだと思う。いや、実のところ挑戦らしい挑戦でもなく、ただ迷っていた。どっちつかずの無難な作品を選んで、懐の深い京都に飲み込まれただけなのかもしれない。

調和と違和感という二兎を中途半端に追っていては、一兎をも得ない。なるほど、「うさぎフェスタ」とはよくできたネーミングだ。来年も参加するとしたら、その方向性が見えてきたように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?