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鍋からご飯を炊いて、「ゆっくり生きよう」と決めた朝

普段炊飯器でご飯を多めに炊いて、余ったら冷凍保存をしている。けれど今朝、いつものようにご飯をレンジでチンして食べようと思ったら、ひとつもなかった。ではパンでも食べようかと思ったら、食パンもない。

1日の始まりに思い通りにならないことがあると、スタートダッシュでダッシュを切れなかったような気持ちになり、ああ、今日1日もう終わったな…と思ってしまうのだけど、幸いなことに、今日は休日。めずらしくいつもと同じ時間に起きていたので、時間があった。そしてよく考えれば、お腹が減って減って、今すぐ朝ごはんを食べないともうしぬ、というわけでもない。

…せっかくなので、鍋でご飯を炊いてみようか。

そんな思いつきで、鍋でご飯を炊くことにした。

米を研ぐ。

 今回炊くのは一合分。米を計量カップで一合分計って、おひつの中へいれる。水を入れて、1回捨てる。シャッシャッと音を立てて米を研ぐ。白くなったら捨てる。それを2~3回、繰り返して、お米を浸水させる。

30分から40分浸水させる。

 30分から40分、時間ができた。別にどこにも行く予定はないけれど、パジャマのままもアレなので、着替えて顔をバシャバシャ洗う。化粧水をつける。クリームをつける。まだ時間があるので、気分をあげるため、お風呂掃除をすることにした。水回りをきれいにすると、すっきりする。残りの時間は、読書することにした。失恋した主人公が、実家に戻るシーンから読み始める。

5分水を切って乾かす。

 透きとおっていたお米が、白くなっている。乾かさなくてもいいのだろうけど、なんとなく美味しいお米が炊けそうな気がしたので、そうすることにした。その間、壁にもたれてまた本の続きを読む。主人公は駅の大通りで、スキーがうまそうな、ある男性を見かけていた。彼は主人公に関わっていく、重要な人物である。

それから米を鍋に入れて、大体250mlぐらいの水を入れる。あ、鍋は土鍋とか両手鍋とかではなくて、ごく普通の雪平鍋。確かホームセンターで750円ぐらいで買った。

そういえば、雪平鍋の由来は、在原行平が見初めた松風(まつかぜ)と村雨(むらさめ)という姉妹に塩を作らせるのに使ったところからきている。この時代はもちろん、今みたいにアルミなどなく、土鍋で海水を入れて焼いたところ、雪のような結晶の塩ができたそうだ。ちなみに行平はあの在原業平の兄。プレイボーイ兄弟。

アルミの蓋を少しずらして、最初5分ぐらい中火にする。最初はぷくぷく、と音がして、しばらくしたらボコボコボコ、という激しい音になった。吹きこぼれそうになったので、菜箸をはさんで蓋と鍋の間にすき間をつくった。そしたらあとは様子を見ながら、弱火で20分ぐらいとろとろと炊く。IHコンロなので、火の加減がよくわからない。途中ちらっと蓋を開けると、あわあわだった。米がお風呂に入っているみたい、と思った。お米を気持ちよくさせれば、いいご飯が食べられるんだよな、むふふ。どんなふうになるんだろう、と勝手に想像がふくらんでいく。

そのうち、パチパチパチ、と音がしてきた。実がはじけるような音だ。あまり炊飯器ではきいたことのないような音。これはいいのか、悪いのか。わからなくなって蓋をあけたけど、まだ全然やわらかそうだった。水も残っている。特に何もすることもなかったので、また蓋をした。ご飯ってこんな風に炊けていくんだなあと思った。炊飯器の中でも、自分の知らないうちに、こんなことが行われているんだろう。いつも炊飯器がうまいことうまいことやってくれてんのね、というのは、新たな発見だった。


火を止めて10分蒸らす。


 蓋をあけて、いいんだか悪いんだかよくわからないけれど、ご飯っぽくなってきたので、火を止めて蒸らすことにした。まだやわらかすぎたら、あとで火をいれたらいいか、と気軽に読書の続きをしようと思った。が、ここでハッと気づいたけど、ご飯を炊くことしか考えておらず、おかずを作るの忘れていた。何を食べようと思いながら、コンロから雪平鍋を下ろして、フライパンを置いた。

(おかずをつくる。)

 サラダ油を引いて、フライパンをあたためる。あたたまったら、ハムを一枚、ぺらりとその上におく。じゅうっと音がしたら、コンコンと卵にひびをいれて、ぱかり、とハムの上に割る。弱火で焼く。透明でどろりとした白身がハムの上にのると、そこからどんどん白くなる。けれど黄身にちかい部分はまだまだ。ここからの焼き加減が難しい。ペットボトルのキャップ一杯分ぐらいの水を黄身にかけて、蓋をする。こうすると黄身に膜が張って、やわらかくなるんだよ、とおばあちゃんが言っていた。

わたしは目玉焼きを焼くのが、なんか下手だ。いつも焼きすぎて、黄身が固くなる。理想は、黄身をぷちっと押したときに、ツーっと流れるようにすることだ。それでいて、まわりがちょっとだけかたまっているところが、1番美味しい。目玉焼きをお皿にうつしたあと、玉ねぎと冷凍ブロッコリーが中途半端にあまっていたので、それも焼いてしまうことにした。油をひいて、塩をふる。焼き目をつけて、玉ねぎがちょっと半透明になったら、みりん、ポン酢を少しだけいれて、さっと焼いて、お皿にうつした。

できあがり。


さて、肝心のご飯はどうなってるか、オープン。

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うんうん、若干米がつぶれている部分があるけれど、悪くないと思う。初めてだし、これからどんどんうまくなっていけばいい。いつも炊飯器で炊くご飯は、水加減で硬めになってしまう。本当はこれぐらい柔らかいごはんがいい。一口味見をすると、びっくりした。なんか甘い。炊飯器で炊くよりもあっさりして、甘く感じた。美味しい、と思わず口に出して言っていた。

ということで、今日の朝ごはん。

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もう10時過ぎだ。味噌汁はインスタント。

目玉焼きは箸をぷちゅっといれると、やわらかく黄身がつぶれた。そこに醤油をちょいと垂らすと、黄身のまるい池に、うまく混ざって流れ出た。まだちょっと理想には遠いけど、70点ぐらいかな。

お米は、「さっきのは一口目だから美味しかったんや」とその美味しさを信じられなかったけれど、二口目をぱくりと食べたらやっぱり美味しかった。甘い。噛めば噛むほど、甘くなる。


全部大したことないのに、とても美味しい朝ごはんだった。
朝の光が部屋に差し込んでいる。

ゆっくり作って、ゆっくり食べる。
ああ美味しい、と感じる。

最近そんなことを忘れていた。
というか、それをすることは、なぜか「いけないこと」、のような気がしていた。

そのゆっくりする暇があったら、もっと他にもやるべきことがあるでしょう、もっと自分の人生について考えなさい、なんて批判されるような気がして。

これはご法度、なのだろうか。
ゆっくりすることは、御法度、なのだろうか。

そうじゃないはずなのに、なぜかいつも何かに追い立てられるように生きている。忙しいほうがいい、と思いがちになっている。

わたしはとても動作がゆっくりしているから、それでなくとも流れの早い世の中についていくのに必死で、1日が一瞬で終わってしまう。

昼も夜もよくわからない職場で、「おはようございます」、「お疲れ様でした」って会社出る頃にはもう真っ暗で、出来合いのものを買って食べたら、1日が終わる。

結構これでも必死なんだけど、周りから見たら暇そうに見えるんだろうかとか、自分のゆっくりさは何の役にも立たない、と思うたび、なんとも言えない気持ちになっていた。

けれど今朝、朝ご飯をゆっくり作りながら、ゆっくりすることでしかわからないこともあるのではないか、と思った。

浸水したお米の白さ。あわあわになりながら、お米が炊けてご飯になっていく変化。パチパチパチ、と弾ける音。吹きこぼれそうになるタイミング。そして、あたたかさ。ご飯を口に含んだときの甘み。
炊飯器ではいずれもわからないことだった。


チャンスにくらいつくため、後悔しないため、乗り過ごさないように早く走ることも必要だけれど、きっと乗り過ごすことで見える景色もあると思う。


…何を言われてもわたしはゆっくり生きよう。他の人が見落としているものを、拾っていこう。

ご飯を食べ終えたとき、わたしはそう決めた。

最初は出遅れた、と思ったけど、気持ちの良い1日の始まりだった。


★参考にしたホームページ★



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